2006-01-08

クリップ、クラップス attac 関係リベ記事など

Antisarko_1RESO/レゾ という名の左派グループサイトのアンチ・サルコキャンペーン。
Tシャツも買える。antisarko.net

以下は、attac大本山ル・モンドディプロ、パリ編集部でのお家騒動に関するリベの記事訳出です。

Attac diplomatique à la direction du 《 Monde diplo》
《モンド・ディプロ》編集部へのディプロマチック・アタック

数ヶ月にわたる緊張ののち、アラン・グレッシュはタオルを投げた。ル・モンド・ディプロマティック編集長は11月にその役職を退き、近しいドミニック・ヴィダルも副編集長職を下りた。理由は同じだ。

この2人の男は、ATTAC内で繰り広げられる機関抗争と敵対関係から、同新聞を遠ざけたいと望んでいた。ル・モンド・ディプロマチック編集部と強くつながり、オルター・グロバリゼーションの先駆であるこの組織は内部危機に揺れている。ジャック・ニコノフ(委員長)とベルナール・カッセン(名誉委員長)からなる指導部に対して、その独裁的と判断されたやり方と方向性に異議があがった。

この夏、イグナシオ・ラモネ(ディプロ社長)は論争に介入、ニコノフとカッセンを支持した。『個人としての』支持だが、これには重みがある。この組織/アソシエーションはイグナシオ・ラモネのアイデアとそのイニシアティヴをベースとして1998年に発足している。ベルナール・カッセンはattacの創立者の一人で最初の委員長、また同時にル・モンド・ディプロマチック社のディレクターにしてディプロの記者でもある。

単なる記者として編集部に残るアラン・グレッシュとドミニック・ヴィダルの役職辞任は、ディプロの編集路線を変えることになるのだろうか。ベルナール・カッセンは答えはノンであると断言している。しかしこれはすべての人間の考えではない。なぜなら《左の左》すべてを扱うにしろ、この新聞の包括する各政治傾向間には大きな差異がある。アラン・グレッシュとドミニック・ヴィダルは《国際左派》であり、シュベンヌモン主義あるいは《ナショナル共和主義》に反対する。後者とは幾分かニュアンスが違う位置にいるのがベルナール・カッセンと新編集長モーリス・ルモアンヌだ。

長い間、イグナシオ・ラモネが平和をもたらすジャッジの役目を果たし、以上の感覚の相違は大きな問題を起こすこともなくル・モンド・ディプロマチック内で共存してきた。しかし時を追って違いは大きくなり、時として表立った抗争となった。ライシテとヴェールの問題がそのひとつだ。またキューバ政府へのラモネの支持も緊張を巻き起こした。同様に編集部の一部と読者は、この新聞がイングリッド・べトンクールを人質とする Farc/ファルク、コロンビア反逆集団と充分な距離をとっていないと感じている。

ル・モンド・ディプロマチック編集部ヘッドの危機は、1994年から2003年にかけて多くの海外版を発行し販売数を急激に伸ばした後、この2年読者数が減少した時点で起こった。2003年には最高の24万だった有料発行数は現在2万5千に落ちている。

リベラシオン(2005/01/07)Olivier COSTEMALLE/オリヴィエ・コステマル

記憶について、フランソワ・ミッテランという現象

Mitterand“記憶”について書こうと思ったんだけど、の続きです。

"Je suis le dernier des grands présidents... Enfin, je veux dire, le dernier dans la lignée de De Gaulle. Après moi, il n'y en aura plus d'autres en France... A cause de l'Europe... A cause de la mondialisation... A cause de l'évolution nécessaire des institutions..."
「私は最後の偉大な大統領だ。。。つまり、ド・ゴールの後継者としての意味でだが。私の後、フランスにはもう出ないだろう。。。ヨーロッパの、グローバリゼーションのために。必要とされる制度改革のために。」

これはル・モンド記事冒頭に引用されている、Benamouの本からのもの。こうミッテランが本当に言ったのかどうかは別として、“君主”ミッテランの予言はある意味アイデンティティ喪失症候群に罹った風情のフランスには良く似合う。

ミッテラン死後10周年で、多数の文献・証言、ドキュメンタリーが流通しています。私がフランスにやって来た時ミッテランはすでに大統領だった。当初はさほど気にもしていなかったわけですが、ル・モンド集中読み(といっても当初は読める記事量も微々たるものでした)で仏読解力習得したようなもんなんで、いつのまにやらミッテラン批判は門前の小僧的に学習いたしました。当時の自分はどちらかというとロカールに近かったかな。

さて、今何故ミッテランなの? まあ、現大統領の影が薄い(支持率20%だったか)。サルコジに継ぐネタ。ヌーベロプスとしては2007年大統領選に向けた候補者地固めってな線もあるでしょう。いずれにしてもミッテラン、話の種が尽きない人物であるのは確かです。その影響力を受けた人間は左派陣営ばかりではないし、だいたい人間ミッテランについて書かれた本がすでに190冊を超えているってのも尋常じゃない。

今でも覚えていますが、テレビ演説があると翌日の新聞の演説文の下に“解説”が載った。つまり解説がないと何言ってんだか分からなかった、というサルコジの正反対みたいな雄弁家でした。

好き嫌いは別にしても、ミッテランの君臨した14年間(1981-1995)のフランスを考えるにしても、またヴィッシー政権下の(影の)フランスを知るためにもミッテランはキーパーソンなんだよね。作家マルグリッド・デュラスとの不思議な交友もこの頃始まっています。

ドキュメンタリーやさまざまな人間に証言に良く出てくるキーワードは以下、
romanesque /小説のような、か
monarchie /君主制度
contradictoire /矛盾する、自己同一してない
paradoxal /逆説的な
secret /秘密
machiavérique / マキャベリック

また権力に対する執念や自分の死後の名声に対する執着も凄い。たしかに“伝説化”を耐えられる人物ではあるな。当時のコラボする美女達のほとんどが愛人だったとか、ミッテランをめぐる自殺者の多さもミッテラン伝説の一部をなしてますね。まさにロマネスクです。

けれど、実際私がもっと知りたいのはミッテランと“社会主義”の本当の関係。ド・ゴールを超えるためにミッテランは現在の社会党を創立したのか、あるいは社会主義が戦争を経験したミッテランの思想帰結だったのか。どうもここら辺に今の社会党の腰の弱さの原因があるように思えるわけです。同時に、(長期的には不可能だったにせよ)左派連合を成立させたミッテランの手腕は右に並ぶものがない。結局、癌と戦いながら大統領を二期勤めたんですね。大物ではあります。

参考記事
極めて批判的リベの
La France plus que jamais tontonmaniaque
トントンマニアックになったフランス
Le droit de se taire
黙る権利 (エディトリアル)

ヌーベロプス・スペシャル・ミッテラン

ゴシップ系
La second famille de Mitterrand - Derniers secrets
ミッテランの第二の家庭 - 最後の秘密(エクスプレス誌)

2006-01-07

記憶について、エレン・カステルの場合

Castel1980年5月30日、パリ市ラファイエット通りのBNP銀行強盗を行ったかどで指名手配されていたエレン・カステルは、時効成立の4日前、2004年5月12日に逃亡先のメキシコ、ジャラパという町でメキシコ警察に逮捕された。

彼女の父親は社会学者、今はもう亡くなった母親は精神家医。当時の極左スクワット運動などに関わっていた彼女と他4人の仲間は運動資金調達のための銀行襲撃を計画、失敗(グループのうちの一人は警察隊に向かって発砲、反撃を受け死亡。)。20歳だったエレン・カステルはひとり現場からの逃亡に成功、秘密裏に同年8月メキシコに渡る。メキシコではFlorencia Rivera Martin/フロランシア・リヴェラ・マルタンという名で精神医学を学び、セラピストになる。また出合ったメキシコ人アーティストとの間に娘(マリア、現在19歳)を得て、一人で育てている。

極めて異例のこのケースでは、刑事・民事双方の法廷関連者がこれも異例の見解を相次いで出していた。22年にわたる亡命生活と人生の再建設によって、彼女の犯した罪はすでにあがなわれるといった声も多かったようだが、有罪の判決を受けて(禁錮二年・執行猶予)彼女自身“ほっと”したとラジオの報道にあった。メキシコでの逮捕時、娘マリアが18歳になったのだから今は逮捕を受け入れることが出来た。セラピストという職業上、つねに真実と嘘について考えていた、とも言っていた。

20歳のエラン・カステルと46歳の現在の彼女の間にある CLINDESTIN/ 非合法な“時間”について想像してみる。
法廷での審問の最後に彼女はこう言っている。「生きることが出来たことを人生に感謝したい。法廷での試練は“開放”だった。」 « reconnaissance à vie pour lui avoir fait vivre » l’épreuve du procès, qui constitue « une délivrance ».

参考:リベラシオン記事(他にも関連記事多し)
«Elle se sent légère, sa vie proscrite a pris fin»

“記憶” について書こうと思ったんだけど

扱おうと考えたトピックスはミッテラン死後10年(1996年1月8日没)にかかわる新聞ラジオ雑誌・出版・TVドキュメンタリーなどについてと、26年前にパリで銀行強盗グループに参加、犯行後メキシコに逃亡し、今日(1月6日)に判決を受けた女性の話でした。

けれどひとまず見てみようとクリックしたWikipedia のミッテラン項日本語版をざっと読んで固まってしまった。ちと酷いことになってます。これって陰謀版じゃん。
参考: (ミッテランの正しいスペル、ヴィシー政権下でのミッテラン、レインボウ・ウォリア事件に関してディスカスの対象となっている) 英語版、と極めてオフィシャル的仏語版

なお26年目に判決を受けた Hélène Castel/エレン・カステルに関するル・モンド記事
Condamnée à deux ans avec sursis, Hélène Castel ne retourne pas en prison

またミッテランに関する記事から
Que reste-il des années Mitterans ? (ミッテラン時代の残影とは?)
ミッテランの娘、マザリンに関して
Mazarine Pingeot la "people" de la famille (マザリン・パンジョ、家族内“people”、←すいません、訳せませんが。>猫屋)

フラッシュを使った大統領就任以前のミッテラン
Mitterrand avant Mitterand (ミッテラン以前のミッテラン)

***
というわけで今夜はここまで、上記2題については明日にでも展開してみます。
シャロンがアウトですねえ。とにもかくにも、面倒なことでございます。

2006-01-01

グラン・パレ メランコリー展

Durer_1昨日見損なったグラン・パレでの 《Mélancolie》 展に行ってきました。この展覧会は仏国立美術館ユニオンとベルリンStaatliche美術館が企画しそれにパリ・ピカソ美術館の協賛で開催されていて16日にパリでの展覧が終わった後はベルリンのニューナショナルギャラリー(2/16-5/07)に移ります。二時間ほどかけて回ったのですが、元旦と言うこともあるのでしょう、かなり人も多く(走りまくる子供までいた)、大体私の知識と集中力ではカヴァーしきれない。コンセプトからして難しいというか豊か。一言で言うとヨーロッパ思想史における憂鬱の移り変わり、、とでもなるのか。もちろんそこには哲学・神学・魔術・占星術・さらに下っては文学・絵画・音楽・一般医学も精神分析も関連するわけで大変です。(当然アラブ文化の影響もあるわけ)。

きわめてコンセプチュアルな構成になってて、必ずしもクロノジカルに250からの作品・オブジェが並んでるわけでもないので、全解説を読んだわけでも、リンガ・フォンも借りなかった私には全体像がつかめていない。会場は以下の8部に分かれています。

St_antoine_1La mélancolie antique / 古代のメランコリー
Le bain du diable. Le Moyen Âge / 悪魔の沐浴(ルターの言葉のようですな)、中世
Les enfants de Saturne. La Renaissance / 土星の子供達、ルネッサンス
L’anatomie de la mélancolie. L’âge classique / メランコリーの解剖学、古典時代
Les Lumières et leurs ombres. Le XVIIIe siècle / 光(複数)と影(複数)、18世紀
La mort de Dieu. Le romantisme / 神の死、ロマンティスム
La naturalisation de la mélancolie / メランコリーの帰化
L’Ange de l’Histoire. Mélancolie et temps modernes/ 歴史の天使、メランコリーと現代

となりまして、主要展示作品には、Dürer, Ron Mueck, La Tour, Füssli, Goya, Friedrich, Delacroix, Rodin, Van Gogh, Munch, De Chirico, Picasso… 他にもクラナッハ、ボッシュ、Wブレイクや、ホッパー、アルトーの作品に驚かされた。18世紀の3体の胎児骸骨とミイラ1体を使った祭壇なんてものまでありました。

時間が許せば16日の最終日前にもう一度行ってみようと思います。夜10時までやってるnocturne の夜がいいかと、、しかしカタログも欲しいし、他にも行きたいエクスポは多いし金欠だし、、、セールも始まるのであった。

Bocklin_1なお、あまり深く考えるとこっちまでメランコリしそうなので、ひとまず軽く見たい作品だけフォローするってのもひとつの手ですかね。平行して音楽コンフェロンス・映画上映もあるから半日かけるつもりで空いてる時にあっち行ったりこっち行ったりするのもいい。全体的にフーコー考古学的編集作法が見えますが、フーコーの名はレフェランスとしては出てないと思う。同様にフロイトやニーチェへの言及もさほど多くないと感じた。アンソールの絵があるかしら、と思ったけど見た記憶ないです。

参考:nocturne/夜10時までの日 1月6・7・8・13・15日で一般入場料10ユーロ、割引8ユーロなり、予約要の模様。
Ron_mueck_gros_homme_1
追記:すぐ上のBocklinの絵は映画『指輪物語』そのもの、また全体的に言うと頬杖ついて+時として三白眼人物、が多すぎる印象もありました。そういえば、ユイスマンスとかギュスターヴ・モローも不在だったような、、(モローは個人美術館所有だからかな)今度確かめてきます。それと展示の端ズンドマリがサルトルの『嘔吐』からの抜粋文と“太め・欧州おっさんのヌード座り込み巨大像”。これが最後部ではないんですが。

なお行きたい展覧会は以下、しかしいつの間にか入場料が倍になってる気がするんですが、、でもNYのMOMAなんかもっと高いらしいし。。。今日のグラン・パレ、イタリアの教授っぽい美しい女性が多かったです。
ウイーン1900 グラン・パレ
日本妖怪展 パリ日本文化センター
ダダ ポンピドゥー・センター  9日に終わってしまいます。同センターではウィリアム・クライン展もやってる。
ユダヤ・キリスト・イスラムの聖文書 国立図書館
アラブ世界の科学

*****
翌日追記:リンクし忘れた、このメランコリー展企画者 Jean Claire へのアルテ・インタヴュー記事。構想と準備に10年かけたらしい。またリベによるとこの展覧会一日1500人の入場を想定していたけれど、実際の有料入場は4600を超えてるようです。また国立美術館ユニオンとガリマールが共同で作ったカタログは既に3万冊売れたそうだ。(59ユーロという値段なんで買ってません、が欲しい!!!) また、リベの関連記事、“現代の宗教、メランコリー”というタイトルで Nancy Huston (トドロフの奥さんですね)は出展されている作品について絶賛しながらも、それらのオブジェを単に西洋文化のダーク・サイドばかりで捉えるのはカナワンといった批評をしている。それもそうだ。ミラン・クンデラを引用しながら、彼女は“メランコリーは創作の傍らにあっても、創作の源泉ではない。” といったようなことを書いてます。

たしかに個々の作品は暗く、かつ私達の生きるこの時代も暗いわけですが、それでも創作行為自体が作家にもたらす、また作品をみる私達が受ける“enthousiasme /感動”やまた作家と受け手、また作家同士、あるいは“作品同士”の間に生まれる enthousiasme としてのコミュニケーションはあるんで、と思ったわけであります。フーコーの『真理』とかドゥルーズの『欲望』について考えてみたりするんだが(やはり読まないといけませんがね)。

2005-12-29

植民地の歴史はどう書くべき?

これは、ル・モンドウェブ版で行われた歴史家 Pascal Blanchard/ パスカル・ブロンシャール(著作:La fracture coloniale/ 植民地断絶 2005年)と読者の間で行われたチャットの簡単訳です。現在(12月末)、フランスの植民地政策をめぐる論争はあきらかに“行きすぎ”の観を呈している。かえって今月アタマまで戻って、確認作業をしてみるのもひとつの理解の仕方かもしれません。

Comment écrire l'histoire de la collonialisation ?

植民地の歴史はどう書けばいいの?

フレッド:ブロンシャールさん、教科書で“海外におけるスランス人の功績”を認知するという2005年2月23日法は、国民の一部を刺激する以外にどんな役に立つのか、特にどういった意味合いがあるのでしょうか?

パスカル・ブロンシャール:意味合いとしては、少なくとも今になってやっと植民地問題と言う過去が、フランスで始めて論争の対象になることを示した点でしょう。確かに、この論争はイデオロギーと政治に関わるものです。けれど、40年間の沈黙の後、フランス社会全体がやっと私達の根本歴史のこのページに目を向けた。あと2月法が示しているのは、国家が - あるいは国議会議員の一部が - この植民歴史の読解に、今、“イデオロギー”を選んだ、と言うことです。

"歴史家のリアルな立場というよりイデオロギー論争"

ローブ:どうしてこの論争がこんなに反響を呼ぶのでしょうか?

P・ブロンシャール:あなたの質問に答える前に、まず歴史家という仕事について説明しなければなりません。歴史家という仕事は、歴史上のひとつの時代や瞬間にプラスやマイナスの会計結果を書き加えることではありません。たとえば、ゴール/ガリア地方でのローマ人の存在や、アフリカ大探検に興味を持つ場合にも、誰もプラス・マイナスのレクチャーを通してやったりしないでしょう。そういったたぐいの歴史理解は、歴史家のリアルな姿勢というより、イデオロギー論争に帰す。極めて複雑、不明瞭でパラドクサルな(ひとつの)歴史に、“プラス” “マイナス”といった概念は、後付の価値判断をもたらす。確かに、学校や病院や道路について語ることはプラスの活動という印象を与える。けれど、誰が道路を建設したか、学校に行っていた子供数の少なさや、医療サーヴィス設備の性格も思い出さねばならないし、また植民フィールド外でもそれらは作られえただろう。これが意味するのは単に、このように(プラス・マイナスで)植民地時代という過去を理解すること自体、歴史家の振る舞いではないと言うことです。

レイ:植民地時代フランスの有益な役割の法に関する論争はバンリュウ問題のすぐあとに起こりました。。。何故だと思われますか?

P・ブロンシャール:議会機能の進み方が良く知られていないために、この質問が出てくるのです。実際にこの議論は2003年から議会でなされていた。いくつかの報告書と委員会とと法案があった。特に2004年にミシェル-アイヨ・マリが政府の名において提出した法案は政府の(方向性)発露だった.....それほどのエレメントがこの考えが長く、古いもので、2005年に『都合よく現れた』わけではないことを示している。それらの論争に継続するものとして2005年の法案は浮かび上がった。そんなわけで、第四条は金曜の夜更けに何人かの疲れきった議員によって可決されたに過ぎないと考えるのは、正当でも正確でもない議会の流れの解釈です。だいたい、これらのエレメント全体 - 国議会サイトに提示されている - を正確さをもって分析すれば、この論争における2年前からの議会内グループ群全体のあいまいさと、異なる選挙に向けた、また思想面での駆け引きが計れます。

ヘイ:立法者が歴史を作るのではない、というド・ヴィルパン首相の発言をどう思いますか?同意できますか?

P・ブロンシャール:はい、彼が言った事に同意します。しかし、首相の言葉と現政府を支持する議会グループの間のズレには驚かされる。けれどこれは今日この歴史を理解することの複雑性も示している。

アルバン:どうしてフランスは植民地歴史を語るのにこれほどの苦痛を感じるのでしょうか?

P・ブロンシャール:これは根本に関わる質問です。確かに日本と並んでフランスは、元植民強国の歴史をもっとも理解しにくい国です。共和国基礎概念と植民活動の間に矛盾があるというのが根本的説明のひとつだと思います。歴史判断の物差とも言える、共和国と植民地の強い近似性は、現在のわれわれにとって逆説的なものと映る。そして、実際にそうなんです。植民地問題を問いただすことはつまり、フランス革命以来ほぼ2世紀に渡る共和国の歴史を問いただすことでもあるわけです。

アタテュス:フランスの2/3(IFOPアンケートによる)が植民地政策の有意義性に関する法に賛成する事実をどう解釈しますか?

P・ブロンシャール:まず(フィガロのアンケートの)質問の性質を問わなければならない。実際、この質問自体が不明瞭なのだ。なぜなら論議はプラス面を語るべきかどうかではないからです。今、植民という過去について、フランス国民に極めて明確な形で問いかけ、教え、語り、理解しなければならない。この問題に対するフランス人のオピニオンを、相対的に言ってあいまいな修正案の一節への単純な回答に縮小すべきではないでしょう。反対にこのアンケートが示しているのは、ある意味歴史家がなすべき大仕事がフランスでは手付かずだということです。植民地とはなんだったのか、その逆説性、あいまいさ、矛盾、そしてすべての現実性の説明です。とにかくこの回答を通して、フランス国民はフランスの過去について自問自答した。この質問が表面化したことがこの40年の間極端に少なかった事実を考えれば驚くにはあたりません。この質問は、(アルジェリア戦争に関する論争をめぐる)メディアでも、テレビのドキュメンタリー特集でも、あるいは美術館・博物館や国家主催展覧会でも、すべてのフランス人にとって、この記憶と歴史の共有化がなされたはずなのです。 

アルジェリーノ:これは過去への逆戻りなんでしょうか?私達は1950年代の考えに戻ったのでしょうか?

P・ブロンシャール:(答えは)ウイでもありまたノーでもある。思想論議としてはそうだし、同時に多くの人にとって1980年-1990年代にはほとんど聞いたこともない論議の発見だからです。

ドック:"Indigènes de la République" 『共和国の土着民』マニフェストをどう思われますか?

P・ブロンシャール
:署名はしませんでした。これについてはNicolas Bancel/ニコラ・バンセルとともにル・モンド紙上で説明しています。

植民歴史:“フランスは明白な遅れに苦しんでいる”

マルレーヌ:逆説的にアルジェリア戦争は歴史家たちに研究されています。マダガスカル、東南アジアなどの(元仏植民地)は対象になっていません。これは今後変化するのでしょうか?

P・ブロンシャール:アルジェリアに関するものに比べ、マダガスカル、ブラック・アフリカ・アンティーユ、ニュー・カレドニアに関する研究はあまり知られていないから、と単純に考えます。けれど、多くの歴史学者が以前からこの点に関してよい仕事をしている。単に、一般人はこれらの研究を知らないし、これらの地理的範囲に関わる人々が長年にわたってアクティヴな政治的出版者からさして支持されなかったのも事実です。けれど私の考えでは、研究の不在という印象は、それら別個の研究を知らないことからくるのでしょう。

キャティア:どうして英国では“ポスト・コロニアル・スタディ”がフランスより発達したのでしょうか?共和国の歴史家の思想ポジションのせいですか?

P・ブロンシャール:この質問に答えるにはみっつの説明を引かなくてはなりません:第一に、過去30年英国は教育者と研究者を“ポスト・コロニアル・スタディ”枠から募っている事実です。この点でフランスは遅れをとっている。第二点:英国人は早い時点で帝国問題を英国歴史の全体的考察に移し変えている。第三点:アングロサクソンの植民歴史理解の方法は、植民地政策においての共和国の役割についてして常にあいまいだったフランス歴史家のやり方とは大きく異なっている。この問題は、英国ではこういった語彙で問われることはない。でもそれは、英国ではこの植民地歴史をどう読み込むかという本当の議論がなかったという意味ではありません。反対です。その議論は富裕な、豊かなで、矛盾したものでした。これがたぶん、イギリス帝国の歴史に関する記憶の戦争が、英国では存在しない原因なのでしょう。

ナララ:わたしは、コンゴ植民地についてのベルギーの大展覧会で仕事をしました。それらの問題が自由に議論される豊かさに心を打たれましたが、“対する陣営”元被植民者側の事実についての意見がほとんど、あるいはまったく語られなかった。どうやったら私たちは、この違った視点を聞くことができるでしょうか。それは多くの根拠ある怒りと恨みの根源だと、個人的には思うのですが。

P・ブロンシャール:対岸の歴史家達が一緒に仕事をしないと思ってはいけません。そんなことはない。20年ほど前から、アフリカ、ベトナム、マグレブ、ラオス、カンボジアの歴史家、そしてアメリカ合衆国に住むそれらの国からやって来た歴史家達が多くの共同プロジェクトや共同プログラムを扱っている。確かに、Tervuren/ テルヴュレンで行われたばかりのような大展覧会では、“他者の言葉”は多くないといった印象を持つかもしれない。この点ではあなたに同意しますが、ベルギー人には少なくともこの年、ベルギー植民史回顧大展覧会を企画するという功績がある。フランス国家にも同じことを期待したい。

ビュルブ:植民地化した許しを乞う必要はありますか?

P・ブロンシャール:いいえ。なぜなら、今日私達は過去に植民地化した人々の“遺伝的”後継者ではないから。

ファバッス:フランスはいまでも植民者意識を持っていますか?

P・ブロンシャール:いいえ。肯定するのはアナクロニズムの証明でしょう。けれど、意識や実践のなかにはまだ“植民カルチャー”の名残がある。これは明白だと私には思えますし、じゃあなければ三世紀近くにわたる歴史がなんの遺産も残さなかったことになる。

キャティア:背負っている逆説的遺産から考えて、“共和国の価値”は更新すべきでしょうか?

P・ブロンシャール:共和国の価値は、定義から言って、常に更新されるべきだ。時代に沿い、国民の多様性に適応するために、そして単純にその基礎概念上に日々強化されるために。さもなければ共和国は自分から同一性という後退に陥る。『共同体主義共和国』出現を見る以上の最悪事項は考えられません。

すべての人に答えられないのは残念です。いただいた質問に感謝します。よい一日をお送りください。

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チャット管理: Constance Baudry/コンスタンス・ボードリ  Prudence Cauvin/プリュードンス・コーヴァン

Blanchard訳出後記:最初にこのチャット記事をすらっと読んだ時は分からなかったが、訳し出してからしまった、と思った。まあいつものことなんですが、今回は特にチャットというのに気を許した。1時間弱のチャットなんですが内容は濃い。また、チャットでありますから明確ではない部分もあり、誤訳の可能性も大きいのです。結局3日かかりの訳になった。誤訳部を見つけた方はお知らせください。

また、このパスカル・ブロンシャール先生、誰かに似てるなあ。と思ったら作家井上やすしに似てる。楽しそうな人ですね。

2005-12-28

早い夜、雪のパリ

Neige2Neige3_1 夕方6時前のパレ・ロワイヤル:
急に吹雪になった。
すぐ溶けちゃったけどね。

2005-12-26

歴史と記憶、そして国家

Soleiliiiまず最初のル・モンド記事(12/24付)。またしてもサルコジの名が出てきてしまうのですが、
M.Sarkozy prend date sur terrain de la mémoire 
サルコジ氏、記憶領域上に日付を決める

Quatre pétitions contradictoires et deux missions concurrentes ; des historiens aussi exaspérés que divisés, des politiques (désormais) attentifs mais très embarrassés ; l'outre-mer meurtri, des Arméniens inquiets, la communauté juive sur le qui-vive : voici le bilan provisoire que l'on peut dresser, dix mois après la promulgation de la loi "portant reconnaissance de la nation et contribution nationale en faveur des rapatriés".

四つの互いに矛盾した署名運動とふたつの競合する調査;分裂しまた激怒する歴史学者たち、(やっと)この問題に注目するが当惑する政治家たち、傷ついた海外仏領土、危惧するアルメニア人、警戒するユダヤ・コミュニティ:これが“(植民地からの)本国帰還者の国家貢献に対する仏国民の感謝”法が公布されてから10ヶ月目の中間決算である。(以上記事冒頭部)

05年2月23日閑散とした議会でほぼ人知れず可決され公布となったこの法律は、もともと南仏に多く住む、ピエ・ノワール/足だけ黒い人、つまり北アフリカ旧植民地から諸国独立の際本土に帰って来た人々の票をねらったものだった。ところが、まず何人かの歴史学者が怒りました。3月25日に“植民:国が決める歴史は教えられない”という反対署名があった。1000人からの署名が集まったところで、人権リーグ・MRAP・教員リーグがジャーナリストを集めて記者会見を行った。それからムーヴメントはどんどん広がる。元植民地に住んでいた植民たちと被植民のふたつに、フランスの記憶が分断された観がある。

それからも、もちろん皆さんご存知のバンリュウ騒動も絡むし、ポリガミだの、イスラミストだのと騒ぎは収まらない。ここでサルコ氏が(何故かと言うか当然と言うか)出てきてしまうんですね。内務相はユダヤ系若手弁護士 Arno Klasfeld に調査を依頼する。これはどういうことかと言うと、アルノ・クラスフェルド弁護士の父親はセルジュ・クラスフェルド弁護士でありまして、親子そろって元ナチス戦犯の追っかけ専門なんです。大作Shoahを撮ったクロード・ランズマンにも近いからシオニストと言っていいと思う。サルコジ氏はいつだって問題を横にそらすのは上手いんですが、しかし挙句はユダヤ問題まで行ってしまう可能性が高い。ここまでのサルコの攻撃目標はシラクとドブレ(仏議会議長、同法に関するもうひとつの調査をすでに始めさせていた)だとル・モンドのジャーナリストは読んでいますが。

一行で言えば、この“植民地”問題はどんどん拡大しているのでありますね。

そして24日付ル・モンド社説 Loi et mémoire 法と記憶

もともと2月23日法は教科書に植民地政策をポジティヴに(も)記載するべし、という法でありました。で、ル・モンド編集部は実際に使われている教科書を取り寄せて読み込んでみた。結果は問題なし、つまり植民地時代は相対的に扱われていて、必ずしも植民地マンセーの何行かを付け加える必要なし、だそうです。で、疑問は同法案を提出した議員自身が、実際の教科書を丹念に読んだのか?という点です。どうもそうではないと同紙は結論する。だとすると現在行われている議論は、だいたい火のないところに火がついたわけです。

では国家と歴史、国(人民)の記憶は別物と考えるべきなのか。

だが、実は問題点は別にある。国家(=法)は国(人民)の記憶に介入できるのか、と言う問題。これは“人類に対する罪”否定を唾棄する、アルメニアの虐殺を認める、また奴隷制があったことを認める国家(=法)はどうなのよ、と言うことになる。

やんぬるかな、歴史と記憶と国家は難しい。さて次エントリは同じくル・モンドのチャットで仏歴史家が読者の質問に答えるの編をご紹介の予定です。

Tombe_1参考:
関連毎日新聞記事 歴史認識:植民地支配の評価巡り論議 暴動起きた仏で

chorolyn氏のとこ経由で日本ブロガーの書く 歴史への介入

以下原文
人種差別・反ユダヤ・排外国人主義的行動を戒める 1990年7月13日法 
アルメニア人ジェノサイドに関する2001年1月29日法 
奴隷性に関する2001年5月21日法 
植民地政策のポジティヴ性を教科書で教える目的の2005年2月23日法

2005-12-23

単なる予告記事のクリップ、サルコジ

Sarko

きのう木曜のリベ・ウェブ版で拾った、ニコラ・サルコジへのインタヴュー予告記事。本日金曜日には全文掲載のはずが、少なくともウェブ版には続きが更新されていない。で、暫定的にクリップ・アップだけ。

«Il convient qu'on se remette en question dans notre façon de faire de la politique» --- われわれの政治をするやり方を疑問視する必要があるだろう --- となるかな。(このタイトルからしてカチンとくるわけだ。“われわれの”と言って置いて、インタヴュー冒頭では“Vous”でリベラシオンを(命令形まで使って)批判している。サルコジが政治家であって、政治家が政治をするのだと言う大前提は無視ですか、そうですか。)

昨夜遅く、このページを見つけたとき訳そうかとも思ったんだけど、まあまず明日全文読んでから決めることにした。◎×▲□アレルギー症候群かもしれないし、ここんとこオーギュスト・コントが、とかモンテスキューもなあとか、不慣れな事をぶおーっと考えてたせいかも知れないが、どうもこのディスクール、つーか喧嘩言葉は極めて腹立たしい。私は大体、文化資産だか文化資本だかそんな高尚なもん持っちゃあ居ないが、それにしても今時のちょっと気の利いた高校生だってわかるだろが、この詭弁。

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Votez25日追記:該当記事土曜日夜中に見つけました。
全記事版 Il convient qu'on se mettre en question dans notre façon de faire dela politique
ざっと読みましたが、極めてサルコジのサルコジによるサルコジのためのディスクールです。突っ込む気にならん。用はなんだ、ル・ペンの各種宣言と同じで、危ないことを言うとポピュラリティが上がるという、アレでしょう。てなわけで訳さないことにした。(飲みすぎだし)

なお、右の写真はActUp(エイズ関連団体)の作ったポスター、もちろんUMPから抗議があり、現在ではアクトアップのサイトでもデモにも使われていません。

追記の追記(26日):上のインタヴュー記事に対するリベラシオン社説がありました。タイトルは“仔細なし”となるか。ル・ペンがユダヤ人強制収用所の遺体火葬処理設備は歴史のデタイユ/詳細、にしか過ぎないといった有名な宣言にかけていますが、そこはそれ言外の意。つまり、サルコジ氏の言説はアナロジー領域に訴える物であるにもかかわらず、そのアナロジー領域に関するインアタヴュアーの質問には、決して答えない。あくまで言語の第一次元での意味に固執いたします。結果として、サルコジ氏の言説、全体でみると極めて矛盾してる。おまけに喋りすぎなわけで、リベのエディトリアルが分析するように、サルコジ氏が自己PRをすればするほど、幸いなことに、それがサルコ反PRにもなってるわけだ。

インタヴュー最後のサルコ氏の言葉は、

Je ne vois ni dérive, ni droitisation, mais des Français de droite comme de gauche qui veulent que les valeurs du travail, du respect, de l'autorité, de la justice et de l'humanité soient davantage mises en avant. Ce sont les valeurs que je défends. Elles sont celles de tous les Français.

私はそこに、脱線も右傾化も見ない。右であろうと左であろうと、労働と尊重と権威と法と人間性という価値を前面に掲げたいフランス国民を見る。それが私の擁護する価値である。それがすべてのフランス人の価値である。(意訳なり)

というわけでありまして。サルコジには背骨となるべき思想基盤がないとかねがね思っていましたが、それはそうなんだよね。自由・平等・博愛という共和国パンドラの箱を壊しかねないわけなので、そこが危ない。先端人であったWブッシュ氏も今はあのテイタラクでありますから、何おか況やの年の暮れ。。。猫屋は今夜、引き続き“仏国植民地事情問題”を軽くトリートして見るつもりです。

2005-12-09

ブウナ・トラオレとジェッド・ベナの最後の日

Clichy結構参考になるかもしれない猫屋です。今晩は。
8日付けル・モンドからのクリッピング。

バンリュウ“暴動”が起こる直前の10月27日、クリシ・ス・ボアのEDF(フランス電力)の変電所で感電死した2人の少年(17歳と15歳)の最後の日について、記者(Ariane Chemin)が取材、2ページの写真入り記事を書いています。以下は訳者による恣意的抜粋と粗訳です。意味の取れない部分は勝手にカットしたり、かなりな意訳ですがこの2人の少年がどうして変電所で死んだのか、その前後が仲間達の言葉で語られている。すくなくともその流れが分かっていただければ幸いです。(また、この騒乱の始まった頃の様子は、shibaさんの11月3日のエントリ、ネブロ11月10日燃えてないパリからのメモなどご覧ください。)

Le dernier jour de Bouna Traoré et Zyed Benna
ブウナ・トラオレとジェッド・ベナの最後の日

彼らの記憶によれば、それは大体M6(猫注:アメリカのシリーズを多く放映する仏チャンネル)の“マルコム”とカナル・プルス(猫注:同じく若年者にファンの多いTV局)の“俺達は天使じゃない”の間の頃だった。正午を回った頃か。10月27日木曜日、トラオレ家のアパートで、ブウナはシャワーを浴びたばかりだ。15歳のこの少年は、その兄弟・姉妹と同じように、そしてシェーン・ポワトゥのショッピングセンター沿いのクリシ・ス・ボワ(郵便番号9-3地区)のシテのすべての子供達と同じように、遅くまで寝ていた。

クリシが目覚める。これはトゥサン/万聖節の学校休暇の時期だ---ここではこの休暇は単に“秋休み”と呼ばれる。夕刻、家族の元でラマダンの断食が中断するまでの一日は長い。ブウナのような“petits/ちび”と“moyens/まんなか”と“grands/大人”--これは22.23歳までだが、両親とともに住んでいる---彼らは朝寝坊を引き伸ばす。プレイ・ステーションでゲームをしたり、Trace TV, Equipe TV あるいは DivX といった海賊版映画を、彼らによれば「時間つぶしに」のために観る。

ブウナ・トラオレはその兄弟たちと同じように、優しい眼を持った繊細で敏捷・コケットな美しい子供だ。

いつもの朝のように、その日もトピクリーム(感想肌用クリーム)を顔に付け、ジョギングにアイロンをかけた。兄のSiyakha/シヤカと同じように、耳に小さなダイヤのピアスをしている。 音を立てずブウナは青と白のNike Shoxを磨く。音を立ててはいけない。なぜなら、パリ市での清掃夫をしている父親は、RERに(郊外電車)一時間、それから601番のバスに乗って朝の6時に帰って来る。子供達にとって一日にただひとつ守らねばならない約束事は、ラマダンを“中断”するために、夕方6時きっかりに戻っててくることだ。順番に、シェーン・ポワトウのフランプリ(小型スーパー)かもっと遠いが安いモンテルメイユのリドルのところに行って“---買い物籠に3ユーロ(400円)ほどの---小さな買い物”をする。この日は大人のシヤカ・トラオレが買い物をする番だ。そこここで友達にすれ違う。“tcheck/チェック” 互いの片手で交わす挨拶。「Tranquille/落ち着いてるか?」 「落ち着いてる。」

クリシ・ス・ボワでは時間は他の場所のようには流れない。ヴァカンスは決してやってこない。。。クリシの子供の半分はサッカーに強い。他にやることがないからだ。

天気はいい。みんな外に出ている:つまりすべての少年たちだ。

20メートル離れたラブレーの高層アパートの下、“全員が集まる場所”、に戻る。「友達の誰かが見えない時はケイタイで呼び出す。」

ラブレーには、ジェッド・ベルナ、17歳が住んでいる。チュニジア家庭の6人の子供の一番最後。父親はやはりパリ市の清掃夫だ。父親は厳しい。自転車泥棒の話に息子の名が出てきたことを、苦々しく思っている。ジェッドがフランスにやってきたのは2001年になってからで、第3学級(中学3年)で苦労しているが、仲間たちによると“mec tracé、trop stock ”つまり強すぎる少年である。 “石投げ(男)”がニック・ネームだ。シェーン・ポワトゥの住人の記憶では、マロニエの実を高層アパートの16階の高さまで投げたのは彼一人だ。仲間達は記念として、その姿をカメラで撮影した。

10月27日、“愛の火”(アメリカTVシリーズ)の時間だった。出かける時間だ。シェーン・ポワトゥでは誰もT3(3部屋の団地)内に留まっているのを好まない。土曜や日曜、“大人”は車で、Flunch/フランチ(ファミリーレストラン)かRosny II/ロズニー2(ショッピングセンター)の映画館に“ちび”たちを連れていく。カートの運転の仕方を教える。 週中の日は“時間を潰すために”、サッカーの得意な“テクニシャン”のボウナは隣町リヴリ-ガルゴンのサッカー場での試合を提案した。この町はクリシより豊かで、それに比べてクリシのサッカー場は“石だらけの腐ったもの”だ。仲間の、スクーターに乗ったソフィアンヌ、アリスティッド、ダヴィッド、マルタン、ブリュノ、ヤフヤ、みな14歳か15歳の、シテでのサッカー仲間だ。クルド人で17歳のミュティン・アルトゥンもついて来る。建築作業員の父親よりはましにしろ彼は(グループ内で)ただ一人フランス語が得意ではない。彼らはzouk/ズーク(クレオール音楽)と50 Cents、 Sniper、 Psy 4 de la rimeと言った、フランス・ラップ、アメリカン・ラップが好きだ。フランスのポップスも。 「ブウナはジョニ・アリディの“火をつけろ” を歌ってた。」 と彼らは言う。

夕方5時を過ぎた頃、子供達はサッカー場を後にする。イルドフランス地区が社会住宅建設中の現場に回り道をしたのか? 自宅の窓から見ていた近郊の葬儀店勤務の住人は、子供達の一人が見張りをしているといった印象を持った。建築現場の小屋から何かを盗む魂胆なのか?警察に通報があった。10分後、BAC/対犯罪警察隊(猫注:私服警官隊、カウボーイとも呼ばれている。)の一台目の車が到着し、そばに停車。子供達はすずめが散るように逃げだす。「走れ!走れ!」 後ろにフラッシュ・ボール弾を持つ私服警官を見た一人が叫ぶ。「走るんじゃない、何にもしてないんだから」とダヴィッドは止めようとするが、誰も聞かない。

彼らにとって、走ることは条件反射だ。「誰かが走っていると、自分も思わず走る。ある日誰かがシテに走ってやってきた。そしたら皆がとんでもない方向に走り出した。」と16歳のジョーは言う。 「どうやってポリスが俺達を扱うか、チビたちは良く知っている。」と、ミュティンのいとこメメット・ドガンは言う。「keufs/ケフ(俗語で警官)が、テュトワイエ(猫注:フランス語文法での親密な話用法、、お前といった感じか)で俺達に話しかけ、さんざん嫌なことを言って俺達を疲れさせ、挙句は厚かましく、kéké/ケケ(猫注:俗語、道化者といった意味か?)とんま扱いする、それをチビたちは見ている。」 子供達は声をそろえて、警官は好きじゃないと言う。「警官は、フランス人が住むランシーかリヴリからやってくる。やってきてこう言うんだ:馬鹿野郎、車の反対側を向け。」「それから俺達には礼儀がないと言う。何にも、本当に何にもしてなくても、俺達をpédé/ペデ(猫注:俗語でホモのことだが、マッチョな界隈では最悪を差す言葉)あつかいする。」

走りながら、チビたちはそれなりに頭の中で計算する。彼らは自分の身分証明書を大切にしまっておく。大きい兄弟と一緒に、移動遊園地や、シェルやクリニョンクールで“ファッショナブルなジャケットやジーンを”買いに出かける時にしか持ち出さない。 「両親は書類(パピエ)をもらうためにかなり苦労したから、書類をすごく大切に扱う。」とシヤカ・トラオレは言う。「チビどもは何でも失くす。」 だから重要な書類は全部パパの寝室のアタッシュ・ケースかママンのハンドバッグにしまってある。台所にあるのは、“大家族カード(鉄道などの割引が受けられる)”か中学の証明書だ。

だからラマダン期間中に捕まるのは、喜ばしいことではない。警察所で一時間から四時間を費やしたら、どうしたってiftar(日々の断食明け)に間に合わない。「空腹だった。その上、サッカーをして喉が乾ききっていた。」とヤアヤは言う。ラマダン中は、とにかく悪さをしてはいけない。「何にもしてなくても、親はこう言う:何にもしてないのに何で捕まるんだ?」と、ブウナの友達の一人が説明する。 走りながらジェッドはこう叫んだ:もしも私服に捕まったら、父親は僕をテュニジアの村に送り返すんだ。悪夢だ。彼らはシテで充分に楽しんでいる。 「ブウナは遊びすぎて(猫注:あるいはサッカーをしすぎて)食事するのも忘れる。母さんが『食べたのかい、ブウナ、ちゃんと食べたのかい?』といつも聞いていた。」と、ブウナの兄は語る。

この小さな仲間達は“恋人たちの公園”に沿って、リヴリー・ガルゴンとクリシを隔てる通りをろくに見もしないで渡る。国民投票に反対、というポスターが刺青のように貼られた扉をくぐり、天気がいい日にはジターン(ジプシー)達がピクニックに来る市の所有する荒地に入る。

ここで、警官たちは走るのが遅いハルウナとソフィアンヌを捕まえたようだ。クロスカントリーで一番早く走るジェッドとブウナとミュティンは荒地の隅の壁までたどり着く。墓地まで続く、タグの貼られたコンクリートに鉄条網の壁。

トーキー・ウオーキーで呼ばれた第二の警官隊が、墓石の後ろに位置する。夜になる。リヴル-ガルガンの家々から犬の鳴き声が聞こえる。ジャンプして、互いの肩に乗って、“ノワールとアラブとトルコ”の3人の友達は結局、、、と言って、EDF発電所の壁から3メートルのところで、仲間達はため息をつく。 彼らは壁に張られたドクロ・マークのついた警告プレートを見ない:「電力は君より強い。」 はしごを上って、建物の屋根上に横になる代わりに、人目に付かないよう、4メートルの変電所をよじ登る。ひどく高い。しかしジョーが言うように「怖い時は何でもできる。」 彼らは半時間の間そこにいた。

6時12分、ブウナとジェッドはまずい動作をしたと思われる。彼らの間に電流のアーチが形作られる。2000ボルトの電流が3人を地上から持ち上げる。シリーズを見ていた、シェーン・ポワトゥのムウサ(15歳)のテレビが突然消える。「わけがわからない。」 リヴリ・ガルガンの警察署で、他の子供達を両親の元に返す前、セバスティアン・M巡査長は報告書の中に、建築現場ではいかなる被害も発見されていないといった説明を加えている。そして突然電気が切れ、暗闇に包まれる。彼は調書に以下のように書いている。「ヒューズはひとつも飛んでいない。電源不通は警察署内に起因するものではない。五分後に電力は戻り、報告書を続けることが出来た。」

約二千度の熱に焼かれ、皮膚が服地に張り付いたミュティンは、どうやってシェーヌ・ポワトゥに生きて戻り、ブウナの兄の所まで来ることが出来たのだろう。「あいつは戦士だ。」仲間たちは、敬意をこめて言う。 この若いクルド人は、2人の友人の名をやっとのことで声に出し、10人ほどの少年を荒地まで連れ出す。 そして繰り返す。「走らなきゃならなかった。走らなきゃならなかった。」

泣き言も言わず指で進むべき方向を示す。けれど、変電所の前で向きを変え、片腕で泣いた顔を隠す。「自分に言ったんだ:ここは何なんだ?自分が子供の時だって来たことはなかった。」 とシヤカは語る。 「進めば進むほど、病人の熱が感じられる。ミュティンはもっと悲しがる。」 グループは「ブウナ!ジェッド!」と叫ぶ。

けれど誰も答えない。数分が数時間と感じられ、噂が流れる。「待って、待ち疲れて。ANPE/職業安定所で待つより長く、領事館で待った最長記録もやぶった。」と兄は語る。ブウナの母親は「涙を降らせて、父親は変電所の壁に頭を打ちつけた。」 彼らは死んでしまった、それは確かだ。 ジェッドのスニーカー“新しい、黒とグレーのコンバース”は炭化していた。ブウナのナイキ・ショックスと同様に。けれど、彼のアディダスは三部屋アパートの入り口に数日の間残っていた。 それから、モーリタニアの村での埋葬に向かう持ち主に同伴した。旅に出る前に、シヤカ・トラオレは遺体を見に法医学研究所に行った。彼が語る話はジャン-クロード・ブリソーの映画の一場面のようだ。優しい一人の美しい女性が、入り口を入って左にいるのが弟だと教えてくれた。ブウナはすぐ見つけられた。「白い大きなシーツの上に、黒いしみがひとつ。それが顔だった。」

火傷が、哀しい青とピンクと黒の顔を膨らましていた。でもアイダのために美しくしようと、一週間前グラデュエーションをつけたばかりの髪は痛んでいなかった。シヤカ・トラオレは、 この“天使の髪”を唯一の救いと感じた。「カットとグラデュエーションと、ここだけ手付かずだった。」

Ariane Chemin/アリアンヌ・シュマン 12月8日の記事から抜粋、11日夜訳出終了

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エントリのコメント欄でfenestraeさんがあげてくれた、8日付けル・モンド同ページにあった記事です。
Les circonstances de l'accident : pas de cambriolage et une "cours pédestre"

事故の状況:盗みではなく “徒競走レース”

10月27日18時12分に起きた事故で、2人の若いフランス人、ジェッド・ベナ17歳とボウナ・トラオレ15歳が命を落とし、3人目の被害者ミュティン・アルトゥンは第3度火傷を負い、今でも皮膚移植のため無菌室にいる。この事件をめぐる暗い影は、ゆっくりとだが薄らいでいる。最初のIGS(公共サーヴィス監査委員会)の第一中間報告(11/03)のあと、最終的報告書が一月当初に提出される。ボビニ裁判所つき共和国検事フランソワ・モランは、危機にある人間を救援しない罪で、Xに対する(猫注:加害者不明事件として)証人尋問を始めた。「現状において、大きな動揺を引き起こしたこの事件に関して、法と、専門家の鑑定と、判事の管理下での警察による捜査を進めることは、まったくの公正と受け取れる。」と、被害者3家族の弁護士ジョン-ピエール・ミニャールはこれを歓迎している。

“盗難” 「これまでに分かった情報によると、盗難が行われていた。」と、ドミニック・ド・ヴィルパンは10月28日、ディジョンへの移動時に声明を出している。11日後、ニコラ・サルコジはこう説明している:「盗難があったという推定とそれに対しての警官動員のあと、警官隊が向かった、ということだ。問題は、他の青少年がサッカーをしていたことに起因する。」 10日31日、警察の聴取に対して葬儀社社員は、リヴリ・ガルガンの警察署に通報した際には「盗難については何も言っていない。少年たちが現場の小屋に侵入しそうだ、という意見を警官に伝えただけだ。警察に電話したのは、穴だらけの現場は危険だから少年たちはそこに居るべきじゃないと言いたかったからだ。」 しかしIGSは、小屋に押し入る意向がありえたとし、盗難未遂の可能性はあると見ている。

“追跡” この仮説は、10月28日以来TF1などで、ニコラ・サルコジ内務相が否定している:「警官は少年たちを追ってはいなかった。」 調書と録音テープによると、警官たちは何回も“徒競走レース”について話している。IGSにとって大きな疑問が残る:EDF建物に入った3人の人間は、建築現場に侵入して警官に追われたたグループに属するのか。ミニャール弁護士によれば、建物を囲む3メートルの壁の下にいた少年達が抜け出しうるもう一方の出口を、変電所の反対側に位置した第二の警官隊が固めていたとして、「追跡劇はすでに過去の話だ。最初から最後まで、はっきりと尋問が目的だった。」

警官とEDF発電所の責任 IGSの報告によれば、少年達が発電所に入る可能性があると、警官のひとりが警告を発している。けれど何故、誰一人少年達に課せられた危険性を案じなかったのか?18時58分から20時までの警官たちのラジオ交信記録では、一人の警官が同僚の態度に苛立っている。「(送られた警官隊は)もう30分も現場にいるのに、まず第一に負傷者救助をすべきところを、EDF発電所前に集まる友人や家族の扱いにあたっている。問題があるって時に、(こっちは)もう30分も情報を待っているんだ。」 それから、声を荒げて「現時点でわれわれに一番重要なのは被害者だ。知りたいのは、状況と、どうやってそれが起きたか、不可抗力だったと仮定してもそれは事故なのか、あるいはちょっと前誰かが言っていたように警官に追われていたかどうかだろう?」

10月30日のEDF発電所での出向調査書内で、PJ(司法警察)警視は、荒地から発電所に至る方法について書いている。「行程には、、、移動を妨げるなんらの障害物もない。EDFの外壁は3箇所の出入り口を有す。」 警官はこう書いている、「墓地の塀の支え部分、、、からは容易に塀上に登れ、そこからEDFの外塀最高部に移ることが出来る。その地点からは鉄条網もない。」   

05/12/08付けル・モンド記事より翻訳(12日朝、訳文の一部加筆・訂正いたしました)

12日追記:この事故(10/27)に続く保守党内部の反応と抗争についてはリベ(11/05)記事を参照してください。なおサルコジがクールヌーヴでラカイユ発言をしたのは事故の3日前です。Le fantôme, le chef et le miraculé.

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植民地特集をしている今週のヌーヴェル・オプスで不思議な広告ページにぶち当たりました。devoir de reagir

俳優ジャメル・ドゥブーズ、不良歌手ジョイ・スター、テュラム、カソヴィッツ、アラン・シャバ達が進める、選挙をしよう運動です。今年中に選挙人登録をして来年から選挙権を有効に使おうと、青少年に呼びかけています。(残念ながら日本政府は二重国籍を認めていないので、20年ここに住んでも猫屋に選挙権はありませんが。)

*****Lennon_saitama_1

同じヌーヴェルオプスから一ページ記事のクリップ。
Raconte-moi ton histoire 君の話を聞かせてくれるかい

生徒が移民系ばかりの小学校の“アナーキー・トロツキスト”教師クラスで、精神科医が20人の生徒をフォローした話(後日間違いを訂正いたしました)。 旧殖民地からやって来た人々がいかにして記憶を失うか、どうやったらその子供達は記憶を取り戻せるかという、興味深い記事です。

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ところでル・モンドウェブ版、記事タイトルの真上に広告がある。フランス政府のものなんだが、《雇用・税金・教育》とチカチカしてます。クリックすると、政府からのニュース・レター申し込み画面に変わる。これ、もしかしたら内務相の履歴とかが送られてくるんでしょうか?あるいは首相の巻き返し作戦か? A suivre.

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shibaさんがTV報道で確認したところでは、猫屋が訳出時ミュヒタンとしたトルコ/クルド少年 Mehittin Altumの名はミュティン・アルトゥンと発音されています。12月19日訂正いたしました。

2005-12-08

フランス・バンリュウ“暴動”映像クリップス

Fox ニュースのビル・オライリーが伝える“燃えるフランス”、ヴィデオがSushablogというところで見られます。
ちなみにオライリーという方、9月14日にはハリケーン・カトリーナがニューヨークの国連本部を押し流せばよかったと発言しているらしい、です。アメリカ・ダメポ。

Demo_1さて、 The French Democracy というムービーがありまして クレジットにはフランスにいるkoulamataが作ったとある。しかし、ムーヴィー見てみるとアシュレム(低家賃高層住宅)なし、フラッシュボールなし、EDFの変圧所は山小屋だし、ブロンクスみたいなレンガ造りの建物の屋上には給水タンクがあるし、、だいたいブール(北アフリカ系仏青少年)がいないですね。USメイド(NYCじゃない?)と私は思った。けれどル・モンドの記事によるとバンリュウにすむ27歳のAlex Chanの作だそう。

そうか。20時間で作成したそうだからデコ等は既成ゲームの転用なのでしょう。(中国系フランス人ですかね、作者)自分のプレステ2を売ってムーヴィー・ソフト買ったとか、、、。

2005-12-07

バンリュウ関係、勝手にバトン マチュー・カソヴィッツのサルコジ批判、フィンケル批評など、、

Iznogoudfenestrae さんが昨夜アップしたクリッピングに続けて。
ひとまずタイトルと恣意的部分参照のみ、時間が出来しだい粗訳コメントもつけてみたい。(ここでは発表時間的前後は無視なので、、ご理解いただきたいです。)

Vous n'etes pas responsable...
あなたには責任がない.... カソヴィッツ・ブログより
マチューはサルコジ・コメント(11月22日)に対する長い抗議文をアップ(11月29日)。サルコジが突然書きこんだ例のコメントと同ページにあり、2人の文章を比較できます。

Vous terminez votre lettre par cette phrase terrible qui conclue froidement tel un chef d’entreprise devant un bilan négatif, que« Depuis tant d'années, beaucoup d'argent a été engagé, beaucoup d'efforts ont été entrepris par les services de l'Etat comme par les acteurs de terrain. Les résultats ne sont pas à la hauteur des attentes. » . Pensez vous pouvoir diriger la France comme une vulgaire multinationale ? Sachez que les résultats ne sont pas à la hauteur des attentes d’une France que vous, les politiciens de tout bord, ne regardez pas dans les yeux depuis trop longtemps. Pensez-vous pouvoir « licencier » ces jeunes qui vous font de l’ombre ? Les nettoyer comme des déchets sur un trottoir ? L’équilibre démocratique n’a jamais trouvé sa source dans la répression, et vous le savez, si solution il y a elle est dans l’aide sociale et la compréhension des problèmes. Si vous ne continuez pas le dialogue, que va t’il se passer ? Il est de votre devoir ainsi que celui des institutions Française de répondre à la violence avec intelligence pour éviter de perdre le contact avec une jeunesse dont certains pourraient basculer dans d’autres formes de violences plus extrêmes et réellement dangereuses.

Vous n’êtes pas responsable. Effectivement je pense que vous êtes irresponsable.

あなたは手紙の最後を、赤字決済を前にした企業家のように、以下の恐ろしい文章をもって平然に終わらせている。《国家機関から、そして現地当事者たちから、 この長い年月の間に多くの金額が投入され、多くの努力が費やされた。その結果は期待に沿うものではなかった。》 フランスを、粗野な多国籍企業と同じように管理できるとあなたはお思いになっているのでしょうか?結果が期待に沿わないこのフランスは、あなた方政治家すべてが、長い間直視することを避けてきた国なのだということをよく理解してください。歩道上のごみ屑のように、彼らを掃除するとおっしゃるのですか?抑圧から民主主義バランスが生み出されたことは一度としてない、そしてご承知のように、もし解決の道があるとすれば、それは社会援助と個々の問題に対する理解力がもたらすだろうということです。もし、あなたが対話を続けないとすれば、なにが起こるのか?そのうちのある者はより極端で危険な別の形の暴力に陥りうる、この青少年たちとのコンタクトを見失わないよう、知性をもってこの暴力に対応するのは、あなたとフランス国家機関の義務である。

あなたに責任はない。確かに、あなたは無責任だと私は考えます。

***

ル・モンド系ブログから 
Finkielkraut veut faire "dérailler" internet 
フィンケルクロートはインターネットを“脱線”させたがっている。

作家、ジャーナリストのピエール・アスーリン/Pierre Assouline がアラン・フィンケルクロートのLa Revue littéraire 12月号にのったインタヴューを参照しながら、フィンケルクロートの言説が脱線するメカニズムを分析・批判しています。(ル・モンド紙上でのフィンケル論争はまだ続くかと思われますが、私的ブログでなら個人的意見を出しやすいというのはあるな)

(Ce qui ne m'empêchera pas de...) Quitte, dans le même temps, à lui reprocher son manque de sang-froid, son incapacité à résister au piège des formules trop brillantes, sa tendance à être le principal invité de sa propre émission, sa facilité à se laisser griser par sa propre rhétorique, une hystérisation des débats, son sens tragique de la vie abusif et un certain goût du martyr, toutes choses préjudiciables à la dispute intellectuelle.

同時に、冷静さの欠如、輝きすぎる決まり文句というトラップ/罠に抵抗できない性質、自分自身の番組の主要招待客になってしまう傾向、自分自身のレトリック/修辞の流れに自ら流されてしまう容易さ、ディベイトのヒステリー化、度を越した人生への悲劇的センスと殉教者に対する好み、など知的口論にとって有害な事々を非難することも(続けるべきだろう)

***
カソヴィッツの文章については、時間が見つかり次第、訳を続けてみたいと思います。原文がかなり長い、怒れる男(女もだ)の文章は訳しづらい、猫屋は言葉を選びすぎで時間がかかる、、、などの理由から、あまり期待はしないでね。

2005-12-04

ニコラ・サルコジ大活躍、とサルコジ・イズ・ノーグッド 04/12/05

Sarkozy

今日日曜、本来新聞も休息日なのに、こんな発言をわざわざ日曜日にやるというのが、まさにハイパー・アクティヴ。時間がないので、タイトルのみ。ル・モンドウェブ版から
Nicolas Sarkozy juge qu'Alain Finkielkraut "fait honneur à l'intelligence française"
ニコラ・サルコジ“ フィンケルクロートはフランス知性の名誉である ”と判断。

ル・モンド編集部、結局“危ない”記事については個別の読者コメント欄つけない方針にしたようです。なお問題になっているアラン・フィンケルクロートのフィガロでのインタヴューはshibaさんが訳出してくれてます(必読)。

***Naiss_1
fenestraeさんの書いている、サルコジ・ゴーグル戦略が気になったので私もやってみた。といっても単にNicoas Sarkozyをググッタだけです。それがなんと、出てくる出てくる。エイリアン・ベイビーに占領された宇宙船状態。第1ぺージと第2ページの頭にある“関連”もののみ並べます。URLにサルコジの名前が出てないのもありますが、中身はサルコジ履歴だそう。wikipediaページは内容見てないので白か黒か判断できませんが。てか、こうなると“夜にはすべての猫は灰色”状態だ。

sarkozyblog.free.fr
www.sarkozynicolas.com
www.interieur.gouv.fr/rubriques/c/c1_le_ministre/c11_biographie www.premier-ministre.gouv.fr/acteurs/biographie_5/nicolas_sarkozy_ministre_etat_53154.html
nicolas.sarkozy.est-impuissant.com ← なんだかこれ、アンチ・サルコ?とか思ってクリックするとかなり前たしか、fenestrae さんがアップしてたような、、今はポルノ・ポップアップがおまけとしてついてくる。踏まん方が賢明かと思われます。
www.sarkozy.com
www.assemblee-nationale.fr/tribun/fiches_id/2680.asp
www.premier-ministre.gouv.fr/ministere/composition-gouvernement/sarkozy.html
www.evene.fr/celebre/biographie/nicolas-sarkozy-2580.php
bravepatrie.com/article.php3?id_article=208
www.u-m-p.org/site/EquipeNationaleAffiche.php?IdEquipeNational=1
www.fil-info-france.com/actualites-monde/nicolas,sarkozy,ministre,ump.htm fr.wikipedia.org/wiki/Nicolas_Sarkozy

あとがき:ただ不思議なのは、リストの二番目がマイケル・ユーンの出てくる××な映画IZNOGOUDのサイトなんだよね。クリックしてみてもサルコのサの字も出てこないのだが、、メタとかにサルコ・エイリアン・エッグをしこたま仕込んだのであろうか。わからん。

Google_1あとがきのあとがき
:風呂に入ってからもう一度、上記 IZNOGOUD サイト見てみた。コード見てもなんもない。でもキャッシュみたら、Ces termes apparaissent uniquement dans les liens pointant sur cette page : sarkozy とあるわけ。
ふふ、どっかで頑固にクリックしてる人々がいるようだ。ちなみに上仏文訳は“サルコジというタームはこのページへのリンク上にのみある”。 猫屋はもうついていけないウェブの世界。要は Sarkozyイズ・ノー・グッド(ウィズ・フレンチ・アクセント)キャンペーンだったわけですね。ははあ。

たどりついた、このGoogle bombing の解説ページのひとつがここ
ここも←ここいらへんが震源地か、、、そうか。。。。

ではみなさん、こんな貧乏猫屋に少しでも同情を感じたらここをクリック→ sarkozy/サルコジ・イズ・ノーグッド! ←猫屋寅八はやはりフランスにいるべきだ、日本に強制送還されても困るという方、ここをクリック。

2005-12-02

私のすれ違った有名人

Mickjagger今日のル・モンドweek-end版は、値段が割高の癖に大して面白い記事がなかった。でクリップもなし。じゃあ、これまで読み損ねていた記事を引っ張りだして読むかというと、それもしない。なんだか、中休みしないと“世界”が皿洗いしてたり、“世界”がモノプリで買い物してる風になる。ENAとかの受験準備でル・モンド集中読みしてた学生が昔はいましたが(あれ、今もやってるんだろうか?)それ以外には編集部は別としても、そんなに読み込む人は少ないだろうと思います。

で、今日は、今まで私がパリで見かけた有名人リスト・アップです。ヌーベロプスの今週号にパスカル・ブリュックナーの写真と文章が載っていて、、スーパーとか街中とかカフェでこの人、3・4回見かけたことある。そんなわけで、このタイトル。でもきわめてフランス・ドメスティカル有名人なので、他所にいる方には申し分けないのですが。

パスカル・ブリュックナー(思想家) 

リチャード・プーランク(自転車乗り) シャンゼリゼ近くのイタリアン・レストラン、すぐ隣のテーブルで食べてた。5年ぐらい前か。

ドパルデュー(俳優) バスティユー裏の路地で、黒い乗用車から降りた黒い服の大男が道をななめに渡っていた。思わず狭い通りの向こう側にいた見も知らないご婦人とジェスチャーで“本物だよね!”信号を交信。1年まえ。

ベルナール・アンリ・レヴィ(哲学) 当時いきつけだったカフェ“リュクソンブール”で、さっと来てさっと帰って行った。背が高くシャツはやはり白かった。18年前。すぐ隣のメディシス通りに元奥さんと娘が住んでいるらしいと、最近判明。

ミシェル・ポラック(批評) 今では知ってる人は少ないと思う。サン・ミッシェルの今はなきニューモーニングのそばですれ違い、あの眼と眼が合った。これも18年前、界隈に住んでいた頃。

MCソラー(ミュージッシャン) ヴィクトワールそばのブティック街。もうひとりのブラック男とふたり、カシミアのコートを肩に引っ掛け、大また歩き。口惜しいがかっこよかった。

マチュー・カソヴィッツ(映画監督、俳優) 3年前か。グラン・ブールバールの携帯電話屋で寄ってきた子犬がかわいいんで見たら紐の先がカソヴィッツ。眼があったら恥ずかしそうにしてた。あとから“ファンです”と言わなかった事を悔やんだ。小柄な人。

村上ナントカとその愛人(執筆業と愛人業、たぶん) シャルル・ド・ゴール空港。離れてファーストクラス・カウンターに並んでたけど、そろいのスーツケース多数とイタリアンな服装でバレバレ。大昔。

ニコラス・エヴァンス(米作家) 馬の耳にこそこそ言う小説を書いた人。5年ぐらい前。メトロ1号線でとてもラフでシックな服装をした米国人がいるので、ほよっと思った。でも酒ヤケ風でおまけにショートブーツの靴紐が解けてんの。同日夜TVに出てて作家だとわかった。

ルッキーニ(俳優) 3年前。ファーストネーム忘れた。サンジェルマンで若い女の子のあとを5mぐらいはなれて、あっちこっち歩いてた。

ソニア・リキエル 12年ぐらい前か。冬の夕方、大きな籠を下げてノートルダムの後ろの公園を横切っていた。雰囲気がハリーポッターだった。

岸恵子さん 夜のサン・ミッシェル通り。

アラン・ジュペ(政治家) 去年飛行機で。あと元教育相で哲学者の人は東京ですれ違ったが名前思えてない(追記:そうです、リュック・フェリ。せっかく東京まで来てるってのに、すっかり自分の雲の中って感じで、、、キョロキョロしない哲学の人)。ファビウスは大昔セナの横で見かけた。

DDブリッジ・ウォーター(ジャズ歌手) 数年前、すし屋カウンターで隣にいた。

書き忘れてた
ミシェル・ウールベック(作家) 二年ぐらい前。TGVのビュッフェの通路にひとりで立ってた。ものすごく居心地悪そうな雰囲気で:これは自分が有名になっちゃった結果としての居心地悪さなのか、もともとウールベックという人であることの居心地の悪さなのか、は分からない。

もういっちょ後出し、さっき思い出した
エマニュエル・ベアール(俳優) 真昼間のルーヴル通り郵便局横。ポインターつーんですか、ゴージャスな大型猟犬の鎖をつかんで、猟犬も彼女も鼻高々ゴージャースに歩いてました。傍行く人はみな道を譲る。見事に女優さんでした。5年前ぐらいか。

思う出すのはこのくらいかな。いつかミック・ジャガーに出会って見たいもんだが、派手な夜遊びはしなくなって久しいので(私の方)、無理だろう。よくパリに来てるみたいです。

私の弟はこれも大昔、原宿通りで下駄履いたジョン・レノンにすれ違っている。負けた。

他のル・モンド記事クリップ

Ecole1905年法に関するフォーカスページから

La loi de 1905, histoire d'un débat qui n'en finit pas 
1905年法、終わらない議論の歴史

ディベイトページから
La laïcité, c'est l'Europe, par Pierre-Henri Tavoillot
ライシテ、それはヨーロッパだ ピエール-エンリ・タヴォイヨ

Un bouclier pour les femmes, par Michèle Vianès 
女性にとっての盾 ミシェル・ヴィアネス

Pour un marché libre des cultes, par Charles de Laubier 
宗教のスーパー・マーケットのために シャルル・ド・ロービエ

その他にもライシテ関連記事多し。イランの女性問題、トルコの事例紹介など、読みどころがあります(ありすぎで読みきれない)。 kiyonobumieさん、(かわりに)読んでください(笑)

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ド・ヴィルパンが発表した勉学についていけない子供達に関する政策について、

Contre l'échec scolaire, le premier ministre prône le suivi des élèves et des sanctions parentales 
勉学脱落に対して首相は、生徒の(個人的)監視(←うまい訳語が見つかりません、でフーコー的語訳)監視指導と両親への処罰を説く
Villepin annonce des mesures en faveur de l'égalité des chances
ヴィルパンは可能性の平等を考慮した政策を発表

そしてド・ヴィルパンの政策と、それに反応したサルコジへのル・モンド紙の批判、エディトリアル
Fracture scolaire  教育断絶
なお、ル・モンド記事横枠の読者からのコメント欄、最近意見がかなり偏っていると思います。ネット・ハイジャックの可能性がきわめて高い。ル・モンド紙がいつまで放置するのか、見ものです。(というわけでリンク先は印刷用ページの場合が多いのですが、ご了承ください)

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これは28日付けの記事ですがクリップ忘れ、貼り付けときます。
En un an, l'UMP est devenu une machine de guerre électorale
一年でUMPは選挙戦マシーンと化した

2005-12-01

ル・モンド記事“バンリュウ危機の数字から見た結果”

Banlieue_paris041105_1本日発行ル・モンド紙版第3ページから部分訳出

Le bilan chiffré de la crise des banlieues

フランスのバンリュウ騒動が治まってから2週間、ド・ヴィルパン首相はこの29日CNNで、92名の死者を出したロサンゼルス暴動(1992年)に比較し、”“フランスでは2週間の混乱の間に一人も死者が出なかった。”と発言。(猫注 パリは燃えている、という言葉を使って報道したのがCNNです。) 首相は、《暴動》ではなく《混乱》であったと反論している。

この発言はクリシ・ス・ボワの少年二人の死亡と、スタンでの住人の死、およびトラップでの高校警備員の死を勘定に入れていない。統一した形での公式発表がないため、ル・モンドはバンリュウを炎に包んだ三週間における、独自の人的および物質的被害レポートを作成する、、、。

10月27日から11月17日に3人の死者があった。27日クリシ・ス・ボワで警官から逃げようとしたと思われる少年2名が感電死。またスタンでは火災を防ごうとした退職者が身元不明者に乱暴を受け死亡したが、被害者の妻は郊外暴力とは直接関係のない報復行為との仮定を重視している。公式に騒乱が収まったとの発表後の11月21日、火の付いた車の消化にあたったトラップの高校警備員は窒息死している。また11月2日、セヴランの住民がバス内でガソリンをかぶり重症、数日の入院の後帰宅している。

ル・モンド紙に12月1日届いた内務相の報告書によれば、治安警察の動員が最も多かったのは11月13-14日の夜で11500人の警官と憲兵が配置され、217名の負傷者が出た(うち10名が10日以上の“病休”)。モンテルメイユ、グリニ、ブレスト、ラ・クールヌーヴ、サン・ドニでは治安警察に対して実弾が発砲されている。

騒乱側の負傷者についての正確な報告はない。CRSと憲兵は催涙弾とフラッシュ・ボール(猫注:サルコジが導入した硬質ゴムボール弾)が多数使用され、トゥルーズでは11月7日投げられた催涙弾を、警察の見解によると警官隊に投げ返そうとした青年(21歳)の手首が吹き飛ばされている。

11月7日、若い青年に暴行を加えた容疑で5人の警官が書類送還された(クールヌーヴ)。またこの時期、セーヌ・サン・ドニでの医療救急は普通時より出動数が少なかったと、緊急医療医責任者は言っている。

物質被害についてのリストアップ。
保険連盟の見積もりによると被害総額は2億ユーロ。うち焼かれた自家用車約一万台の損害は2千3百万ユーロ。自治体保険団体は当初2億5千万ユーロという損害額を発表したが、第一回の監査の結果、最終数字はこれよりも減る見込み。内務相は、300の自治体において233の公共建築物、72の民間建築が破損あるいは焼失されたと言及している。

教育省によると、管轄下の255の学校が11月1日から16日までに被害を受けた。割合を見ると中学が最も大きい被害の対象になっている。また体育館の破壊例も多い。(それぞれ各県での被害額は原文を参照ください)

ポスト(郵便局)に関しては、車100台が焼失、51の建物が損害を受けた(うち6郵便局は一時的に閉鎖)。

RATP(バス・RER)は140車両が黒こげ状態、うちバスおよびRER(郊外電車)10台が燃焼性投下物による被害。損害総額は5百万ユーロ。

文化とコミュニケーション相によると約10の図書館に破損が見られる。

パリ商工会議所の第一次暫定報告によると、パリとその近郊地区で被害にあった企業は約100に上る。オルネー・ス・ボワではルノー・ショールームと繊維関係企業の火災で2万平方メートルが焼失。

内務相によると、18の宗教設備が損害を受けた。ロマン・シュル・セーヌでは(カトリック)教会の屋根と祭壇の一部および家具が火災によって損傷を受けた。カルポントラ、モンベリヤールのモスクに火炎瓶が投げられ、リヨンでのモスク被害は限定的なものだった。ジョルジュ・レス・ゴネスとピエールフィット・シュル・セーヌのふたつのシナゴーグ(ユダヤ教会)が傷められた。10月30日、クリシ・ス・ボワのメスク近くで催涙弾が破裂、祈祷室内にガスが流入した。

以上の行為のうちの一部は法的対処の対象となる。11月30日の内務相報告によると、4770件の尋問が行われたが、その半数近くは出来事の後であり、4402件の一時拘束があった。763人が勾留処分を受けたが未成年者は100人を越す。

法務相によると、422人の成人が即時法廷出頭の後、有罪宣告を受けた。法廷は加えて、45人の成人を禁錮以外の罰則(猶予、公的労働)宣告し、また59人を釈放。法務相は最後に、152名が10日から2ヶ月間内の出頭命令の対象であると述べた。さらに重大な行為に対しては、135件の法的調査が始められた(意図的火災および暴力行為など)。

リュック・ブロネール パスカル・ソー/ Luc Bronner et Pascal Ceaux ル・モンド 05/12/02 より

忘れないためのクリップふたつ

久しぶりに訪ねてみたネグリ系らしい仏サイトMultitude web から、バンリュウ騒乱関係

アントニ・ネグリ/Toni Negri
Ma per la Rivoluzione c’è tempo

スラヴォイ・ジジェク/Slavoj Zizek
Some politically incorrect reflexions on violence in France

イタリア語と英語なので翻訳エンジンも駆使して、部分斜め逆さに穴だらけ読みしたのみ。でもなんだか面白そう。今夜はfenestraeさん訳出中のリベ討論をまた読み直したんだが(3回目なのに)どうも良く分からないという、、めっき剥げっ放しというか、難しい文章を読むのは学生時代以来というか、もともと脳天気ですが、なにか?な夜更かし。ゆえにこのエントリー、本文はなし。

2005-11-30

クリップだらけの今日この頃、フランス内政クリップです

ル・モンドの心ある、というか時間ある読者が各界賢者の繰り広げるディベイトを必死に(は猫屋だけでしょうが)読み込んでいる間、フランスのUMP現政権はかなり強硬な各種法改正を進めています。今日のル・モンドだけでも、

・フランスの植民地政策を美化する方向性のある新法(2月23日制定)に対する社会党による撤廃案を却下。
Colonisation : l'Assemblée rejette la modification de la loi de février demandée par le PS

・議会は、対テロリスト法を可決 
L'Assemblée a adopté le projet de loi antiterroriste

・これは国民議会ではなく元老院でですが、サルコジが2006年に25000人の不法滞在移民の国外追放を目標とするプロジェクトを発表。
Nicolas Sarkozy fixe un objectif de 25 000 immigrés en situation irrégulière expulsés en 2006

・月曜日28日サルコジは知事達の前でドラッグ犯罪とグループ犯罪に関しての取り締まり強化を発表 
Violences en groupe et trafic de drogue : M. Sarkozy veut créer de nouvelles sanctions

そして同時にフランス国の財政赤字が2 000 milliards d'euros/2 000 000 000 000 eurosを越すらしい記事も(数字オンチの猫屋は500ユーロ以上になると日本式換算が出来ません)。
La dette de la France dépasserait les 2 000 milliards d'euros

*

他のプレスも探せばもっと出てくるのかもしれません。私の印象としては、

☆郊外騒動の結果、ヴィルパン・サルコのタンデム政府への支持率が高まっている現在に世論の反応を待たず通りにくい法案やプロジェクトを可決、あるいは発表してしまう。派生として、2007年の大統領選に近くなっては人気に差し障るので、ゴタゴタにまぎれての今が吉日。(選挙前の大型財政赤字はあとになってから心配するのはフランスの常識)

☆シラク大統領の影響力低下から、大統領選でのシラク公約は無視できる。

☆おまけに第二党である社会党は内部お家騒動に忙しいのでこれも吉。

などなどの動機が考えられますね。気が滅入ります。
大いなる疲れに襲われます。脱力します。

外国人留学生への対処や滞在許可証の更新も厳しくなるのでしょう。これは過去に、パスクワが内務相に就任した折、学生だった私が極めて激しく体験した事象でもあります。

そういえば、サルコジはパスクワの選挙区を継いだお方であると思い至りました。あああ。
なおパスクワ元内務相は、アフリカを巡る汚職、オー・ド・セーヌ(92)をめぐるブイグ絡みの土建屋汚職、イラクでのFOODS FOR OIL汚職などにおいての立役者であったことを忘れてははいけません。

なお米国に眼をやると、これもまた悲惨だなあ、の《暗いニュースリンク》からクリップ
イラクの現状 デイリー・ブリーフィング
ル・モンドにも英ガーディアンを引いて元イラク首相イヤッド・アラウイの“サダム時代の方がましだった”、、という記事をアップしています。
"En Irac, c'est pire que du temps de Saddam", accuse Iyad Allaoui

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もう私は寝ます。あしたはまた別口の対アドミン立件が待っているのであります。
翌朝追加:猫屋がうだうだ愚痴書き続けていた間にfenestrae 師匠は今回の郊外騒動に関して意味あるコメント・エントリをアップしてました。翻訳コラボも戴いてます。ご参照ください。

2005-11-29

今日のル・モンド記事のクリップと、メモのメモ

Cnn_funny_france_1

29日付けのル・モンド、なかなか読みでのある記事が多い---一ヶ月に一度ほどのヒットですが、月曜発行紙は面白いのです。

バンリュウからはじまり、結局アイデンティティ、教育問題まで含む大きなディベイトになっています。それ以外にも、チェチェン関係、イラクでのフセイン裁判、イスラエルのシャロン新党とペレスの新党参加、欧州での米国 CIA秘密刑務所、中国でのベンゼン汚染がロシアに広がる、、、なんとも大変な“世界”ではあります。私の仏読ペースでは全部読んでたら一週間はかかるな。

というわけで、バンリュウ騒動関連記事から、
まずはル・モンド社長、コロンバニの長い社説 《 Aprés le choc 》“ショックのあとで”。 この例外的に長い社説は、現在のフランスの持つ問題点を“フランス・モデル”の失敗にかけて多義に渡り論評しております、以下任意に部分抽出、訳出してみます。

A arrogance/尊大 
cette couverture médiatique a révélé aux Français à quel point la distance entre le discours officiel sur le "modèle français" et la réalité sociale crée un effet d'arrogance sur la scène internationale. 
(海外での)このメディア報道は、“フランス・モデル”についての公式見解と、実際の社会との間にあるギャップが、いかに国際社会における尊大さという結果をもたらしたか、フランス国民に明らかにした。

C chômage/失業 
Or lorsque les corps intermédiaires sont affaiblis — partis, syndicats, école, église —, l'emploi reste la seule route vers l'intégration. L'emploi devient bien plus qu'un travail rémunéré : c'est l'apprentissage de la société, la confrontation sociale, l'insertion.
(全国での失業率が10%付近で一定であるのに対して、問題となったカルティエでの失業率は30%であることを受け)仲介となるべき、政党・組合・学校・教会がその機能を弱める時、雇用がただ一つ残された同化への道となる。雇用は給与を伴う労働以上の意味を持つ:それは社会を、社会的対立を、社会への同化を学ぶ方法である。

D discriminqtion/差別 
telle est la véritable urgence.Nous sommes face à la réalité des résistances que nous opposons à notre propre diversité. Qu'il s'agisse de la ghettoïsation urbaine ou scolaire, elles sont le fruit non d'une politique mais d'un mouvement de la société, de sa parcellisation, de l'éloignement que chacun cherche à organiser d'avec la catégorie qui lui est réputée inférieure, au nom de l'angoisse du déclassement.
差別、これが真の緊急事項である。私達は、私達自身の多様化に対するレジスタンスという現実に直面している。都市部の、あるいは教育に関するゲットー化現象は、政治の結果ではなく、(テリトリーの)細分化や、個々人が不安やクラス・ダウンを理由に、(自分達の)すぐ下のクラスを想定してそれから逃れようとする、この社会変動の結果である。

I intégration/同化 
la question de l'immigration dans nos sociétés n'en est qu'à ses débuts, sous la double pression de la faiblesse démographique de l'Europe et des migrations venues du sud et de l'est. Cette immigration, il faudra la canaliser, la réguler, la maîtriser. Après le marché unique, l'union monétaire, l'esquisse d'une politique de défense, la nouvelle frontière de l'Europe sera celle-là : réussir l'absorption et l'intégration de ces nouvelles vagues d'immigration.
私達の社会において、移民問題は始まったばかりだ。これはヨーロッパの人口増加率の減少と南と東からやってくる人口移動とのふたつのプレッシャーを要因とする。この移住を、一定方向に導き、制御し、コントロールする必要があるだろう。市場統一のあとに、平価統一、防衛統一政策の試みに続くヨーロッパの新しいフロンティアとは:この新しい移民の波の吸収と同化を成功させることであろう。

M maires/知事 市長たち
Quelle que soit leur étiquette, ils ont permis, par leurs actes et par leurs paroles, que chacun, à sa place — gouvernement, opinion, médias — prenne conscience que les violences étaient l'expression d'un véritable problème social et politiques.
それぞれの政治色とは無関係に、現地から彼ら(市町村の長)はそれぞれの行動・言葉をもって、--政府、オピニオン、メディア--に、今回の暴力が、政治・社会という現実問題の表現化であることへの認識を促した。  

N nostargie/懐古主義
Pierre Rosanvallon parle d'une "idéologie radicale-nostalgique", de l'idéalisation d'un capitalisme à l'ancienne,,
ピエール・ロザンヴァロンは“ラディカル回顧主義、旧態の資本主義の理想化”について語っている、

N neuf/新しい
l'immobilisme est la source du mal : la France refuse de s'adapter au nom de la préservation du statut de ceux qui en ont un
不動主義(あるいは事なかれ主義)は悪の根源である。ステータスを持つ者たちの権利保護という名において、フランスは適応を拒否している。

P politiques/政治(複数)← 猫屋注 読んだけれど意味が汲めないので一時的訳なし
(30日追加、fenestare氏が該当部分を訳出して下さった。きわめて共和国的オファーに感謝しつつ、ここはひとつネック・ウルトラ部分でもあるので例外的にこのP欄のみ全文載せます)

Arnaud Montebourg ne le sait pas, mais sa thèse sur une république "primo ministérielle" a déjà triomphé : le couple improbable Villepin — Sarkozy a suppléé la défaillance présidentielle, dans un partage des rôles où le premier ministre exerce tout le pouvoir tandis que le ministre de l'Intérieur occupe le terrain. A eux deux, ils ont été efficaces et ont satisfait à l'exigence première du retour à l'ordre. Ils ont, comme on dit, tenu l'État grâce au soutien de l'opinion et à celui, tacite, de l'opposition — qui s'est à ce point gardée de toute surenchère qu'elle en a paru absente.

Dans notre monarchie républicaine, il n'est pas indifférent que des désordres aient surgi alors que le sommet de l'État s'est trouvé affaibli. La présidence n'est pas, impunément, la clé de voûte des institutions. Cela vaut dans les deux sens : dans le défoulement des uns, et dans la retenue des autres — les syndicats —, qui ont confusément sans doute, jugé trop dangereux de donner un prolongement politique et social à la violente crise des banlieues

.[第5共和制に代る第6共和制を訴える社会党左派新勢力の]アルノー・モンブールをは気づいていないかもしれないが、大統領からより多くの権力を委譲された首相制という彼の考えは、もうすでに勝利を収めている。考えられないようなヴィルパン-サルコジというコンビが大統領権力の機能不全を埋めている。首相がすべての権力を行使し、内務大臣が現場を仕切るという役割分担のもとに。この二人は、二人三脚で、めざましく働き、秩序の回復という急務を解決した。二人は、世論の支持とさらには、まるでどこかにいなくなったかたに見えるほど論争のエスカレートをいっさい避けた野党の暗黙の支持を得て、言ってみれば、国家を維持経営した。

われわれが共和主義的君主制にいることを考えれば、国家の最高権力が衰えをみせたときに秩序を乱す騒動が勃発したのを偶然と考えることはできない。大統領権力がすべての権力機関をまとめるたがであることを止めていながら何も起らないということは有り得ない。この事態は二つの方向に作用した。一方の晴れ晴れしい解放、他方の自制である。後者つまり労働組合は、おそらくとまどいながら、バンリュウの暴力による危機を政治・社会運動へと接続発展させていくことは危険すぎると考えたのである。------引用終わり。

U urgence/緊急
mesures de temps de guerre civile, dont la teneur symbolique est désastreuse. En écartant les mesures ordinaires de maintien de l'ordre, le gouvernement a également oublié que quiconque observe la scène nationale, sait bien de quel poids pèse telle ou telle catégorie dès lors qu'elle se manifeste, parfois violemment, dans la rue.
市民戦争時の措置である(この法令)適用は、破綻的象徴としての意味合いを持つ。治安維持にあたって通常の措置を取らなかったことで、政府は(この適用が)特定のカテゴリーの人々にとっていかなるプレッシャーを与え、また時としてそれが街場での暴力を伴いうるだろうと、この国家事態を見守る誰もが感じ取ることを忘れていた。

V vocabulaire/語彙
Cette difficulté à nommer les événements marque bien le malaise profond qu'ils ont suscité, et révélé. Car l'expression de cette rage, de cette haine aussi parfois, qui n'avait ni porte-parole, ni revendication, ni objectif précis, n'a surpris personne en France. Tout le monde a tout de suite compris la gravité de cette colère : nous savons bien que là est la question centrale de la société française...Rouvrir le chemin d'une promesse républicaine, sans distinction d'origine, sans discrimination : telle est la véritable urgence、
この出来事に名をつける困難さ自体が、彼ら(バンリュウの青少年)が引き起こし、表面化させた深い居心地の悪さを示している。なぜなら、代表者も、要求も、明確な目的も持っていないこの怒りの、また時としては憎悪の表現は、フランスにいる誰をも驚かさなかった。すべての人間がすぐにこの怒りの重大さに気づいた:これはフランス社会にとっての中心問題なのであると、私達は知っている。。。出身による区分けも差別もなしに、共和国の約束された道を再び開く:これが本当の緊急事項である。

以上で記事参照と訳出終わり。

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fenestraeさん翻訳中リベ討論記事のRosanvallon の言葉“ラディカル・ノスタルジー主義”にも触れている。けれど印象に残るのは、このところコロンバニが強く出す、プラグマティズムの必要性と現在のフランスの“不動主義”批判、それにサルコジの語彙批判です。また、アルジェリア戦争とニューカレドニア内乱など、暗い過去を引きずった緊急事態宣言をなぜ来年2月まで延長するのか、この点も批判している(なお、現在も政府による緊急事態宣言は継続されているものの、実際にこれを施行するのは地方自治体で、今現在夜間外出禁止令を出している県はない)なおこちらのページ(賞味期間短し)ではこの文章に対する読者のコメントが横枠内で読めます。またロザンヴァロンへのインタヴュー記事もあります(11/21ル・モンド)。La société est ensevelie sous un épais vernis d'idéologies

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もうひとつの記事はディベイト・ページから Immigration et histoire  “移民と歴史”。
「歴史家として、私達の市民としての義務は共同体の記憶を新しくすることに参与することだ(かなりな意訳ですが)。」という、CNHI (cité nationale de l'histoire d'imigration)のメンバー9人の連名記事です。

19世紀からの移民の歴史はこの国の一部であるのに、今までフランスはこの事実を認めてこなかったという主張。ここでも単語“racaille”が再登場します。

1937年のル・マタン紙が“la racaille étrangère dans la France dépotoire/ゴミ捨て場フランスの外国人ラカイユ/屑(となりますか) ”と書いている。この新聞は、ペタン政権との協働のため1944年に廃刊となっている。また、現政権が植民地主義の美化を含む法案を今年の2月に議会通過させたと批判しています。連名の歴史家達が呼びかけるのは、フランスの植民地政策と移民の歴史を学校教科書で扱うべし、というものです。

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寒い日が続きます。この一週間でフランスでは7人のSDF/ホームレスが死亡している。今日のTVニュースでは、近年のホームレスの中には職を持ったものも多い、と報道していました。確かに、低賃金、あるいは固定職のないものには大都市の急激に上がった家賃は払えない。

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今日のフランス教育制度について私の知っている2・3の事柄、についても書きたかったのですが時間切れ。これはまた頭の痛い前倒し宿題化であります。

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今日の追加:先週のカナール・アンシェネ(11/16)で見つけた小記事
《サルコジの再犯》 11月10日のFR2の討論番組で、今年6月ラ・クールヌーヴで流れ弾に当たって死亡した11歳の少年の事件の容疑者2人は、“強姦と不正武器取引”の犯罪前歴があるとサルコ内務相は発言してるんだそうです(私はこの番組見ていない)。ところが問題は、容疑者達の犯罪歴には強姦も武器取引の事実はないそう。このクール・ヌーヴであの “カルシェール/水圧掃除器”発言があったのだよね、事件直後。

★☆★
編集後記、昨日(29日夜半)に書いたエントリを翌日大幅に編集しなおしました。30日にfenestrae氏の訳出を追加しました、サンクスコ。

2005-11-25

クリップとメモ、サルコジなど

Birdflu_frringtonこれはfenestraeさんが書き込んだ、shibaさんのブログ・コメント欄からいただき、
カソヴィッツのサルコジ批判に対して、カソヴィッツのブログコメント欄に直、貼られたサルコジの反論。このコメント欄には今現在、サルコジまぜて397の書き込みがあるようです。私はサルコカキコ文斜め読みのみ。私のブログ観では、サルコジ自身が自分のブログを持ってるわけだから、そっちで対カソ反論すりゃあいいようなもんだが、それをわざわざカソヴィッツのところでやるのがなんだな、とてもサルコジ。釣れるもの。

反論自体はさして、面白くはない。意味があるのは、現地にすぐ出向いてカメラにおさまることにあるわけだからね。

サルコジ戦略は、実際に使う“言葉”の裏側にあるsous-entendu/言外の意、暗示、ほのめかしを、人々の“恐怖・不安”、これはいわれのあるものもないものもいっしょくた状態のまあ言語化されてない感情、に結びつけるというものだ。マーケティングね。

ある意味、需要/desir がないところにも需要/desirをを作り出すインセンティヴ・マーケティング。離婚成立の見込みがなかなか立たないようだが、サルコジ夫人の恋人が、サルコジUMP党首就任大会のオーガナイザーだったというのは象徴的です。

私を含めたパリすずめの多くが、バンリュウ騒動の始まって間もない時点で、サルコジには“カルシェール/水圧清掃器”“ラカイユ/屑”というマークがこれから一生付いて回るであろう(これは間違いはない)、サルコジの政治生命はここで(少なくとも一時的には)ストップするだろうと見たわけですが、後者は見事にはずれ。

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これは今日出たヌーヴェルオプスで読んだ記事です。移民問題を専門とする歴史家ジェラール・ノワリエル/ Gerard Noiriel がインタヴューに答えて、現在の危機は《フランスにおける移民の同化政策》の失敗を示すものではないと言ってる。そうではなくて、これは社会問題なのだが、社会問題というのは元来左派のボキャブラリーであって、保守は使えない。そのかわり、、フランス国籍を持たない壊し屋を国外追放にしたり、いくら考えてもリアリズムのないポリガミ論と今回の騒乱を結び付けてみたり、と結局争点を“外国人”というカテゴリーに持っていこうという、方向づけを今保守がやっている。(これは記事の猫屋読みなので、誤読の可能性もありますが、、、と予防線張っとくわけだが、、)

問題があると、それは外部者の責任だ、というのはもう歴史が今までにイヤというほど見てきた事象なんですが、内部にいるとそこが見えないんだよね。私に向かって、J'suis pas racist'mais .../私はもちろん人種差別主義じゃないけども、、と言う“善良な市民”は目の前にいる人間が他人種であることを忘れているので、苦笑しちゃうわけです。

あと、ボボ(ブルジョワ・ボヘム)が見事にペジョラティフ/軽蔑語として機能しちゃってますね。“エリート”と“ボボ”を排除したら、じゃあいったい誰が残るのか。サルコジ的まっ平らな無思想平原が広がるんだろうね。リベラシオンは解雇問題をめぐって四日めのストです。これも痛い。社会党に、今の混沌状態を収斂させることの出来る論客がいない。ハードに痛い。

行き着く先は、特に“安全地区”で虎の子を抱えるシニアーとかはもうそう考えてるんだろうが、イスラムがフランスを乗っ取るという恐怖でしょう。

アイデンティティの危機は、なにもバンリュウの子供だけの問題ではない。このアイデンティティの危機を受け入れる“思想”を提出できる人材がいない、あるいはこのアイデンティティの危機を大統領選へのツールとして利用するサルコジと、サルコジの後ろからサルコジとの差異をもって戦略とする、ド・ヴィルパン、シラクチームがいるわけだ。

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クリップ URLのみです(時間足らず)
ル・モンド社説 《Le Rap à l'index 》  排除されるラップ、とでも訳すべきか。UMPがラッパーを検閲しようとしていることに対する批判です。コロンバイン高校での連続殺人事件とメリリン・メンソン責任説を思い出しました。

同じくル・モンド、fenestraesさんが挙げていた、イスラエル新聞“Haaretz”に掲載されたアラン・フィンケルクロートのインタヴュー批判。La voix "très déviante" d'Alain Finkielkraut au quotidien "Haaretz" ハレッズ紙でのアラン・フィンケルクロートの“常軌を逸する”声、ですか。
“騒動を起こした者の多くは黒人かアラブ人でムスリム”と決め込むフィンケルクロートの口ぶりは“あ・あーそおだよお♪”ル・ペン語法の演繹です。(ブラック・フレンチのうちイスラム教徒は半分以下だったと思うんですが、、)

追加:スト解除のリベから Finkielkraut : "Je présente des excuses "
Mrapがイスラエル日刊紙Haaretzでのインタヴュー記事に対して人種憎悪を煽動したとの訴えを裁判所にだしたが、この訴えの対象であるフィンケルクロートは金曜日に“(自分は)政治的同一視の犠牲だった”と表明した。

2005-11-23

バンリュウ騒乱に関するクリップ、と猫屋のbla-bla-bla

またまたリンク元がフランス語で申し訳ない。

Wikidepia フランス版で《フランスバンリュウにおける2005年騒乱》という長ーいぺージを見つけたのでクリップ。
Emeutes de 2005 dans les banlieus françaises
騒ぎのクロノロジーなど仔細、関連するメディア報道などもあるわけですが、、まだまだ長くなりそうな予感、であります。またディスカス・ページを見ると、本ページ編集にかなりの数の人間の“熱意”が費やされているのが分かる。今回の出来事が、なんだかんだ言っても、今までの“スタチュ・クオ”の態度にとどまることなく、若い世代のダイナミスムに繋がれば、、言うことないんだけどね。

なお、同記事のWikipediaの日本語版に関しては言いたいこともあるが、だったら自分で編集せんかい、という猫屋内的批判が出てきますので、言わない。でも警官隊が投げた催涙弾は、翌日の現場検証によってモスク内ではなく庭に落下、結果祈祷中の内部に催涙ガスが入った模様です。

今のところの、騒乱全般に関する猫屋の見解ですが、arret sur images でも言われていたかと思うけれど、“共和国”の基本概念である平等はそれで正しい。しかしそのアプリケーションの時点で、フランス政府は“見たくないものには蓋”的態度を長い間取り続けてきたという事実はあるだろう。結果、基本概念と現実の間に大きなギャップができあがって、それが飽和状態になった、そう見ます。実際にかなりな額の援助があっても、それが丸投げで実際のアシストがないと、それは単なる無駄使い。

これは一時期の日本の、たとえば対アフリカ医療援助が、高価なスキャナーとかの医療器具贈与という形で行われたが、現地ではその器具を動かせる技師がいないため、贈与は埃だらけのまま放置された、という話にも似ている。(現在の援助がどういう形で行われているのかは知らない。これはあくまで過去の話です)

アフィルマティブ・アクションの話も、エスニック区分ではなく、地域枠でといった話も出ているようです。2007年の大統領選がらみであるのは仕方がありませんが、同時に国家赤字の大幅増大を次期大統領に“丸投げ”はなしに、最良策がとられることに期待したいですが。

なお、TV番組Envoyé Supécial で扱われてたらしいシヨンス・ポの特別区域からの特別学生援助みたいなのは、あくまでケース・スタディ枠であるようです。あの学校は外国からの留学生を引きたいようでかなり努力してますな。なお該当番組には、きわめてフランス(政府)広告的側面があるように、私は思う。

猫屋近隣アンケートでは、まあ社会党はおいといて、サルコジとド・ヴィルパンだったら、少なくとも美意識はありそなド・ヴィルパンかな、という線が多い。これでバイルーが入るとまたこんがらかって来るわけですが。

あと気になるのは、車やゴミ箱に火を付けた始めた者のうちに若年層(14・5才か)が多いらしいということ。こちらの子供の最も扱いにくい年齢(age bete)は14歳だそうです。これはバンリュウに限らず、全国的に言えるだろう。

高収入家庭でも、離婚や親の失業、あるいは仕事が忙しい親の関係で放って置かれた子供が、学校に行かなくなる、誰も相手にしてくれないから、悪いやつらのグループに接近する、結果ドラッグに手を出す、、といった話はこのごろよく聞きます。

社会での、それに伴って学校での競争が激しくなるのと平行に、学校で学ばなければならない教科内容もどんどん増えてくるわけで、おまけに昔はなかったゲーム・チャット・マンガはあるし、恋もせなあかん今時のティーンは大変だ。で、学校出ても就職難でしょ。いまごろ、ディランが流行ったり、ニルバーナが再ヒットしたり、ゲバラも人気だったりするのって、こう見るとよく理解できるわけです。バンリュウではそれがラップにあたるわけだな。

各時代の“怒れる世代”にはそれぞれの怒るに至る理由があるだろう。ご当人達はそれに気づいていないかもしれないが。そこの点を、フィンケルクロート(shibaさんの訳文参照)もグリュックスマン(これもshibaさんが訳出してくれました)も見ていないと思う。そこら辺を拾い上げないと、“哲学者”ではなくて、単なる怒れるおっさんだ。あるいは哲学が有効ではない時代になったのか?そうかもしれない。

また、バンリュウの火付け未成年“擁護論”はサルコジのラカイユ発言に対して発せられたものだというクロノロジカル・コンテキストを離れては読みが外れるだろう。

それはさておき、サルコジに関して:叩きゃあどうにかなるとは思えないわけね。叩いたら選挙は勝てるかもしれないけど、後になって収集が付かなくなる可能性は高い(ってのは、イラク戦争開始時に猫屋が考えていた某所で叫んでいた、ことでしたが)。

追加クリップ 
社会学者エドガー・モラン/Edgar Morin ラジオインタヴュー(11月12日ウィンドウメディア19分22秒)“人間的言葉で始めるべきだっただろう、、、”
morin.asxをダウンロード

2005-11-20

フランス“暴動”をめぐるクリップ・クラップス

残念ながら、リンク先はほぼフランス語であります。英語読みの方は翻訳エンジンたとえば、http://babelfish.altavista.com/で英語化するといいかと。antiECOさんのコメント欄でお約束したラップ関係プレスURLなどアップしてみます。

フランス5がやってる、20日の Arret sur Images、タイトルは“Bavure et incendie、カメラの権力”この番組の ヴィデオが見られます:先週放送分はfenestrae氏がリンクしてました。内容は70分程あるし、トピックも多種いろいろ扱ってますが、見て損はない。特に“騒乱の夜とカメラの存在とエモーションについて”ジャーナリスト達の興味深い考察が聞けます。(番組が終わってからのオフ会話までなぜか収録される)

解説するとこの番組チーフ、シュナイダーは、元ル・モンドTV専門記者だったが、ル・モンド批判をして離脱、今はリベでフォーラム担当もしているという骨太男。なお、TV批判のこの番組を批判する人も多く、まあとてもフランス的というか、、なお、この番組内でも話題になってましたが、同時間帯に流される《Le vrai journal》というのがありまして、こっちはある意味もっと“過激”、すぐ後に続く《Guignol des infos》とともに、シテばかりではないフランスの子供とティーンの“お気に入りTV”ベスト5に入るんじゃないかと思う。

*

だいぶ以前ですが、サイードの文章を翻訳紹介していてだいぶお世話になった、中野真紀子さんが英字記事を日本語に翻訳しています。《WHY IS FRANCE BURNING?》 というタイトル。Direland という(後追記:ブログの)アイルランド氏の記事は11月6日の物なので、事態がスゴイスピードで変わりつつある現状を考慮する必要はあるにしても、(追記:ガーディアン以外のアングロ・サクソン系ジャーナリズム枠では例外的に)正確な記事だと思います。

**Rap_2

ラップに関する記事クリップ

ル・モンドの《Rap de France, chronique de banlieue》 この記事有料化になってるはずだけど何故かまだ読める。フランス・ラップ、バンリューのクロニック、ですね。NTMのことなど書かれています。

"Combien de temps tout ceci va encore durer/Ça fait déjà des années que tout aurait dû péter/Dommage que l'unité n'ait été de notre côté/Mais vous savez que ça va finir mal, tout ça/La guerre des mondes vous l'avez voulue, la voilà/Mais qu'est-ce, mais qu'est-ce qu'on attend pour foutre le feu/Mais qu'est-ce qu'on attend pour ne plus suivre les règles du jeu."
---10年前録音のNTMのテキストから

同じくル・モンド、10日付け 《 Les cris du ghetto》 ゲットーの叫び
これは実際にバンリュウの視線の高さで書かれた記事。クリシ・ス・ボアのアソシエーション ADM についても書かれています。2ぺージの長い記事ですが、さすがル・モンド、ジョイ・スターの発言も入れて社会/文化的背景も描いている。

リベ(ラシオン)のラップ関連記事 《 les rappeurs l'aveient bien dit 》 、タイトルはラッパーたちは前から言っていたじゃないか、といった意味。過去15年にわたって、フランス・ラップはバンリュウの問題を歌い続けていた、ということ。歌詞テキスト、ラッパーの騒動に関するコメントが読めます。

Tandem_1しかしオーベルビリエのデュオTANDEM のSocrateのテキスト、"J'baiserai la France jusqu'à ce qu'elle m'aime" はすごいなあ。聴いた事はまだないんですが、これ、フランス詩の流れを引いてる。このフレーズ絡みで仏ブログ界も活性化しているようですが、“モラル”問題は別としても、これだけ強いフランス語を見るのは久しぶりです。“ゲージツ” 。ランボー、か。

***

さて、昨日の夜おそくのトーク・ショー《Tout le monde parle》 、には司会者のアルディソンをはじめ、バンリュウ出身の企業家Aziz Senni 、ギニョル・デザンフォ製作者のGassio たちが出演。(映画監督のフランソワ・オゾンがなかなかいい男なんでびっくり) 途中で《炎のバンリュウ/Banlieues en flammes》 という本を書いた、Charles Pellegrini という元公安系おじさんが登場、フランスの“移民政策”の失敗と将来のフランスの“イスラム化”について語り始めたもんだから大変。ボボ世代のガシオももちろんモロッコ系アジズ・セニもバフィも熱くそのセオリーを批判、、、。続きはFR2のフォーラムでも関連レスが1000以上になってます。ま、これはよくある話だ。

簡単に図式化すると、バンリュウ問題のベースに“移民政策とイスラム化”を見出したい人々(ここにはアングロサクソンメディアの一部も入るでしょうし)と、“社会政策の立ち遅れによって忘れられた若年層の怒り”を見るふたつの立場の対立だといえる。もっと簡単に言い切れば、そしてトッドの言葉を借りれば、“社会の上層に位置する人”(既成利権を守りたいブルジョワおよびプチ・ブル層)と、“原則・理想として”ではあれ自由・平等という価値を信頼したい層との対立ともいえるか。

ただ、問題なのはこのペルグリニの本が、以上に挙げたような社会的コンテキストを離れた形で、すでに日本で紹介されてる、と言う事なわけだ。なおこのじいさん、別にTVで引っ張りだこでもないでしょが。(TVほとんど見ないから明言はできないわけだが)。

問題の本を読んではいないし、これからも多分読まないと思うからこれ以上言うこともないわけだが、この本の著者がサルコジ支持者であって、“治安問題”をディベイトの焦点に持ってくるあの一連のマーケティングの一部的役割を持っていることは記していいと思う。

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トッドは“帝国以降”で、非英語圏では母国語という防波堤のおかげで、アングロ・サクソン文化/グロバリ現象をじかに被ることを免れる、といった意味のことを書いていた。いかんせん日本とフランスの間には、この言語の壁が2重に存在するわけなのだ。Dylan

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寒いし、今日は一歩も表に出ず対アドミン戦争の書類(パぺラスとも呼ばれる)を整理したり、思わず買ってしまった(!)ディランのDVD二枚目、部分だけ見たりときわめてヒッキーな日曜日でありました。しかし60年代のディランは凄い、につきる。

しかし、ビールもワインもストックがなくなって、緑茶でディラン。トホ。
ディランのコンサート・ツアーの名は No direction Home. スコルセッシが製作したこのDVDも同じ名。ノー・ダイレクション・ホーム。芭蕉みたいだな。

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いつもの追記:サルコジの展開する強硬処置への支持率68パーセントとかいう数字をどこかで見た。あああああ。今回の“騒乱”についての実態や分析をたどってみると、放置されてきたバンリュウ、また隠蔽され続けた“下層民”というフランスの実態といった面はさておき、10月末の出来事の発火点は明らかにサルコジ内務相の選んだ“言葉”にある。ただ、こういった“逆噴射”現象は欧州憲法投票時にも見たし、この夏の日本の選挙前にも目撃した。マッチポンプ逆噴射が機能するためには、

・マーケティング政治と、対する左派の衰弱
・良質のペーパー・メディアの不在、あるいは投票層からのこういったメディア離れ---フランスで言えば、リベの経済不調とル・モンドの“エリート主義”への反発、無料新聞(オピニオン紙にあらず)の市場開発
・そしてどんどん加速する生活形態 --- の結果として、多くの人々が毎日の社会的出来事について熟考あるいは意味探しする時間がなく、勢い“地雷だらけの”TVを判断リソースとする
・最長でも2分というTVニュースでは言葉よりは映像、文章よりは単語、分析よりはエモーションが重要視される、、、などの要因が挙げられると思う。

こう考えていくと、もうかなり悲観的になってしまうのだよ。猫屋はブッシュ、国民投票のNON、そして小泉の勝利に立ち会ったわけだが、この調子でいけばマッチ・ポンプ・サルコの勝利にも立ち会う羽目に陥るという、きわめて滅入る予想ができちゃうわけですね。(猫屋がTV見てると、シセは絶対ゴールしないのだ。なんだ、そうですか、猫屋は単なる疫病神ですか、、、自分ながらヤナ冗談であるわけだが)

2005-11-18

“フランスの階級”という宿題の続編

これはほぼご近所のshibaさんブログのさっきアップされたエントリへの返事、というより単なる無駄話です。まあチャット風にコメント欄に書くと長くなりそうなので、ここ自宅で。

・shibaさんがTB投げてくれた11月13日のエントリ 《“フランスの階級”という宿題》 で私が書いたのは、少なくとも私がフランスで過ごしたこの20年の間に、フランスの階級社会がより流動的になったという、私の印象です。 これはエマニュエル・トッドのル・モンドでのインタビューにもかぶります。

“ 『三人のフランス人のうち二人』は中産階級である ” ジスカール時代から、“ フランスの人口の半分は常に労働者と事務関連雇用者で占められている ” に移行しているわけです。(猫注:天神様の訳文を使わさせていただきます。謝謝)

つまり、ジスカール時代(在任1974年 - 1981年)には全国民の1/3だった非中間層が、現在は全国民の1/2に増えている事でもあるわけですね。同時にフランス社会のトップにあると思われるISF(高額財産に対する連帯的税金)を支払う財産持ちの数はたぶん全人口の2,4 パーセントぐらいと記憶していますが、この税金を払う国民数は70年代に比べ現在は増えている(はず)。 つまり、比率としては多くはないにしても財産家とそして労働者と被雇用者が増えたということは、同時に中間層(中間管理職、黒字の小中企業主)が減ったということでもある。

全体としてみれば、トップの大金持ちは若干増えているが、同時に貧乏人も増えるという傾向ですか。スタティスティックの扱いは私の守備範囲ではないので、これ以上は入れないわけですが。付け加えるなら、昔なら哲学者が扱った、そしてちょっと前なら文化人類学や社会学があつかった分野を歴史・統計学のトッドが数字を出してスパッときるというのはきわめて現在的です。これはイデオロギーがいったん死んでしまった現在だからこそ光ってくるわけだ。文化人類学がポスト・コロニアリスムと批判されたり、共産主義もベルリンの壁とともに消滅しちゃったわけですからどうも分が悪い。

・こちらに来てすぐ、85年ぐらいかな、なぜかグラン・ゼコルに入りたて、それとグラン・ゼコル入学準備学生達からなるグループと親しくなりました。(そのうちの一人は今は新聞・雑誌にも出るIT系企業のPDGになってます。エコル・ノルマルに入って遊びほうけてたやつは後年エイズで死亡している。) 

当時の彼らはジーパン履いても靴はかならず革靴だったし、日曜日でもジャケットにネクタイをしているのもいた。日本から来た私はいつもスウェットかTシャツにナイキだったから、なんとも不思議でした。

ナイキやロックといったアメリカ文化が大幅に受け入れられたのは90年あたりではないかと思う。マクドもいったんはフランスから引き上げています。サン・ミッシェルに再度オープンしたのは87年ぐらいだったかな。グロバリ化が世界を覆い始めるのはこの頃からか。

・中間層、は教員も含む“知識人層”でもあったと思います。新聞や本を読み、なんにでも意見を持つ人々、これには保守も左派も含まれるだろう。だがしだいに、ゴーシュ・キャヴィア(金持ち左翼)、そしてボボ/ブルジョワ・ボヘミアン、といった“あたらしい階級”が生まれてくる。金は持ってるが、考え方やライフスタイルはどうも社会党っぽいしアテ/信仰行動なし、だが実際は自分の子供たちは私立のカトリック校に入れるというスキゾ的人々です。また真性カトリックの人もどんどん減っている。

・そして同時に、シテ(あるいはゲットーとも呼ばれる)生活圏が形成される。建築当初はシテは必ずしもマイナスのイメージは持ってなかっただろうと思います。元来30年しか持たないだろうと考えられていた高層住宅が改築・改装されないまま残された。ここに居残った人々の多くは低所得者であり続けている。そこではブラック・ブール・ブラン(黒・褐色・白)の子供たちが混在している。そしてひとつの“文化”を共有している。

私の周りにいる友人の親達は、米国・リビア・アルジェリア・北アフリカジューイッシュ・イタリア・北欧・ベトナム・カンボジア移民とフランスとかとの混合組みとフランス・フランス組がいますが、その今は悠々自適な退職生活をエンジョイする中間層のそのまた親は、戦前に牛飼いだったり、ちいさな村の肉屋だったり、鉄道員だったり教員だったりするわけだ。

親世代は戦後の経済復興とともに、大学へ行きそして社会のはしごをうまく登っていったわけでしょう。(これが下層労働者としてアフリカの旧被植民地から大量の移民が入ってきた時期) また、戦前からの旧家出の隣人も、ドの付く友人もいますが、今ではただの人だなあ。土地とか城とか持ってる親はともかく、私と同世代の旧家・ドつきはISFを払っている風情はありません。いや隠してるだけかも知れませんがね。

という意味で、フランスの“階級”が革命前がそうだったように必ずしも“運命的”階層ではないし、時代とともに変容している。同時に言いたいのは、時間はかかるにしろ、階層間の風通し、つまり上る人もいれば(残念ながら)ランク落ちの人もいる。ただ、トッドの文章が示すように、彼の言う“大衆”つまり低所得者層が増大、同時に最下層も増える社会はやりきれないな、と思うわけです。

答えにはやっぱりなっていません。(単なる文章修行ですと言っておこう)

なお、今日たまたまつけたTVアルテで、危機感一杯ではない日常のシテでのドキュメンタリーやってました。残念ながら15分ぐらいしか見ませんでしたが、郊外RERの駅で保安に当たる(ボランティアかと思える)若い男性が“最悪は14、15、16歳のあたりだ、とにかく何でもする。そして18・19になると考え始める。でもそうすると今度は新しい14-16歳の子達が暴れ始める。おまけに暴力の度合いはどんどん激しくなる。僕はその世代と社会との間の橋渡しになりたいんだ” これが彼の言ってた大体の内容です。

たしかに、移民第一世は日々の生活と、やって来た土地に“同化”することに手一杯だろうし、同時に後に残してきた国のことも多くは語らないかもしれない。(このようなことはクロワチア系米国人でイタリア人の奥さんとリュベロンに住み着いた俳優マルコヴィッチが言っていたな)

国籍のないかのような、noman's land的シテの中で、このディアスポラの三代目は、それでもシテが締め切られた空間ではなく、実際の生活の場としてあることを示していたと思う(プロパガンダにしても)。

* * *
追記:フランス語系人のBO-YA-KI ブログで、raidaisuki さんがクリシ・ス・ボワの電圧室で死亡した2人の少年、と生き残った3人目の少年について、雑誌《 Jeune Afrique l'Intelligent 》 掲載の関連記事から引いて書いています。

《2人の未成年者の死》と、raidaisukiさんが書く《チュニジア人の職人の息子ジヤッド・ベンナZyad Benna(17歳)とその友人でモーリタニア人のブーナBouna le Mauritanien。3人の友人のうち生き残ったのはトルコ人のミュッタンMuttin le Turc、、、 》とのふたつの文の差異について、私達はもう少し敏感になるべきだと思う。すべての死者は、すべての生者と同様に、名前も歴史も抱えているわけですから。(猫注:フランスでは18歳で成人、したがって未成年は17歳までです)

もちろんこれから公表されるだろう、政府側の調査結果がどう言ういったものになるか見ていかなければいけませんが、トッドが書くように、今回のような出来事が、分断されていた若者達のコミュニケーションという出口に繋がる事を望むばかりです。

一応ボジョレー・ヌーヴォー

Bistro本日は朝もはよから対アドミン戦争のブリーフィング。指定場所に行く前にちょいとカフェのカウンターでコーヒーいっぱいと煙草一服。

いや、寒いのなんのって。それでカフェに飛び込んだわけ。薄手のセーターと革ジャケットにマフラーではもう寒い。と、飲んでますねえこの時間から(朝十時前)ボジョレー・ヌーヴォー。まあ市場で夜中から働いた“労働者travailleur, travailleuse”が仕事明けに一杯ビールならまあわかる。でも、そうでない方で朝っぱらから、というのはまだ私も気が引いて出来かねるわけです。(昼飯に一杯はやるですよ、後仕事なければ)。会社の社員食堂にも堂々と各種アルコールが置いてある国であります。ボジョレー解禁日は理由もなく罪悪感もなく、朝から酒が飲める日であります。

午後は友人との愚痴大会、これは某サロン・ド・テでしたが、ケーキにダージリンは苦手なのでボジョーレーをば試飲。ま、普通にヌーヴォー。見事にバナナとフランボワーズでありました。これ一杯で今年は打ち止めかな。だってボルドーが値崩れ、おまけに最近のボルドーは作為的に酸素大量注中作戦で若くてもまあまあ飲める。ボジョレーも値が上がったから、だったらボルドーsuperieurが買えちゃいます。

“昔はよかった”が出ると人生おしまいだそうですが、このごろは“昔はよかった”が正解になるくらい社会変化の加速度が異常なのである、ということにしている。これが単なる若年シニアの感慨だとしても、ボジョレーNは安いから楽しいワインであったのに、と郷愁にひたった今日でした。

(そしてもちろん、夕方のTVでは日本からの映像、ボジョレーの満たされたプールで乾杯する水着姿の人々の姿が紹介されていました。)

パリはいい天気でした。パリ人々の様子も落ち着いています。ただ夜の通りに人が少ない気がする。これがパリ全体のことなのかどうかは分かりません。

2005-11-16

マチュー・カソヴィッツのサルコジ批判

Hainethumb16日付け紙版ル・モンドで見つけました。

映画 La Haine を作った男、Mathieu Kassovitz が自分のサイトのNewsページでかなり過激なサルコジ批判メッセージをアップしている。サルコとブッシュ、これは猫屋もリンクできなかった。mathieukassovits.com 英仏2か国語です。

以下は文章最後部分

Nicolas SARKOZY is an admirer of George Bush’s communication machine. He uses it to glorifies his image and to manipulate the population.

Like BUSH, he does not defend an idea, he responds to the fears that he himself instills in people’s heads. He would have engaged France alongside the Americans in Bush’s “fight against terror”.

I’m convinced of it. Nicolas SARKOZY wants to become the President of our republic and “nobody will get in his way” as he dramaticaly puts it. If this man does not fail at least once in his initiatives to win the presidency of this country, nothing indeed will get in his way, and his desire for absolute power will finally be fulfilled.

Does history repeat itself? Yes. It always has done. A desire for power and the egocentricity of those who think they hold the truth has ALWAYS created dictators.

Nicolas SARKOZY is certainly a little Napoleon, and I do not know if he has the potential of a real one, but it will be impossible to say tomorrow that we didn’t know.

***

私は今、過去ログのTB機能手動停止などというまことに散文的日々の戦いを続けております。なお、今日電話の入った観光業関連友人の伝によりますと、日本からの観光旅行、キャンセル続きだそう。

日本の皆様、パリは燃えていないと周囲の方々にお伝えください、お願いします。このままでは友人の給料が減ってしまいます。一緒に飲みに行けなくなるし、私もさらに貧乏になる可能性大であります。

2005-11-15

フランス共和国大統領演説冒頭映像、エマニュエル・トッド天神訳など

昨日14日夜、シラク大統領の国民に向けられたメッセージの冒頭部分(フラッシュ)です。chirac141105.htmをダウンロード

また、関連するル・モンドエディトリアル《Auto-Réquisitoire》はここ

13日のエントリで言及したエマニュエル・トッドのル・モンド掲載インタヴュー記事
《Rien ne sépare les enfants d'immigrés du reste de la societé》、天神茄子さんが日本語に翻訳してくださいました。
深く感謝(いつかパリのブラッスリーにでもご招待したい)。

また、Shiba さんがサルコジUMPの選挙戦についてアップしています。
fenestraeさんは今回の“暴動”に関する仔細かつ正確なエントリをアップしています。

なおトッドの原文は以下

"Rien ne sépare les enfants d'immigrés du reste de la société"
LE MONDE 12.11.05

En 1995, vous analysiez la "fracture sociale", expression dont le candidat Jacques Chirac s'était alors servi avec succès pour sa campagne présidentielle. Dix ans après, où en est-on ?

L'expression "fracture sociale" n'est pas de moi. Elle est de Marcel Gauchet, mais elle m'est invariablement attribuée. Tant pis, j'ai renoncé à lutter. Dans une note de la Fondation Saint-Simon, à l'époque, j'avais décrit la réapparition des forces populaires après l'effondrement du communisme, en rappelant que les ouvriers et les employés représentaient toujours 50 % de la population. Au simple vu des recensements, l'idée giscardienne des "deux Français sur trois" dans les classes moyennes ne tenait pas.

Entre deux élections, la classe politique se laisse régulièrement aveugler par les sondages d'opinion, qui sont le reflet des couches supérieures de la société. Cela donne ces enquêtes qui montrent que Balladur va être élu, que les référendums vont passer facilement... Ce n'est que pendant les campagnes électorales que les milieux populaires s'activent progressivement. Chacun croit alors assister à un changement d'humeur de l'électorat, quand il s'agit, en fait, de l'émergence de l'opinion populaire : celle des gens qui n'ont pas forcément un avis sur tout à tout moment.

Depuis dix ans, scrutin après scrutin, l'aliénation des milieux ouvriers et populaires à l'égard de la classe dirigeante au sens large n'a fait que croître : les résultats du dernier référendum du 29 mai sur l'Europe l'ont bien montré.

Les violences dans les banlieues françaises sont-elles une conséquence de cette aliénation ? Dans les années récentes, la vie politique française n'a été qu'une suite de catastrophes qui laissent les observateurs étrangers de plus en plus stupéfaits et narquois. La première catastrophe, c'est la présidentielle de 2002, avec un premier tour qui amène l'extrême droite dans le duo de tête et un second tour où Jacques Chirac est élu avec plus de 80 % des voix.

La deuxième catastrophe, si l'on se place du point de vue des classes dirigeantes, c'est le référendum sur l'Europe. Pendant des mois, tous les commentateurs étaient convaincus que le oui allait passer et, à la fin, le non l'a emporté haut la main. Choc, surprise, abattement. Les classes dirigeantes commencent tout juste à se rendormir, en tentant de se persuader que la société est redevenue stable, quand survient la troisième catastrophe : cet embrasement des banlieues dont nul ne sait encore s'il est terminé. Et, chaque fois, la délégitimation des classes dirigeantes devient plus flagrante.

Le scénario des catastrophes dont vous parlez est-il toujours le même ?

Non, elles ne font pas agir les mêmes couches. Le Pen au second tour en 2002, c'est le vieux monde populaire français qui forme le coeur du vote FN. Le non au référendum, c'est l'entrée en scène d'une partie des classes moyennes, liée à la fonction publique, que je qualifierais de petite bourgeoisie d'Etat. La troisième catastrophe, celle des banlieues, met en jeu d'autres acteurs : des jeunes issus de l'immigration. Ceux-ci sont encore séparés des milieux populaires français pour des raisons historiques et culturelles, bien qu'ils appartiennent au même monde en termes sociaux et économiques. Les trois groupes que je viens de décrire ont en commun un antagonisme à l'égard du système et des classes dirigeantes.

En revanche, on ne voit pas apparaître de solidarité entre eux. Par exemple, je reste persuadé que les deux classes qui ont produit le non au référendum ­ les milieux populaires et la petite bourgeoisie d'Etat ­ ont des intérêts profondément divergents. Les premiers sont en rage contre le statu quo, qui signifie, pour eux, chômage et écrasement des salaires dans un monde ouvert à la concurrence ; la seconde désire le maintien du statu quo, qui la laisse à l'abri du libre-échange et lui assure une garantie de l'emploi.

N'y a-t-il pas un antagonisme entre ces deux catégories et la troisième, celle des jeunes issus de l'immigration qui brûlent des voitures ?

C'est très inquiétant de voir brûler des voitures, des autobus et des maternelles. Et les choses peuvent encore dégénérer. Malgré tout, je penche pour une interprétation assez optimiste de ce qui s'est passé. Je ne parle pas de la situation des banlieues, qui est par endroits désastreuse, avec des taux de chômage de 35 % chez les chefs de famille et des discriminations ethniques à l'embauche.

Mais je ne vois rien dans les événements eux-mêmes qui sépare radicalement les enfants d'immigrés du reste de la société française. J'y vois exactement le contraire. J'interprète les événements comme un refus de marginalisation. Tout ça n'aurait pas pu se produire si ces enfants d'immigrés n'avaient pas intériorisé quelques-unes des valeurs fondamentales de la société française, dont, par exemple, le couple liberté-égalité. Du côté des autres acteurs, la police menée par le gouvernement, les autorités locales, la population non immigrée, j'ai vu de l'exaspération peut-être, mais pas de rejet en bloc.

Voulez-vous dire que les jeunes se révoltent parce qu'ils ont intégré le modèle républicain et sentent qu'il ne fonctionne pas ?

Exactement. Je lis leur révolte comme une aspiration à l'égalité. La société française est travaillée par la montée des valeurs inégalitaires, qui touche l'ensemble du monde développé. Assez bien admise aux Etats-Unis, où son seul effet politique est le succès du néoconservatisme, cette poussée inégalitaire planétaire passe mal en France. Elle se heurte à une valeur anthropologique égalitaire qui était au coeur des structures familiales paysannes du Bassin parisien. Ce substrat, qui remonte au XVIIe siècle, ou plus loin encore, ne se retrouve pas du tout dans la paysannerie anglaise, chez qui la transmission des terres était inégalitaire.

Quand on est en haut de la société, on peut se faire à la montée de l'inégalité, même si on est contre sur le plan des principes : ce n'est pas trop inconfortable. En revanche, les milieux populaires ou les classes moyennes la vivent très mal. Cela donne le vote FN, qui a une composante d'égalité, avec cette capacité à dire merde aux élites, et une composante d'inégalité, avec le fait d'aller chercher plus bas que soi l'immigré bouc émissaire.

Pour ce qui est des gosses de banlieue d'origine africaine ou maghrébine, ils ne sont pas du tout dans la même situation que les Pakistanais d'Angleterre ou les Turcs d'Allemagne. Chez nous, les taux de mariages mixtes tournaient au début des années 1990 autour de 25 % pour les filles d'Algériens, alors qu'ils étaient de 1 % pour les filles de Turcs et d'epsilon pour celles de Pakistanais. La simple mixité ethnique des bandes de jeunes en France est impossible à concevoir dans les pays anglo-saxons. Evidemment, je ne suis pas en train de donner une vision idyllique de la France de 1789 qui serait à l'oeuvre, avec le postulat de l'homme universel, ce rêve des nationaux républicains.

Que pensez-vous de la réaction de la République face aux émeutes ?

Je n'étais pas contre la possibilité d'un couvre-feu devant des violences vraiment inquiétantes. Dans l'ensemble, je trouve que la réaction de la police et du gouvernement a été très modérée. En mai 1968, on criait bêtement "CRS : SS", mais, en face, les forces de l'ordre ont fait preuve d'une maîtrise exceptionnelle. A l'époque, les milieux de gauche disaient que la police n'avait pas tiré parce que la bourgeoisie ne voulait pas tuer ses propres enfants.

Là, dans les banlieues, on a vu que la République ne tirait pas non plus sur les enfants d'immigrés. Ceux-ci n'étaient d'ailleurs pas seuls concernés. Il y a eu un effet de capillarité entre toutes les jeunesses, même au fin fond de la province française. Le premier décès, périphérique aux événements, a entraîné une décrue immédiate. La presse étrangère qui ricane de la France devrait méditer cet exemple.

Je trouve d'une insigne stupidité de la part de Nicolas Sarkozy d'insister sur le caractère étranger des jeunes impliqués dans les violences. Je suis convaincu au contraire que le phénomène est typique de la société française. Les jeunes ethniquement mélangés de Seine-Saint-Denis s'inscrivent dans une tradition de soulèvement social qui jalonne l'histoire de France.

Leur violence traduit aussi la désintégration de la famille maghrébine et africaine au contact des valeurs d'égalité françaises. Notamment l'égalité des femmes. Pourtant, malgré les soubresauts inévitables, la deuxième et la troisième génération de fils d'immigrés s'intègrent relativement bien au sein des milieux populaires français, et certains rejoignent les classes moyennes ou supérieures.

Si je ne suis pas optimiste sur le plan économique ­ je pense que la globalisation va peser de plus en plus sur l'emploi et les salaires ­, je suis optimiste sur le plan des valeurs politiques. En termes de résultat, après ces deux semaines d'émeutes, que voit-on ? Ces gens marginalisés, présentés comme extérieurs à la société, ont réussi à travers un mouvement qui a pris une ampleur nationale à intervenir dans le débat politique central, à obtenir des modifications de la politique d'un gouvernement de droite (en l'obligeant à rétablir les subventions aux associations des quartiers). Et tout ça en réaction à une provocation verbale du ministre de l'intérieur dont on va sans doute s'apercevoir qu'ils auront brisé la carrière. On peut être plus marginal !

***
Emmanuel Todd, 54 ans, est historien et démographe. Essayiste original, il a notamment publié, en 1994, Le Destin des immigrés (Seuil).
Propos recueillis par Raphaëlle Bacqué, Jean-Michel Dumay et Sophie Gherardi Article paru dans l'édition du 13.11.05

以上、取り急ぎ。

Super menteur の帰還 - 泥棒は泥棒し、殺人者は殺人する

Chiracシラク大統領がTVで演説。
今回は初めて眼鏡をかけての登場である。演説内容はここでは挙げない。

まだこっちのプレスやラジオの反応は読んでも聞いてもいないけれど、短くコメントだけ。

若年者雇用問題や、関連地区住宅予算の20パーセント増大も、問題地区でのアソシエーションへの援助再開もいい。“アイデンティティの危機”とそれに答える“共和国の子供たち”という言葉にはなにやら心地よい響きがある。シビル・サービスはその効果がおおいに疑問であるが、リップサーヴィスにはなる。

だが、その賢者大老的寛容ディスクールのうらには、バラデュールを蹴落とした男の計算が見て取れる。

この賢者の声と同時に、一時的処置として受け入れられた異常事態宣言の3ヶ月間への延長がアナウンスされた。一週間たった未成年者夜間外出禁止が、これでまったく性格の違うものになる。近隣に“危険地区”を含むパリ郊外の、たとえば21時以降のバス運行を3ヵ月間ストップしたら、それは何を意味するのか。

Superliar_1該当地区に住む人々はクリスマス・新年をまったくの“隔離”状態で過ごす事になるのだろうか、CRSに囲まれて。例年、新年をシャンゼリゼで祝う騒々しくも荒々しい“育ちの悪い”子供たちは、いったいどこへ行くべきなんだ?

ミッテランがロカールを、ベレゴボワを、クレッソンを首相に任命した前後の策略を思い出す。Besogne/いやな仕事はサルコに任せ、長老は自己保存に忙しい。

***
すぐ後記:問題の演説、直には聞いてないです。バレバレですが。

2005-11-14

秋のパリ、駆け足散歩

11日の第一次世界大戦終了日休みからの三連休、天気良くなるというきわめて希望的観測は外れ、雨がしとしと風冷たいの例年どおりの寂しい天気となりました。

昨日土曜は、所用をかねて午後も遅い時刻から外出。

まずレ・アール。土曜の午後に来るのは久しぶりなんで、この人の多さは普通なんだかどうか解りません。郊外からやって来た若い人でいっぱい。周辺は警官がいっぱい。これはいつもどうり。人の多さにフナックに寄るのはあきらめる。

Seineたらたら歩いて、サン・ミッシェルまで。以前何回か行ったことのある古本屋を覗いて見たかったんだけど見つからない。カナダの古本屋はサン・セルヴァンの通りかと思ってたけど、観光客向けレストランしか並んでない。あのカナダの旗が見つからんのです。

Ikebanaしょうがない、ちょっと遠いけどrue des Ecole のとにかく古本が積み重なってる店(名前覚えてない)に行こうと思ったら、これも見つからない。あれ、サンジェルマン通りだったかなあ、などと思ってるうちに早くも日が暮れてしまった。ま、いいか。こないだ読み始めた二冊も途中で放り出したわけだし、読んでる時間ないもんね。

しかし、きょうはここにも警官・CRS/憲兵共和国保安隊の姿がやたら多い。レ・アールではいつものことだが、ラテン区にも普段は見慣れないバンリュウ風のティーン・エイジャーがいっぱい。これって、警戒が厳しい郊外からRER/郊外電車に乗って、パリに出てきたんだろう。でもなんだかリラックスしてるような雰囲気。喧嘩相手を探している風ではない。

一人の男の子が携帯に向かって“お前見たか?サルコの横でさ、あいつが、、”とか大きい声でしゃべっている。これは単に私の推測に過ぎないけれど、彼らの主要情報源であるTVでバンリュウのことが否定的ばかりではない形で語られている。そこの住人達の声を取り上げている。自分達の中の何人かが、サルコジと同じ番組に出た。そのことに彼らはある意味で満足し、パリ人の反応を確かめにここまで来たのかもしれない。

だが、この状態(燃やされる車の数は減っている)も、長期的なものかどうかは分からないだろう。サルコジが再度分別のない発言をすれば、今度は騒動がパリに飛び火する可能性はある。そして、政府がバンリュウのマレーズ/不安に対して長期的かつ具体的策を打ち出さない限り、いたちごっこが続くのだろう。

2人ともとても背が高くて、すんなりした身体にセンスのいい服を着こなしたバンリュウ・ティーン・カップルにすれちがう。女の子はまんがっぽく、髪を頭のてっぺん近くでトゥ・テールにしてる。2人ともニコニコ笑って幸せそうだ。写真を撮りたいけど、ちょっと無理。(撮らせてと頼む根性がないわけ。)

(時々たまたま通るシャンゼリゼ、この通りは今では観光客とバンリュウの子たちばっかりなんだけど、時々上背のある少年グループがいかつい顔で歩道を横並びに歩いてると、思わず横によける。こうやって怖がらせる子達もいるんだ。)

サンミッシェル通りで突然インターナショナルが聞こえてびっくり。この週末、パリでの集会は許可されてないはずだけど、と通りの向こうを見ると、フォンテーヌのまわりに人だかりと各種の旗。まわりには多くのCRS。(後から新聞見たら許可のおりた集会、インターはアナキスト系だったようです。)

Haussmann_1やって来たバスに飛び乗り、オスマン通りまで。

ここも予想外の人手なんでまずびっくり。こちらはショッピングの老若男女。ヴァカンスの欧州観光客も多いし、デパートがクリスマスに向けた30パーセント引きなんてやってる。これ始めてみた。去年の売り上げが悪 かったんで商戦を変えたかな。

ギャラリー・ラファイエットの売り上げの半分は中国観光客、という噂を聞いたことがある。本当かなあ。中国の団体さん、 案外いました。ウインドウ・デコレーションはすでにクリスマスです。実は、あれ案外好きなのよ。店が閉まってる日にでもまた来て写真取ろうと思う。

Vitrineデパート街を通り越して、フナックへ。ディランのDVDは20ユーロ弱。でもアマゾンで値段調べてから買おう。カミーユの Le fil、値段下がってたのでやっと購入。18ユーロ弱。
(でもあとでネットで調べたら、ディランはアマゾンのほうが高くて、カミーユはフナックの方が高い。まあ合計でも3・4ユーロの違いだけどね、でもバーのカウンターでビールが飲める。)

温暖効果で秋は遅くやってきたけど、クリスマス商戦と大統領選挙戦は既に始まっているのだ。

2005-11-13

“フランスの階級”という宿題

Sielしかし、fenestrae 師匠とメディさんはいつになったら長い夏休みから帰って来るのであろうか。スイスはベルンのmari 姫はスロー・ウェブ・ライフを送ってるらしいし、天神茄子氏も内装工事中のようである。

だからというわけでもないが、って言うより実際は対アドミ戦争に専念してるはずの私にブログ書いてる暇はないわけで、でもこの大騒ぎ。黙ってられない気性なわけです。東京は下町生まれよお。おまけに今頃になって気づいたけど読売新聞の書きかたって、なにこれ

というわけで今日はantiECO 氏のブログで書きたい放題させていただいた。しかしなんだ、あの誤字の多さはみっともない。で、antiECOさんって大手の方だったのですね。今頃反省しています。

さて、ECOさん(と書くとウンベルト・エコみたいでかっこいいです、彼は世界のおっさんの鏡です、会った事ある)に“フランスの階級”なるエントリを書きまする、とお約束してしまった。書いてみます。
*
参考文献 1 内田教授の La nuit violent en France
参考文献 2 春 具さんのJMM の昨日届いた文章から、部分コピー

フランスでの今度の事件は、再分配する資源はあるのにその資 源があるグループのひとたちに対してだけ人為的に抑えられてきていた、そのことへ の「憎悪と攻撃」であるようにわたくしには思えます。そのあたりのなにかが変わら なければ、“ブルゴーニュ”で蝸牛を食べ、“サンドレンス”でジビエを食べ、“プ ティ・ジンク”で牡蠣を食べ、“エディター”でコーヒーを飲み、デュラスを読み、 “ボン・マルシェ”で買い物をする、ごくふつうのフランス人が営むごくふつうのフ ランス的な生活を、彼らはおそらく一生経験することがないままだ。  

では、どうしたらいいのか。

内田教授にしても春具氏にしても、私がいつも愛読しているネットでの書き手である。年齢的には60年後半のドタバタの向こうに両氏はおり、私は手前の方に位置します、はい。

antiECO氏のところでのお話と重なるのですが、フランスを良く知る上両氏のディスクールにはどうも現実とぶれる部分があるように思えます。

20年前、こちらに来る前フランス語を習っておった学校の名物教師が、初級語学講座でいつも“フランスは階級社会であるが、日本には階級がない。これはすばらしいことだ。”と言っていた。まだフランスの地を踏んだことのない若い猫屋は“は?”と口あけたまんまでありました。

ようするに両氏のフランス理解はあの頃、つまり20年ぐらい前のまま、フィジェ/固定化しているのではあるまいか。

フランスがなんだかんだ言っても、そしてあれだけ大きな問題を抱えながら、ここまでやってこれたというのはある意味奇跡的な事実であります。そしてそうやって生きながらえてくるために、フランスはそれなりに変わってきたのも事実です。

特に、ヨーロッパの概念が現実になった。同時にユーロができた。それ以前の1989年、ベルリンの壁が消えたことが大きい。なにより、グロバリゼーションの大波でフランスも大きく変わったと思います。

この大きく変わった事項の中に“フランスの階級”が入るでしょう。

確かにUMP/仏保守第一党の幹部はWASP ならぬWASK で固められていますが、私の友人に何人かいるシヨンズ・ポ/国立政治科学院を出た連中はみな、ごく普通の勤め人とか高校教師とかの子息・子女です。ENA出も一人知ってるけど同様。逆に言うと、アッパー・クラスの友人が私にはいないってことかもしれませんが。

20年前、ソルボンヌの先生が“フランスではタクシーの運転手がゴンクール賞を取ることは想像できません”と言っていました。ことしゴンクールを取りそこなった Michel Houellebeck/ミシェル・ウェルベックはしかし、(なんか薄暗いオタクな人物で)ハイ・ソサイティーとは何の関係もない。TGVで見かけたけど、手つくり風ショルダーバッグ抱えた田舎の教師風で、まだ映画《 être et avoir 》の本物の先生の方がかっこよかった。

何が言いたいかというと、フランスの階級は20年前に比べればかなり流動的なものに変化している、と言うことです。

だが、“階級”あるいは、クラス間の明確な差異がなくなって、それでいい社会が出来るのかというとそうともいえない。

後に来るのが、単に階級のない成金社会であれば、これも困るわけです。

“平等”とは、すべての人にチャンスがあることを言う。だが問題は金持ちになるチャンスだけがチャンスではないことに、気がついてない人が多い。金持ちになることを拒むのだってチャンスでありうる。たとえばマイケル・ジャクソンに猫屋はなりたくない。選択の自由の問題です。すべての人間にチョイスするチャンスがあるべきである。そういった意味ではフランスは良い国です。大きな赤字問題があるにせよ、最低賃金も国民健康保険も高等教育を含めた学費の国家負担もある。

だが今問題になっているのはそれではない。ベースにあるのは失業問題だという気がします。そして今回の騒動に関して言えば、シテの若者が労働市場から“忘れられた”と感じていることでもあるだろう。

前のブログで今回のシテの騒動と合衆国のハリケーンの被害者を比べたのもこの点に関してです。生産性の向上と、中国などの低賃金諸国への産業移転から起こる失業問題にもっともさらされているのが、もっとも弱い立場の人々だと言うことです。それではイギリスや日本のように、社会保障の薄いまた長期就業が難しいサービス業をどんどん作り出せばいいのでしょうか。でもメイド・カフェはフランスに似合わない。(コスプレ娘はおととい眼にしましたけど。オスマンのデパート横。)

Clichy_sous_bois_1シテに住む若者の多くにとって《成功》とは、TVやラップで眼にするスパースターであって、そのスターが所有するランボルギーニや純金チェーンやプールつき邸宅を持つことです。これはホリエモンになりたい日本のフリーターにも似通っているといえなくもない。

しかしシテに住む若者の多くは、自分の住むアパートの周辺を仲間とうろつくことぐらいしかしない。学校で苦労はしたくない。パリは自分の場所とは思えないし、大体そこまで行くのに車がないと一時間半かかったりしますね。ここでの問題は、階級でも、貧富の差でもない、それは将来の捕らえ方でしょう。そのまま疲弊した団地の同じ場所で、何もしないで年を取っていくことへの怖れと不安なのだと思えます。そして彼らはゴミ箱に火をつける。

“移民”と言う言葉についてはすでに多くが語られたと思うので、ここでは書きません。一言で言えば今回の騒動を起こしているのは“移民”ではない。今日のル・モンドにエマニュエル・トッドが“移民の子供たちとその他の社会を隔てるものはない”、今回の騒動が示すのは“marginalisation/アウトサイダー化 への拒否だ”と書いています。これには私も同意するしかない。(なおトッドの全文はまだ読んでいないので、読み次第またコメントします。)その記事。←天神様、訳してくださーい、駄目かしら。

結論なしの尻切れトンボですが、この宿題ここらで切り上げ、スイマセン。むちゃくちゃ眠いのです。(こんなこったからネブロは大手になれるわけない。)

なお春さんの堪能したパリの味を味わえるのはごく少数の人々、観光客・ビジネスランチの招待客・とってもお金持ち、のどれかでしょう。ちなみに私がブラッスリーで牡蠣を食したのはたしか2年前、当時市民戦争中だったアフリカ某国に駐在していた仲間が一時帰国した時か、、、ヤツのオゴリだったですよ。

追記:(まだ寝てないよ、やだね。)“はてな”って不思議な世界ですね。なにがなんだかまったくわからん。
追追記:翌日一部書き直しました。

2005-11-10

燃えてないパリからのメモ

32_1今日は一日中外出しっぱなし、買った新聞もまだちゃんと読んではいない状態ですがいくつかメモ。

大きさは同じですが、紙面構成を変えカラー写真を大幅に導入したル・モンド、この新聞はリベラシオンと同様、今回の“騒動”をスキャンダラスに書き立てることはなかったな、というのが私の印象です。各県で焼かれた車の数を地図で示した(らしい)大衆紙パリジャンやTVの報道だけ見ている人々はまた違った印象を持ったと思う。

・ル・モンドの記者が日曜の夜パリ近郊のシテで若い“casseurs/壊し屋”達と何時間かエンベッデッドして書いた記事が、ネット版で読者ランク一位になっています。サルコジの挑発的発言(猫注:シテを水圧掃除器で清掃する、ごろつき、など)が今回の怒りの爆発の原因だったのかといった内容のジャーナリストの質問に彼らは“自分達は溺れかけてるのに、浮き輪を投げる代わりに、逆にこっちの頭を押さえ込んで沈めようとする:助けてくれ”。“座標/目標がない”、“理解されていない”、“人種差別の犠牲になってる”、“汚いシテで生き続けるよう宣告された”、“追放された”と彼らは言う。

・同じくル・モンドから、サッカー選手で同時に国の同化委員会にも属するリリアン・テュラムへ火曜日なされたインタヴュー記事 からかなり意訳
“私の持っているカルチャーはバンリュウ/郊外に近い。そこで育ち、そこで生活した。若者は暴力的になっているが、原因のない暴力はない。一番危険なのは彼らではないだろう。” 保安問題について、“解決策を持ち出すことなしに、バンリュウを常に話題にし、そしてソンパピエ/不法滞在者を国外退去させる、これは私のフランスではない。。。誰かがこう言った:カルシェール/水圧掃除器で洗い流すべきだ、とサルコジが言う時、サルコジは何を言ってるのか自分でも解ってないのだ、わたしは自分に向かって言われてると取る。”

*
今日も、パリ右岸下町の通りもメトロも何も変わったところはありませんでした。ただ、通勤時のメトロの住人達が眼があうと微笑みあう。これはゼネストの時などにもあるな。パリ中心に住む住民も心配している。

パリのペリフェリック/環状線道路が隔てる先のバンリュウはすぐそこです。パリ市長ドラノエの計画する新都市計画には、道路のトンネル化や周辺の緑化、両側から徒歩で簡単に行き来できる公共施設など、このパリと近郊郊外のあいだの“壁”を取り除く方向性があるようです。

Chappatteド・ヴィルパンはバンリュウ緊急対策として、教員補助職員の充てん、教育費増大、各種市民団体への援助金復活などとともに、14歳からの見習い制度というのを挙げています。これは本来16歳から始まる見習い制度にかわり、勉強にどうしてもついていけない子供が学校の“お客さん化”あるいは通学をやめ不良化するぐらいなら14歳からパン屋や配管工などの下働きを始めるべし(ちょっと荒っぽい説明ですいません)ということらしい。これにはかなり反論が出ています。

どうもド・ヴィルパンが今回の騒動では目立ってしまったせいでしょうか、サルコジ内務相は今回で検挙された外国人は滞在許可証があっても即国外退去、と息巻いております。これって議会の承認か裁判所のバックアップないと無理な気もしますし、またそんな、せっかく騒ぎも下火になったのに、、と思うんですけども。記事

たしかにサルコジ支持者のなかには、とにかく“治安問題”を第一に掲げるゴリ保守の人々がいます。保守右よりあるいは極右のド・ヴィリエやマリーン・ル・ペンといった方々は今回の騒動に軍隊を送れと言っていたようですし。

なお、ル・モンドによると10月末から今までの検挙者は273人、うち禁固刑を受けたもの173人。特別処置として検挙後裁判がすぐ行われた結果です。
*
ところで、今日発行ル・モンドの大一面写真は住民投票に負けてしまったシュワルツネガーが奥さんとキスしてるカラー写真でした、ははは。燃えた車じゃないっすよ。

レユニオンで行われたコスタリカ・フランスのサッカー親善試合。家に帰った時は 2-0 でコスタリカが勝ってた訳で、こりゃ駄目だと無視してたらナント逆転 3-2、フランスの勝ち。ゴールはチーム復帰のアネルカのあとシセ 、ティエリ・アンリ。やったぜシセ。どうせおまえは猫屋が見てないときしかゴールを決めないんだよな、しかしよくやった。

*
書き忘れ事項追加
今回の騒動のきっかけとなった10月27日の2人の未成年者(17才と15才)の電圧室内での感電死についてはいまだに真相がわかっていません。警察に追われた結果だったのか、どうかなどはこの後の調査結果発表を待たねばなりません。

またクリシ・スー・ボワで乱打された後死亡した男性(57才)の死亡にいたる情況も今は発表されていません。街路灯関係会社勤務の被害者は、新しく設置した街路灯の写真を取っていた。そこをたまたま通った数人の男に乱打されたわけですが、検挙された犯人達が、暴徒だったのか、カメラ盗難が目的だったのか、あるいは車盗難現場をカメラで取られたと思ったのか、、、これも調査結果待ちだそうです。

なお、社会党関係者は内部分裂のためとにかく目立ったことは言わない方針を取っているように思えます。

追記;今回の騒動で、車焼き等の“扇動”をしたとして数人のブロガーが逮捕されたらしい。これは日本語版ホットワイアドから。たしかにこっちのテレビで、火付け先の時間・場所を指定していたとして、いくつかのブログが閉鎖されたという報道はありました。フラッシュ・ムーヴ、オフですな。

追記の追記:でも上記 HOTO WIRED のソースは米国WIREDで、パリ裁判所匿名関係者から聞いたとあります。こっちの報道ではまだ見てないな、この情報。

また、これはいつものことですが、パリ市内(20区ある)とパリ地方(近郊のブーローニュ、ラ・デフォンス、ヌイイ、ヴァンセンヌを含むな)とパリとその近郊(国立競技場のあるサンドニや問題の多いモント・ラ・ジョリなんかも含めると思う)などといろいろ言い方があるので面倒です。これはいつか別ページで書きたい。急激なパリでの家賃高騰で住居地区がどんどん郊外に広がっているのがこの混乱の原因です。ただ現地民にとっては、パリはあくまで20区からなる地区なわけね。普段は観光客も外国報道陣も足を踏み入れない地区で騒動は起こったわけだから、報道内容に混乱が起こるのも当然かと思えます。

2005-11-09

パリは燃えてはいないのだが。

先ほどはイッキに前エントリを書き込みまして、かなり荒い文章になってしまいました。いくつか追加事項をしたためてみたいと思います。

フランスは移民の国である。私は1980年代にここにやってきた“文化”移民です。日本の生活に息が付けない、こりゃちょいと別の国も見てやろうとやって来て20年が過ぎてしまった。一時は第三国に“出稼ぎ”のようなことをしていた時期もありましたが、どうにかこうにかここまで生活してきた。ただ、このところとんと仕事が減って困っている。

近年の移民組には、ロシア東欧系、トルコ・クルド、イラク・アフガニスタン系もいるようです。彼らが実際に滞在許可証をもった正式移民なのか、許可書なしの無書類移民なのかは私には確かめるすべがない。もちろんアフリカ大陸から欧州を目指してモロッコの砂漠を歩いて渡る移民候補者達の不運は2ヶ月ほど前、こちらでたびたび報道されていましたからご存知のかたも多いと思います。彼らはすべてを捨てて欧州を目指す。そこには“より良い生活”が待っていると信じているからです。たしかに、アフリカ諸国での仕事のなさは欧州とは比べ物にならない。それは事実です。そしてそれはアジアの、たとえばインドネシアやフィリピンでも同様かと思います。

シテ/Cités
これは今回の“暴動”、私としてはできれば“騒動”と呼びたい気がしますが、この動きの起こっている各地の60年代建築の衛星集合住宅街はよくシテと呼ばれます。たとえばパリ市外にある海外および仏大学生用の住宅集合をシテ・ユニヴェルシテールと呼ぶのと同じ用法です。今回問題になっているシテは1960年代の住居不足時に建設された住宅群を指す。当初は、やはり同様な目的で建設された日本の公団住宅に似たようなものではなかったかと思えます。小津安二郎の映画にありましたね。ただ、その当時はピカピカだった住宅も、しだいに疲れてきた。収入が増えてよりよい条件のアパートなり一軒屋に引っ越す住人もいたけれど、そういった上向きの人生を送れない人々もいる。1960年代工業近代化の遅れをアフリカからの低賃金労働者にたよったフランスの過去がシテに凝結している。そして、こちらで生まれた子供達(ジダンの世代)の多くはシテで生まれシテで育つ。

シテの子供達にはシテのフランス語があります。彼らのアクセントやしゃべり方はいつの間にかパリの上流階級地区の一部の子供たちにまで使われています。一種のジャルゴン/職種間の特別語的です。悪ぶる子供はどこにでもいます。シテのファッションもある。アディダス・スポーツウェア系、XXL系。これは日本でも見られますね。テレビの影響でしょう、最近は世界レベルで電波するのが早い。ラップ、ヒップポップの世界です。

同時にフランス全体で階級が崩れ始めているのも事実です。米国などに比べると異エスニック間結婚が多いせいもある。そして経済のグローバリ化はあらゆる分野にコーラテラルダメジを生み出している。今では、失業は単に低学歴層に限られているわけではありません。文科系では修士や学士タイトルをとっても就職できないでドクター過程に進んだり、ファーストフードで金稼いだりというのがよくある。また、順調に仕事していた非移民の子系管理職が会社移転などで突然失業というケースも多いわけです。ヒューレット・パッカードの大型解雇はまだ解決がついていません。

高学歴失業者も清掃やレストランの給仕といった複数の短時間労働をこなさなければ生活していけないという情況が、イギリスのジョブ・センターのもたらした失業率低下政策の結果だとして報道されていましたが、これは明日のフランス情況でもあるでしょう。

そのような社会で、たとえばモハメッドという名を持つシテの移民第三世代の学生が就職活動にあたってCV/履歴書の段階で落とされる。ディスコやバーで門前払いをくらう。メトロやバスや街中での警察のコントロールにひっかかる若い衆にはやはりアフリカ系が多い。邦人も引っかかりますね、時々。なお先日ロンドンでテロリストと間違えられ射殺された不幸なブラジル人は北アフリカ系と間違えられたのだろうと私は思っています。

また先月の不法滞在者たちの住居を求めるデモには中国系と見られる若い家族連れも多かったことも付け加えておきます。元来中国系(ベトナム系も含む、彼らの多くはベトナムでは戦争時裕福だった中国系です)あるいはカンボジア系移民間には同郷や同族間のつながりが強かったのですが、最近の経済移民はその枠を越えている印象があります。

La_haineシテの生活
カレンダーボーイ chorolyn 氏が挙げていました“La Haine”というよく出来た映画があります。作者のマチュー・カソヴィッツはユダヤ系フランス人の映画作家、俳優としてもアメリ・プーランなどに出ていますね。この映画の中には、シテやバンリュー/郊外にすむ若いフランス人達の閉鎖感がどうやって憎悪に変わっていくのか良く描かれています。

狭い住居に大家族で住む彼らには自分の生きる空間がない。仕事がないから未来像も描けない。溜まり場となるキャフェやバーも少ない。そうなると元気のあまった連中は夜の界隈を集団で徘徊する。麻薬の問題もある。グループ間の抗争もある。集団でパリに出て恐喝行為に出ることもある。

今回の騒動で焼かれたのは、車だったり、幼稚園だったり、体育館だったりした。車は彼らにとっては“成功”のシンボルかもしれない。学校や体育館は“国家”のシンボルであるかも知れないですね。

ポリスはシテでは嫌われている。たまたま行ったサンドニで、車に同乗していた小学生達がパトカーが通り過ぎるたびにダーディ・ワードをはやしたてるのにびっくりしたことがあります。警察は権力のシンボルなのでしょう。シテは権力の“犠牲者”という意識があるのかもしれません。確かに、安全問題が放置された高層アパートで、故障したままのエレベーターに乗ろうとした幼い子供がそのまま地下階まで落下、死亡したといった“事件”もありました。

車や公共施設に火をつける行為は、荒廃したそれらのシテの絶望した若者の、それでもここに僕達がいるんだという叫びと思えなくもない。彼らの親達の多くも仕事を失って、あるいは低賃金労働に疲れ、子供に対して影響力を持っていない。

TVを見て育ってきた子供たちが暴力でしか他者とコミニュケートできない。これはなにもシテに限った現象ではないと思います。

参考: couvre feu/外出禁止令にはアルジェリア戦争時の記憶がついて回る。この点は今日のル・モンドのエディトリアルに批判という形で言及されています。なお、外出禁止令は騒動のおきている関連各県知事あるいは市長が発令し、内容も各長が決める。だいたいは16歳あるいは18歳以下の未成年は親の同伴がない10時以降の外出は禁止といったもののようです。参考ル・モンドから。フランス政府のシテに関する緊急処置についての記事

パリは相変わらず平和です。観光客が今一番困っているのはヴェルサイユ宮殿がストのため昨日閉まっていたことのようです。

後記:一部書き足しおよび訂正いたしました。

2005-11-08

パリは燃えているか? 燃えてないよ。

Shriek_princess_sparkle_ponyTVを見て心配したいとこから、おとといメールがありました。私の住んでいる界隈では何も起こっていません。パリは燃えていません。大通りに警官は多いですが、これはいつものことです。みなさん、ご安心ください。こちらの報道では昨夜(いくつかの都市に引かれた外出禁止令以前ですが)放火された車の数は減少したとあります。

基本的にTVのニュースは見ず、紙版新聞とネットのル・モンドとリベに眼を通すのと朝ラジオニュースを聞くぐらいの生活ですから、実際に、たとえば燃やされた車や商店街を目撃はしていません。

今回の“限定的衛星都市に起こっている一部の若者の行動”については、いったん落ち着いたところで、社会的背景や政治経済的背景を含めネブロで扱おうと思っていたのですが、海外での関連報道にかなり混乱が見えるようなので、いくつか気がついたところをメモしたいと思います。

なお、ほぼご近所のShibaさんが関連エントリを書いていて、そちらに猫屋もコメントしましたのでご参照ください。

・アメリカや、ロンドンなどとは違いフランスでは低収入家族はパリなどの大都市中心部ではなく、衛星都市の大型HLM/アシュレム/国家管理の公団住宅に多く住んでいます。そういった地区では、医療設備がない、、社会福祉設備が少ない、商店街がない、近郊に企業がいつかない、といったないないづくしの状態が、それらの建設された1960年代から続いている。今回話題になっているそれらの地区には、、北アフリカ系、ブラック・アフリカ系、ユダヤ系フランス人に中国・べトナム系とネイティブのフランス人たちが住んでいます。彼らは時として二重国籍を有していますが、多くの場合フランス国籍を持っていますから、フランス人です。今回騒動を起こしているのはこれらHLMにすむ孫の世代の若い衆だと思います。

・そういった失業者の多い地区での死傷事件や“祭り”的屋外駐車の車への放火は今までにも定期的に起こっています。例年ストラスブール郊外などでは年末に多くの車の放火があります。今年の夏にもトゥルーズ郊外であったような、警官が未成年者を間違って死傷させる事件も多いのです。けれど、今回のようにTVで大きく報道され、その結果として騒動が全国のHLMや小都市に広がったのは初めてです。またサルコジ内務相はこの“郊外地区対策”の失敗は社会党に責任あるといった旨の記事をル・モンドに書いていますが、サルコジ氏はこの三年間のシラク政権で内務省の長であった期間は長く、またこれらの地区における教育・保安・市民団体援助金を大幅に減少したのも同じシラク政権だったことも忘れてはいけません。

・Shibaさんブログのコメント欄にも書きましたが、内務相サルコジと首相ド・ヴィルパン間の抗争がメディア合戦に移行した経過があると思います。これは今の段階では判断できない。もう少し時間が必要でしょう。

・海外メディアの扱いにはかなり的の外れたものがあるようです。今日はTVニュースを久々に見たのですが、海外メディアの反応としていくつか紹介していました。米国FOXはフランスは燃えているというテロップつきでフランス地図の各所に火事マークを張って見せていました。CNNもフランス地図を示していたようですが、その地図はスペイン近くのトゥルーズがスイスとの国境近くに、イタリアに近いはずのカンヌがスペインよりにあるものでした。たしかにイラク戦争前国連安全保障理事会で米国と対立したフランスの“移民対策”という失敗を大きく報道することに、なんらかの利益があることは想像できます。日本メディアのあつかいを私は知ることが出来ませんが、往々にして日本での報道のリソースが米国メディアである以上、私のいとこの心配にも根拠があるわけです。

今回の出来事の原因は単にフランスの移民政策の失敗とはいえません。ひとつの事象にはひとつの原因がある、というのはあまり“正当な”見方とは思えない。世界中の若年層の示すアグレッシブ/暴力性についてももっと大きな視野での論評があっていいと思います。

こちらでも批判の多い外出禁止令についてなどの考察は時間が出来次第、またフランスでのペーパーメディアを一巡してから書きたいと思います。

なお、この秋にフランス旅行を計画している方々に。
観光客が通常行くところでは一切問題はありません。

2005-10-25

ジオポリメモと、ミーハー的people近況

ネット環境が低速であった間、紙版新聞もほうも買わなくなっていたわけです。

元来TVは時々しか見ないんだが、それでも、パキスタン/カシミアでの地震とその後の経過、モロッコとアルジェリアの間を放浪する不幸な欧州移民候補者達、欧州にやってくるだろう野鳥とバード・フリュの動き、止まらない旧欧州からの産業移転と解決策のない失業問題と、結果としての社会政策問題。あいつぐメキシコ湾でのハリケーン。いや、まだまだあるわけだが、暗いニュースには事欠かないわけである。後記:火曜日にはドイツ東部で複数の野鳥死体が発見されている。

レバノンのハリリ元首相暗殺事件も奇妙な展開に入っている。イラクを巡る石油疑惑に2人の仏元大使が関与していた疑いがかけられている。イラクでの米兵死者が2000人を越えそうである。民兵と外国労働者、イラク兵とイラク市民間の死者数はどうなっているのか。暗澹たる気分に陥るわけだよ。後記;Iraq Body Countによるイラク市民犠牲者数は2万5千から3万人(ソース:ルモンド・エディトリアル

フランス社会党内の分裂は終わる気配がない。というより、社会党が左派であり続けるためのアイデンティティ危機と言えるだろう。国民は社会政策重視の、弱者を拾い上げる大きい政治国家を望んでいる。しかし、グロバリ化した経済体制化では産業空洞化を政府が止めることはできない。ソシアル・デモクラットとして英国労働党のように体質を大幅に変えるのか。だがそれでは社会党本来の支持層を失う可能性がある。おまけにバイルーなどUDFの唱える保守主義と重なってくる。

これまでの欧州の社会保障制度をどう変えていくのか、これはドイツ統一選挙の大きな課題だったわけだが、選挙結果はメルケルが首相、だが外交・経済など主要職にはSPDが就くという結果になり、この共同政権が社会制度・経済政策大幅改革をこなせるのかは疑問。イタリアではベルルスコニーの政治に疲れた国民は欧州議会から帰ってきたロマノ・プロディを先頭に左派のカムバックというシナリオが進んでいる。フランス社会党にはヘッドが、あるいは顔がない。

**
サルコジ先生、最近どうも元気がない。ド・ヴィルパンの支持率が上がってきた。というより、仏国民がサルコジvsド・ヴィルパンメディア合戦に疲れてきたようである。あるいはフランス・テレヴィジョンの新しい社長/PDG、パトリック・ド・カロリス(前Rachines et des Ailesやってた人)がシラクに近いせいもあるのかな。

サルコジ、まだ離婚は成立していないものの、新しい彼女と新生活を始めたようである。マドレーヌにある電気屋に彼女と2人で新居用電気製品を買った。パリのレストランのテラスで食事。友人の俳優達を招いて夕食とか、おおっぴらにやっているのだが、、、マスコミには“戒厳令”を引いたんだそうだ。おかげで、一般市民パパラッチ(多数)が電気屋やレストランで携帯で撮ったサルコ・新カップルの写真をパリマッチに売り込もうとしたけど、雑誌側が自己規制で相手にしなかったとか。

Fuldaそういうわけで新彼女のアイデンティティを知ろうと思ったら、英国かスイス、あるいは米国のメディアまで出向かなあかん。たとえばこちら。で、このAnne Fulda という人はそう、やっぱりジャーナリストです。フィガロの方でエリゼ宮担当記者だったそうで。左はネットで拾ったお写真。

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かの家賃200万円国家払いの元財務相ゲマール氏、アパート改装費も含めた国家払い分を全額国に返済したそうです。これで中央政界に返り咲きする可能性が出てきた。元首相、だがシラクの汚職を引っかぶり有罪判決をうけたアラン・ジュペの返り咲きも噂されているわけだが、こちらはちと無理がありすぎな雰囲気。

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政治からは大きく外れるわけですが、“チュルッチュチュ♪”のラファエル君はこの夏だったかに結婚したようである。新婦はブログにクリップしたクリップで寒い中ミニスカートのあの彼女。キャラバーン、CD売れたからねえ。よかった、よかった。

2005-07-09

2005・2006年秋・冬オート・クチュール --- 写真のみ

gallianogaultier2chanelなお、各デフィレの写真はELLEでごらんください。gaultierlacroix

2005-07-06

変わりゆくフランス --- すでにノスタルジア

これはフランスに限られた事なのだろうか、それとも他の欧州国でもそうなのだろうか。あるいは世界中で、というか少なくとも経済先進国ではどこでも起こっていることなのだろうか。

フランスは明らかに変わりつつある。

グローバリゼーションに関連している。経済的にはそうだ。衣料品や雑貨の価格が目立って下がっている。日本ではもう当たり前だが、そのおなじ消費動向がフランスにもやってきた。

ショッピングがエンタテイメント化した。貧乏人・学生でも買える価格の衣服がTATI(廉価店、いまは一般店舗におされ低迷)じゃなくても、H&M やZARA で見つかる。センスだって悪くない。ギャラリー・ラファイエットやプランタン洋服売り場にはセール時以外は観光客しかいない。このごろはGAPも飽きられてきてるようだ。高いし、遊び心がない。

パリでいちばん古いデパート、サマリテンヌが閉まる。安全規定外で改装を検討、というのがオフィシャルな理由だけど、何年か前ピノ・グループが買収して名物だった地下のブリコラージュ/日曜大工売り場を閉鎖した。大型DIY店の進出で儲からなくなったんだろうが、地下の“キラメク”---本当にステキな売り場だったのだよ、ブリコなしのサマリテンヌはデパ地下なしの日本デパートみたいなもんである。存在理由がない。一階には高級ブティック(イタリア系か)を置くホテルになる、という噂がある。

parisotメデフ/MEDEF(日本での経済連にあたる)の長に初めて女性が任命された。ロランス・パリゾ/Laurence Parisot、アンケート会社IFOPの社長。なお製造業ではなくサービス業経営者がMEDEFのヘッドにつくのも初めてだそうだ。これまでのエルネスト-アントワンヌ・セリエールが極めて古いタイプの仏企業人でアロゴン/高飛車なイメージが強かったし、候補者だったギヨーム・サルコジは大統領有力候補ニコラの兄弟というんで敬遠されたようだ。パリゾはラジオ・インタヴューで『リベラリズムと社会政策を対立概念とする発想は貧しい』と正論を言っていた。法曹界と教育界を除き、いまでも圧倒的男世界である仏経済界の体質をこの人物が変えてくれることを期待したい。単なるメディア受けを狙った人選では困るのだ。関連ル・モンド記事

パリ中のいろいろなところがキレイになった。オスマンからサンラザールに続くあたり、まだ工事は終わっていないが、おばさん娼婦の立ってたあたりもきれいになった。地下鉄14号線(無人線)沿線のビブリオテック・ナショナル/国立図書館付近や、ベルシー・ヴィラージュもどうやらパリに溶け込んできた。

パリ左岸の環状線はトラムウェイ設置工事で渋滞がひどい。でも完成したらポルト・ド・ヴェルサイユやチャイナタウンとか行きやすくなるかな?

下町だったバスティーユ付近は、今ではすっかりブルジョワ化して、夜の遊び場はどんどん北に上がってきている。また、ボボ/bobo=bourgeois bohèmつまりボヘミアン・ブルジョワ、簡単に言うと40歳前後の金持ちの娘・息子たちだがブルジョワ価値を否定でも保守、の連中が家賃の高すぎる6区14区や16区を避け、いままで庶民的と思われてた10区や11区、20区に棲み始めた。本物の庶民はパリに住み切れなくなり、郊外に退去。

10区あたりの元ジュイッシュ地区。住民平均年齢があがり、だんだん新住民に住処を譲り渡している。中国系、トルコとクルド系の街になりつつある。

観光地区とブリコラージュ・園芸、マルシェ/市場以外は日曜は営業してはいけないことになってる。例外はクリスマスとかの前でペナルティを国に払えば開店できた。でもこの例外開店がどんどん増えている。いつか、日曜開店OKになりそうな予感がする。やだな。マルシェが昼で閉まって、あとは静かなパリが私は好きである。夏の夜に、まだ陽が差してるのにブティックが全部閉まっている6区を散歩するのが私は好きである。そのうち歩きながらタバコをすって、吸殻を道端に捨てたら怒られるようになるんだろうか。

パリがパリじゃあなくなるとしても、そのころは猫屋も猫屋じゃあなくなってるかもね。

2005-06-24

正義の味方ニコラ・サルコジ大活躍

EU憲法国民投票ペケ後のフランスおよび欧州動向はあんまりにも暗い。おまけに政治的経済的社会学的おまけにジオポリ地理学的複雑性は、その解説の“か”の字さえ、猫屋には扱いきれませぬ。

分からないことは分からないとちゃんと言いなさいと母はいつも言ってたですし(って私がどんなにほらふきだったかバレル訳ですが)、街中で気がついたことと、仏メディアを活性化させてるサルコジ・ネタについて。
*
バスや列車で切符コントロールがやたら多い。メトロではまだ見てないですが、切符なしで乗ってる若い連中、貧乏人がやたら罰金払わされてます。

先日は私も引っかかりそうになった。いや、ちゃんとカルト・オレンジ(定期)は持ってんですが、たまたま乗った郊外電車すいてたもんで、Ipod でなんか聞いてて何気なしに足を(靴はいたまま、おかーちゃんゴメンナサイ)向かいの座席に載せてたわけ。そしたら肩をたたかれた。切符コントロールです。定期は見せてOKなんですが『座席に足載せると罰金45ユーロ』だそうで、ビックラこいた。郊外ゲットー系の顔はしてないつもりだったが、そうか。ま、そこはそれ貧乏人の知恵で、膝手術したばっかりで痛むのなんのって、とオーヴァーアクションで切り抜けました。45ユーロ=訳6000円ですよ。がんばり我意はある。

シャトレ近くでは、60歳代と見受けられる女性ホームレスを数人のポリスが取り囲んで“撤去”最中なのに出くわした。マットレスとかショッピング・バッグを抱えた婆さん、そこいらに住んでたんだろう。同じ界隈のスクワット、つまり住人のいないアパートに若い連中が住みつくってやつだが、これもそのうち“退去”処置になるのだろうな。
*
日曜日パリ郊外クールヌーヴで11歳の子供が弾丸を受けて死亡。翌日、クールヌーブの家族を見舞ったサルコジがTVカメラを前に言ったのは以下
"Les voyous vont disparaître, je mettrai les effectifs qu'il faut, mais on nettoiera la Cité des 4000." “不良どもは消えてなくなるだろう。私はそれに必要な人員を送る。シテ・デ・4000(該当公営団地の名前)をクリーン・アップして見せる”(以上意訳)と言った。関連ル・モンド記事
これに対して批判の声が上がっている。郊外のゲットー化したHLM/公営団地での問題の根本には、失業率の高さや公共施設の不足が原因で麻薬の売買、売春、そしてグループ間の抗争が起る。単に犯罪者、あるいは予備犯罪者集団を検挙しても、警備を強化しても原因は消えてなくなるわけではない。おまけにこのゲットーでの警察官の数は前回サルコジが内務相だった期間に減員されている。

39歳の女性殺人事件容疑者が釈放された。それを受けて、憲兵士官を前にサルコジ内務相は、(容疑者釈放を決めた法務官は)«payer pour sa faute»、つまり“失敗を高く支払うことになる”(これもかなり意訳)と発言。これは現法務相も“法はすべての人間に対して平等であり、釈放の是非を決めるのは法務官。内務大臣ではない”とけん制。社会党サイドからも、三権分立の原則が危ぶまれている、とクレームがついた。ヌーベロプス関連記事
*
これらのメディアでの扱いを、UMP党内2007年大統領候補のド・ヴィルパンとサルコジの“仁義なき戦い”メディア版一環としてみることも出来るわけだが、同時に、パリ市内でのポリス・憲兵の姿が急に目立つようになったり、上に上げたようなコントロールを眼にする機会が多くなっているのも事実だ。貧乏移民には生きにくい季節が始まったようだ。

2005-06-23

My Own Private 《fête de la musique》

led-zeppelin-photo夏至、6月21日は例年のようにフランス中(と一部外国)Fête de la Musique /音楽祭り、でありました。パリ中、街角・広場、教会、公園、レストラン、パブ等無料コンサートだらけになるわけなんです。

んでも変な時間に変なアポがあって、ごそっと元気が磨り減ってしまい結局自宅でオタクにレッド・ツェップのDVDで盛り上がっておりました。だいぶ前に買ったけど、どうも昼間用じゃないし、夜は音響が上げられないので見る機会がなかった。21日の夜はどこもかしこも音楽だらけなわけで、アパート住人年寄り連中も文句付けようがないわけね。led

Communication Breakdown ヴィデオをちょっとだけledzep_combreak_320x240.rmをダウンロード

しかし、ロバート・プラントはエロイ。子供だった私はちゃんと意味が分かってて狂ってたんだろうか、思いだせない。

2005-06-18

SNCF/フランス国鉄のポスターとプランB

requing_sncfプラン B だよ、君。
プラン・ブレアね、ガッハッハ。

2005-06-15

フロランス・オーブナ、インタヴュー映像

flo_on_wall20050614-video.php.htmをダウンロードcave2

1時間38分44秒、6月14日午後4時に行われたインタヴュー全部です。ソースはリベラシオン紙。

2005-06-11

大いなる睡魔、フランス内政についてのメモ

dsk気温がどうも安定しません。本当に夏になるんでしょうか。反対に、今年の夏もおととし並みの超異常烈夏になりそうだなんて予想も聞く。これはなかなか怖いです。

今日はアフリカ大陸での長期出張を終えて帰ってきた友人と電話で長話をした。話題はあいも変わらずEU憲法関係。彼は今回の選挙時はジブチのあたりにいた。不在投票(ここでは委任投票)は出発前にすませたOUI組です。世界中を回る仕事とは言っても、派手なワールド・カンパニー系ではなくこいつのやってるのは、政府がらみの文化関係。世代的に言うとロカール系になるのかな。批判的社会党支持、ってとこか。彼が言ってたことをいくつか書いてみます。

- ファビウスは結局社会党主流には返り咲き不可能だろう。党内投票で決まった(58%だったと思うが)憲法批准党方針に反してのNON表明は一生ついて回る。結局、以前社会党を去ったシュベンヌモンと同じ道をたどるのではないか。

- パリ在住イギリス人友人(注、彼は4年ロンドン勤務の後去年パリに帰ってきた)たちは、今回の投票に参加できないと憤慨している。どうせなら欧州内の(少なくとも欧州)移民にも投票権を与え、欧州全体で同時投票にするべきだったんじゃないか。そうすれば一国主義を超えるディベイトが期待できたかもしれない。(ちなみに彼によれば在仏非仏外国人のほとんどはOUI派だろう、と言う。私も周りの友人を見回すと同様な印象を受けた。)なお、1995年当時、滞在してたカナダでのケベック州独立をかけた国民投票(1995年 小差で否認)が移民も投票可ケースだったそうです。

- DSK/ドミニック・ストロス・カンは悪くない。数年前は彼の経済的切込みとリアリズムが嫌われたけれど、現在の状況ではこの元経済学教授(したがってサルコジと同様、ENA/国立行政院出純粋培養にあらず)の出番かもしれない。

- (つまんないところにこだわるわけだが)この彼はポルト・アレーグルから帰仏するブザンスノ君と同飛行機に乗りあわせたそう。公務員ではないが公費で移動するわが友人はエコノミークラス。ブザンスノ君はビジネスだったそうで、友人も“ちょっとなー”と言ってた。ちなみに外務省でもビジネスに乗れるのは大使以上のランクだったはずだ。

などなど。逆に彼から何故猫屋はフランス国籍を取らないのか、と聞かれた。日本政府が二重国籍認めてないんですよ、残念ながら。ま、フランス人には逆立ちしたってならない、あるいはなれない猫屋ですが、二重国籍が可能なら、私は欧州市民権が欲しい。たとえば、ブザンスノ君sarkozy_dans__metroのような郵便配達とかたとえば老人介護職も公務員なんで、国籍がないとなれないんですね。

*
今夜は身近なナショナル・ネタでお茶濁し。ひたすらに眠いんです。御容赦。

今日の拾い物はDSKの個人ブログ。あたしゃまだ読んでないけども。
対抗する(かも知れない)サルコジのブログはここ。ブログ名サルコジ・ブログ。でもって、ここは奥様のコーナー。

2005-06-09

《サルコジ内相、夫婦不仲説に反撃?パリ警察幹部を解職》 アサヒ.com より

sarkozyフランスのニコラ・サルコジ 内相(50)と夫人の「不仲説」を流布したとして、パリ警察の幹部が解職されたことがわかった。パリジャン紙などが7日報じた。次期大統領への野心を隠さないサルコジ氏を嫌うシラク大統領が仕掛けた情報戦に、警察を管轄する内相に就任したサルコジ氏が素早く報復に出たとの見方が専らだ。。。記事全文はここ

パリジャン紙とか読んでないんで私もこの件は知りませんでした。知ってたのは夫を残して、セシリアはシャール・アティアス/Richard Attiasなる広告代理店CEOをヨルダンでのペトラ経済会議先に追っかけてたこと。ここらの事情はmedia@francophonie ブログに翻訳された記事あり。

Cecilia, y're breaking my heart, you're shaking my confidential daily ! ♪♪♪ (後記:これでサルコのテーマ・ミュージックは決まりだな。S&G for Sarcozy's win 2007 !)

そのあと、このセシリアのヨルダン行きは仏内務省(新首相ド・ヴィルパンが責任者だった)がメディアに情報提供したという話があった。しかし、サルコジ取り巻きは《夫婦不仲論》をかなり積極的に広めていた。などなど、赤組白組泥仕合の様相を深め、結局EU憲法騒動でいったん収まったか(夫婦仲ではなくマスコミ巻き込み戦のほう)と思ったけども、、続いてるんだ、ワッハッハ。 いや、まじ、カッコ悪いよね。ド・ヴィルパンvsサルコジ戦は始まったばかりです。いやはや。

Guignols-Sarkozyさて、サルコジの過激ぶりについてひとつ。記憶で書いてますから裏出せないのが残念です。 何年か前、サルコが内務大臣に就任して間もない頃、郊外ゲットー系若い衆の集まるles Halles 界隈に警官たちを伴って視察に出たんですね。あそこは、麻薬取引などもあっていつもCRS/憲兵隊の車が止まってる特別警備エリア。だけど、サルコが現れると同時に界隈にいた若い衆に囲まれる。若い衆たちの『サルコ!帰れ!』 合唱となった。その群集の中から、独りのお兄ちゃんが『(e)spèce d'hongrois. Retourne en Chine !』 とやった。意味は『ハンガリー野郎、中国に帰りな!』とでも訳しましょうか。サルコジ氏はハンガリー移民系仏人です。ちなみに兄だったか弟だったかは、MEDEF/仏経団連の№2かなんかの根性の家系。それはさておき、なかなかエスプリの効いた良いオブジェクションでしたが、発言主は直、3週間だったか3ヶ月だったかの禁固、執行猶予なしをくらった。いや、これは風に聞いた話なんで嘘か本当か、分かりません。都市伝説、と言うべきか。

フランス国外での氏への評価はかなり高いようですが、地元良心的左派(とゆーのがあるとすればですが)の評価はかなり批判的であります。

サルコはトム・クルーズより背が低い。これは事実。映画のプロモーションでパリにやってきたクルーズと自分のオフィスで会見(なんのためやねん)。他人のふんどしで一銭もかけずに自己PRがうまい。これも事実。アサヒ新聞のネタになったのも事実ですね。困ったもんだ。
*
今日の拾い物:米国政府による偽情報は偽である証明サイト Identifying Misinformation
拾い物 2:以下はS&G Cecilia/セシリアの歌詞です。音はここ

Cecilia, you're breaking my heart
You're shaking my confidence daily
Oh, Cecilia, I'm down on my knees
I'm begging you please to come home

Making love in the afternoon with Cecilia
Up in my bedroom (making love)
I got up to wash my face
When I come back to bed
Someone's taken my place

Cecilia, you're breaking my heart
You're shaking my confidence daily
Oh, Cecilia, I'm down on my knees
I'm begging you please to come home
Come on home

Jubilation, she loves me again,
I fall on the floor and I'm laughing,
Jubilation, she loves me again,
I fall on the floor and I'm laughing

2005-05-09

2005年5月8日のパリ

080505晴天後曇り、風強し。最高気温摂氏13度。本文はたぶん明日。

2005-04-26

1988年6月27日 パリ・リヨン駅列車事故 死者56名

尼崎でのJR宝塚線電車事故はフランス・メディアでも大きくとりあげられている。マンションにへばり付くようにひしゃげた車体は冷凍食品のアルミホイル容器を潰した格好か。でも中の人が。。。21日にはインドはボンベイ近くの駅でも列車衝突事故があって少なくとも24人の死者が出ている。列車利用がごくごく一般的なインドでは年間300の列車事故が発生しているのだそうだ。--- スマトラ沖津波時、乗客ごと流された列車の映像もありました。

尼崎の事故が外国でも大きく報道されているのは、神業にちかい日本の列車運行状況が国外でも良く知られるようになっているからでしょう。そんなタイム・テーブル完璧主義・ノー欠陥システム神話の日本でも列車事故が、おまけに住宅密集地で起きてしまったことに誰もが驚いている。

パリでも、大きな近郊通勤列車事故が16年前にあった。もちろん郊外通勤列車の本数や乗客数など、特に16年前のパリと今の日本都市交通のそれとは比較はできないのだが、どういった人為ミスの重なりが大きな悲劇を生んでしまうのか、その時の様子をネット資料を見ながら書いてみます。

夕方のリヨン駅に停車中の列車に、ブレーキが効かなくなったもう一本の通勤列車が突っ込んだのです。死者数は56名、負傷者57名。尼崎での車両よりは剛健だったと思えますが、TVで見た映像は今でも良く覚えている。ジュラルモン製の(と思う)車体のなかにもうひとつの車体が完璧な入れ込み状態になってしまっていた。

夏休みも直前の6月27日(月)の午後7時10分。パリ・リヨン駅地下ホームから出発しようとしていた列車に、パリ近郊ムーランからの列車が時速60キロ(70キロ説もあり)の速度で追突。突っ込んだ列車の運転手は乗客に車内後方に移るよう指示していた。けれど死傷者の大部分は押しつぶされた列車内の乗客だった。この事故は、少なくとも20の人為的な間違いが重なって起こっている。いくつか箇条書きしてみる。

-ムーランからの上り列車、153944の乗客の一人(女性)は6時30分の時点で列車の緊急停車レバーを引き、線路上に降りる。該当列車は各駅停車ではなく快速で自分の利用駅には停車しない。学校に子供を向かえに行かねばならないのに、彼女はすでに約束の時間に遅れていた。

-列車内の運転手と助手は作動された緊急停止レバーを元の位置に戻すが、緊急アラームが鳴り止まないため、運転手はいったんすべての機能をシャットダウン。改めてシステムの再起動を試みるがブレーキはロックされたままで列車は動かない。ブレーキ作動レバーを再度引いた運転手は列車からおりて第一車両のブレーキが作動状態にあることを緑のランプで確認するが、実際にブレーキが機能する状態だったのは第一車両のみで、残りの車両のブレーキ装置は切れた状態のままだった。この緊急停車時間26分間。

-列車が再び走り始めた時、運転手は低速での“テスト”なしで時速100キロまで加速している。ブレーキが効かない事に気づくのはその後パリ住宅街に入ってから。

-のちに追突される駅地下ホームに停車する列車は本来夕方6時4分出発のはずが、コントローラー(助手)が遅れ、6分後の発車直後に目前から時速60キロで別の電車が突っ込んだ。該当コントローラーはホームで乗客から質問を受けたのが遅れの原因だと主張したが、証拠は提出されていない。この遅れの間に乗り込んだ乗客で、この郊外列車はいつもより乗車率が高かった。(ちなみにこの線は30分に一本の発車)

-列車153944の運転手はリヨン駅に緊急地上電話連絡。これは追突の1分30秒前。パニックした運転手は“ブレーキが効かない、駅地下構内のすべての列車を止めろ”と叫ぶが、列車番号や自分の名などの伝達を忘れる。この緊急連絡を何回か繰り返した後、運転手は運転室を離れて車両に移り、乗客達に床に伏せるよう指令。

-管制室は騒然となり、各列車からの連絡音声がノイズ化。また路線管理者は適切な処置、たとえば地下ホーム停車中のすべての車両の駅退去にかかる代わりに、緊急連絡を発する車両の割り出しに時間をかけた。(この事故以降、フランス国鉄は列車連絡電話の個別入力ができるように改良している)

-ダイヤ表示板で該当列車が近づくランプ点滅を見ながら、路線管制官は該当列車を空の路線に引き入れるかわりに、地下駅周辺の信号を赤にするボタンを押す。これによって路線入れ替えシステムは固定されてしまった。

-該当地下駅は突端にショック防止装置がある行き止まり型。これが地上で線路が続いていれば停車中の車両退去も可能だった。

-列車153944には効かなくなったブレーキのほかにも、速度を下げることができる電気ブレーキが装備されていたが、運転手はそのブレーキについての知識がなかった。

参考:いくつか写真が載っているサイト

***
フランスでもパリ周辺での人口集中と不動産ブームによる住居費高騰で郊外に家を構える低・中所得者層がどんどん増えています。日本ほどではないものの、パリ近郊線やTGVを使う遠距離通勤客は増えても、フランス国鉄/SNCFは人員削減を進めており、これが相次ぐ国鉄ストの理由のひとつ。

尼崎列車事故では置石の可能性も言われていました。TGV沿線の歩道橋の上から走る列車めがけて石を投げる子供の話は聞いたことがある。

あと帰国時、特に成田から東京に入る路線など列車と家屋の間の距離が近くて恐いなあと思った記憶があります。

***
昨日はパリ北部でモン・サン・ミッシェルに向かう観光バスが高速から転落、関西からの邦人観光客3名の方が亡くなっています。日本旅行がチャーターしたバスだった。死傷した方々の御家族は事故地が遠いことも重なり、大変だと思います。

西ヨーロッパでの観光バス事故全体が多くなったように感じる。長距離観光バスは鉄道に比べると安いし、大体風光明媚な土地は鉄道路線から遠い。もちろんバスツアー価格競争もあって、大陸横断に近い距離を交通量の多い休暇中にこなすバス運転手の労働条件はますます厳しくなってきている。大型トレーラーの行き来も激しい。安全規制はあっても、失業を恐れてノルマをこなそうとタイムレコーダーをごまかすドライバーも出てくる。

機械の精密度は高くなっても、人間は機械にはなれない。そして人間が作った、そして人間が操作する機械もシステムも完璧ではありえないでしょう。もっと早く、もっと安く、もっと大量にという一種の食欲過多症、あるいは強迫観念は人間本来の特性なのでしょうか。

2005-04-23

ゴールデンウィークをゴールデンウィークのフランスで過ごす低額プラン

icon今から10日ほど前、以前パリで偶然お会いした某氏が5月始め再度パリ入りするという情報を知人からもらった。今年の夏の帰国時お願いしようと思っていた懸案があり、ちょうどよいわいと日本の某氏自宅までに電話を入れてみました。

すると“5月2日にパリに着くのだが、たっては2日のホテル予約をお願いしたい”と言うリクエストを受けました。予算を聞くと100ユーロ/1万五千円弱、ぐらい。お安い御用。で、そのあとは何なさるおつもりですか?と聞くと、ちょうど日本のゴールデンウィークが重なって帰国便が満杯。それで帰るのは9日まで延ばすのだと言う。 ふーん。

どうしてもアルプスの山が見たいし、南仏のゴッホが歩いた地にも行って見たい。自分は野宿をしてもいいんで、まずはリヨンまで出ようと思っている。あとは絶対どうにかなります。

うーん、ちょっつとお!とついつい話はフランス鉄道事情とヴァカンス事情、保安事情とアルプス一万弱で野宿する際のイポテルミー/寒冷負荷が及ぼす人体に対する影響を御説明。また現金を持って旅行する邦人がいかに現地専門職にとってはいいカモ葱であるかも御解説。あくまで“ニューヨークの地下鉄でも大丈夫だった”某氏に対しては現在のNY地下鉄の安全性を解説し(関係ないって)結局 “お任せください、一日でフランス・ゴールデンウィーク・貧乏旅行プランをお立てします” と請合ってしまいました。

で、半日丸々かけてネットと電話と、JR、じゃないSNCF/フランス国鉄窓口に出向いて作ったプランは以下。疲れたけどなかなか楽しかったな。ド貧乏のnekoyanagi 、旅行はこの夏の帰郷までムリなんですが、5月のアヴィニョンは良いだろうなー。

ちなみに5月第一週はパリ地区の学校休暇とメーデーに5日の昇天祭、今年は日曜だが8日の第一次世界大戦終了記念日の重なった仏版ゴールデンウィークなんです。

avignon月曜 パリ6区セーヌ河からも遠くないホテル。シャワー付き朝食つきシングル 65ユーロ
火曜 TGV/仏版新幹線は満杯のため、夜行利用。朝方登山電車に乗り換えシャモニ到着は水曜朝 切符代91ユーロ
水曜 モンブラン一日観光 駅近くの三ツ星ホテル朝食つき 55ユーロ 
木曜 TGV満杯・フランスには自由席無しで飛び乗り乗車できず。したがって一部ローカル線使用でほぼ一日移動日となる。出発10時半、途中乗り換え2回でリヨンからTGV。アヴィニョン着は夕方5時。切符代145ユーロ
木・金・土の3日はアヴィニョン市内ひとつ星(と思われる)ホテル。シャワー付きシングル41ユーロ+朝食6ユーロ
日曜 朝一TGVでパリへ。連休最後の日曜なので見つかったのは7時発のこの一本のみ。73ユーロ 最初のホテルに逆戻り。65ユーロ朝食つき
月曜 帰国

以上、交通費とホテル代合計635ユーロ/約9万円ちょっと。美術館入館料、ワイン付き食事代、バス代とかも入れたらこの倍はかかるかな。

アヴィニョンから近辺のニーム・オレンジ・アルルやカマルグまではすぐなので周りがいあります。もちろんもう少し前に予約してれば、交通費はもっと安く抑えられるし、いっさい予約なしではホテル代がドーンと高くつく。おまけにホテルや列車探しで無駄な時間がかかりますね。時間と体力があまってる場合はバックパッカーも楽しいですが。なおホテル探しは Guide de Routard 本版を参考。ひとつ星ホテルもSNCFも今はネットで予約できますから、日本からでもプランは立てられるわけです。

2005-03-27

シラクと日本

今日はひとりだったので、キッチンで夕食の支度をしてたらラジオ(フランス・アンフォ)から急に『シラク・シラク』熱烈コールが聞こえた。なんじゃ、UMP党大会の時期でもあるまいし。外語理解能力システムを聞き流しモードからハイレベルにアップしてみると、、なんと、大阪大相撲春場所だった。TVは今日もつけなかったから残念ながら映像確認はできませんでしたが、日本シラクフィーバーはフィードバックしてフランスで燃えているような。関連報道があっちにもこっちにも。

media@francophonie のメディさんが リベラシオンの記事3本、日本語訳してくれています。昨日からシラク系、なんか書きたいなと思ってたんですが、私事雑用がドカーンと入り、手が出ない状態だった。こういうときは『他人のふんどしで相撲』、(一応シラクに引っ掛けたのだが)というきわめてヘタレなnekoyanagi の今日この頃。

シラクがらみではあっても日本の古典文化が紹介されるのはいいことです。リベの記事内に見え隠れする批判、特にシラクの得意技:税金使い、をチクチクと使うとこなんざ、あくまで反権力オピニオン紙/リベラシオンなんですが、こちらの日本ブームは相変わらず続いてますし、リベの記者も(たぶん訳者のメディさんも)リラックスして楽しんで書いてますね。

書き加えれば、シラクの“ジャポン・モナムール(日本・わが愛)”道楽に国費を使っちゃいけないよ、は当然の批判です。あと、大統領 monarchie /君主説という見方もあって、ド・ゴールが確立した第5共和制では大統領の権限が強まり、同時に内政は首相が責任とることになっている。結果、シラクはエリゼ宮内の大改装してみたり、“国際社会”で大見得切ったり、リベの記事にもあるポルトドベルサイユで開催される農業展で“恒例シラク牛尻叩き”してみたりのパフォーマンスに励む。EU憲法国民投票・低下しない失業率・教育危機・人質問題・社会保障問題、、と積み重なる国内問題をある意味スケープゴート的に任命された“首なし男”ラファラン首相に押し付け、シラクには日本学お勉強の時間はあるよな、とイヤミも言いたくなる。

ただ、政治はコストパフォーマンスだけでは測れないものである。大統領というのは、隣国ベルギーを見るとよく分かるんだが、君主政における国王と同じように国民国家統一性保障機能といった一面を持っている。なかなか微妙です。

あと1点、これはアンドレ・マルロー批判にも通じるんですが、“東洋通”が愛する“東洋”なり“日本”は過去形、つまり古典に限られるんですね。ある意味すでに固まってしまった“文化”を対象としている。これはサイードが問題にする“オリエンタリズム”とも繋がってくる。たとえば、現在形の日本を追うル・モンドの東京駐在フィリップ・ポンス氏の視点には、(NYタイムスのノリミツ・オオニシ氏ともまた違った)知識・理解と批判力がバックにある。そういった生きた対象を全体で捉える態度と、“通”が自分が愛する“愛すべきフラグメント群”のみを対象にする態度には明らかに差がある。 こう考えると“日本通”のシラクが原爆記念50周年に無神経に核実験を行ったのも理解できます。

あ、長くなってしまった。やな性格だ。今回のシラク日本滞在でフランスでも相撲がかなり一般化したですね。ヌーベル・オプスはシラク写真入、相撲解説してます。
追加・参照ただし期限付き:ル・モンドに《シラク、日本とフランス両国企業に大規模なパートナーシップを呼びかける》といった記事があります。このページの右サイドの《Voir》をクリックすると写真ポートフォリオ《シラクの日本への情熱》が見られる仕組み。

なお、当初このブログエントリに入れたル・モンド読みは別エントリであつかいます。ゴメンナサイ。

2005-03-13

ジョルジュ・スタイナー、レイモン・アロン

raimondaronski01元気がでない。一週間しかたっていないのに、あの山でのきわめて単純な、身体を動かし、空気を吸い、飯を食い酒を飲み、テレビは天気予報とニュースを見るだけ、あとは本だの新聞だを読もうとするのだが疲れきっていてそのまま寝てしまう毎日に戻りたい。翌日朝起きて天気がよければ、これは天のお恵みと喜び、また一日が始まるわけです。これを8日間やった。なんたる幸せ、であったことか。なんたる贅沢、であることか。

もちろん、単なるスキー滞在者や夏山滞在者にしても、山の生活のいちばんおいしいところだけを、いくばくかの金を出して、お借りしているにすぎない。今でも昔からのパターンで一年を通して暮らしている人々にとっては、観光化で現金収入も増え、外部とのかかわりも増えたとはいえ、雨の続く長い秋、雪の季節の木造の家の管理、収入源の牛の、採乳作業を始めとした管理は大変だろう。山の人の頑固さには都会育ちの私はイライラされることもある。しかし、一週間やそこらいるだけのあくまで“よそもの”の私が腹を立ててみたところで、これは自分をもっとミジメにするばかりだ。そもそも山には休暇に来たのである。3分間待ことができなければ、あるいは3分間待てずに怒り出したいのなら、街に残ってケンカしてりゃあいいわけだ。

スタイナーについて覚えていること(以前のTV討論を思い出しながら)

ジョルジュ・スタイナー/George Steiner という、英仏伊独ヘブライ・古典ギリシャ語をあやつる、おまけに最初はシカゴ大学で数学と物理学からスタートしたと言う現在76歳の博学の王は自らを《読みのマスター》と定義している。もちろん彼のいう《読む》行為は、本を読むアクトに限られるわけではないだろう(たとえば彼の音楽に関する知識は膨大である)。

独特のアイロニーとユーモアをまぜた口調で彼は語る。大学で理工系の素晴らしい才能を持つ人々に出会い、自己能力の限界を知り科学を断念した。今現在、世界の最も優れた頭脳はすべてテクノロジーや経済に係わっている。他の分野にはそういった素晴らしい頭脳を持った人間は興味を持たない。これは人間の未来にとっては、まったく絶望的な情況だ。

『モーツァルトの一節の音楽』と彼は言う。その音符にすればたった3音ぐらいの持っている力。それを作り出す想像力は、“神”を失ったわれわれの時代においてはもう枯渇してしまったのだ、とも言う。

『我々の(時代の)歴史とは、すでに進歩ではない。』と書く、ユダヤ人の彼が本当に言いたいことは何なのだろう。
彼が、このペシミスティクな世界観のまま人生をリタイアするのだとしたら、これはまたさびしいことだが。

賢者レイモン・アロン/ Raymond Aron生誕百年

今年はサルトル生誕100年の年であり、エコル・ノルマル/高等師範学院 で同年だったレイモン・アロンの生誕100年ともなる。たしか同クラスのポール・ニザンは早熟で、生まれ年はあとだったと記憶する。

13日付けル・モンドがR・アロンの特集をしている。、ちゃんと本は読んでいないものの、彼についての思いは多い。750ページを越すメモワール/回想記は積読読書コーナーに収まっているのだが、重さも一キロは越えるだろうこの本を読み出す気力がわいてこない。

社会学者R・アロンはフランスに同化した豊かなユダヤ家庭に生まれ、エコル・ノルマルを卒業後、ドイツ哲学を学ぶためにドイツに渡る。しかし1930年に彼が目撃したのはナチスの前身ドイツ国民社会党の台頭だった。帰国した彼はサルトルとともに雑誌『ル・トン・モデルヌ/現代』を発行するが、のち植民地政策に反対するサルトルが共産党に近づくと、それを批判、サルトルとの友情関係もここで途絶える。

ナチスを逃れ、ロンドンでド・ゴールの『自由フランス』に参加するが、ド・ゴール派としての立場は一生取らなかった。また、後に保守新聞ル・フィガロで政治系コラムを担当はするけれど、アルジェリア独立戦争時独立支持を言明して当時の保守から批判を受ける。

クラウセヴィッツ、トックヴィル、なによりもマックス・ウェバーの影響を強く受けたR・アロンだが、同世代の左翼思想家(つまり思想人の9割がた)から批判され、また保守サイドからも理解されずに孤立の立場を取りながら、リアルタイムに起こる出来事を冷静にかつ正確に判断していた事実には驚かされる。

イスラエルの建国時に、モノテイスム/一神教の聖地をみっつもかねるここが平和な国には決してならないだろう、と彼は予言している。ソ連の壁の向こうで圧制が行われている、と警告したのも彼だ。大戦後政権をとったフロン・ポピュレール/人民戦線政府の失敗を経済政策の不在が原因だとひとことで分析するやりかたは、同時代人には理解しかねたようだが、現在読むとその明晰さに驚かされる。

このR・アロンのリアリスム後継者のひとりが、かのキッシンジャーだ。だがR・アロンはキッシンジャーを、プリンス/君子についてその能力を弱者圧制のために使ったと非難する。これはベトナムに関するキッシンジャー外交批判だ。あくまでも政治の外から批判を続ける、というのが彼一流の矜持だったわけだ。

ル・モンドに、彼の孤立を運命付けたと思われるアネクドット/小事件についての記述がある。30年のドイツでの動きを目撃した若い哲学者アランは、友人を通して当時のある仏外交官に会う。現状の緊急性を仏政府に伝えるためだ。だが外交官はアロンに『あなたが話されたドイツの状況とこれから始まるだろう脅威についてはよく分かりました。けれどあなたが私の立場にあったら、いったい何をなさるつもりですか?』と冷淡に返答しただけだった。

この時のショックが以降のR・アロンの、一種のメランコリーを漂わせる、あの冷静さと明晰を過度なでに保つ姿勢を生み出したと記事は分析する。哲学は世界を動かしえないのだ。内的情熱をぎりぎりまで押さえ、明晰な批判者の態度を一度でさえ崩そうとしなかった、それは彼の持って生まれた資質からくるのではなく、彼自身が自分に強いていたものだというのがこの記事の筆者:Marion Van Renterghem の観点である。

『サルトルは天才だ、だが私はそうではない。』と言ったのもレイモン・アロンだ。たしかにサルトルとアロンを分けるのは創造力だろう。サルトルは創造した。しかし、現在読み返すアロンのことばは重い。

*
レイモン・アロンの回想記を翻訳してみたいなどど、思うわけだが、10年たってもおワランだろうな。 あー、それにしてもまたしても、重いエントリーになってしまいました。(本来はあくまで軽い人間なんですが) あしたはマンガ系にしよう、そうしよう。
上の写真はこないだ使い捨てカメラで撮ったもの。真ん中あたりにゴマのごとくに見えるのは友人です。

翌日記:Rアロンの回想記、三保元翻訳でみすず書房から日本版出てますね。フランスの戦中戦後のようすを知るためにもお勧めの本です(高いけど)。

2005-02-25

nekoyanagi 休暇のお知らせ、と仏財務相家賃200万円

st__lasardゲマール財務相、44才、8児の父、ENA国立行政院卒、奥さん外交官、月給190万円、アルプスのちいさな靴修理もする靴屋の息子、シラクの御曹司的存在、なのにサンミッシェルの持ちアパートは2400ユーロで賃貸し、アルプスに山小屋とアパートとおまけにブルターニュに別荘を持ち、しかし私はブルジョワじゃないから家なんて買ってないと主張し、600メートル平米の8区のアパートは省の担当者が見つけたモンで自分は引越しの前に下見にも行かなかった、なぜなら私は週120時間働いてるからねと言ったが、実は下見もちゃんとしていた人、のスキャンダルはますます雪だるまのごとく大事になってまいりました。

ル・モンドはエディトリアルに取り上げ、おまけに欧州諸外国官僚住居リストも出して、仏政府は税金使いすぎ、クリーンな政治が売り物のはずの若手政治家が嘘つくのは許されない、時代が違う、と逃げ腰のシラク大統領の責任を問う。

リベラシオンはゲマールの言い訳をリストアップ。その上でひとつずつ嘘であると、裏を取って解説。
確かに今回の件は違法行為があったわけではないから汚職とは見なされないが、こういったお手盛りが政権内部で普通になってしまうってのが問題なわけです。内緒のはずの実情が表に出たのはやはり省内の担当者のタレコミであるようだ。

問題の豪華アパート実際の家賃は14400ユーロだそうで、これって200万円超える。うっつ。
もとは誠実な人だったかもしれないが、権力構造のはしごを登ってくうちにだんだん現実との接点を失っちゃうんだろう。しかし、政治家になる人間は始めから権力っつーものに魅了された人間。経営者が政治やったら、これはイタリアのベルルスコーニだし。結局、そういった羽目をはずすのが人間としたら、それを調整するシステムが必要となるわけで、たとえば政権交代もその役目を果たしますが、今回はタレコミだったわけ。

社会党党首オランド氏は、これはフランスの信頼にかかわる問題だとコメント。まったくその通り。
さっきググったら仏語ブログ界もこの話題で沸いておりました。

*
さて、そういった騒音をあとにして、あしたから10日ほど休暇に出ます。
PCおいてくし電話もなし、何冊かの本とノート一冊持参。
ではまた。

2005-02-23

雪の欧州、仏財務相のお引越し-パート2 

une_paris_neige17日のエントリ《家賃190万円と民主主義 -- 仏財務相のお引越し --》の続きなんですが、今日発行のカナール・アンシェネの、これでもかと攻撃を続けた(らしい)記事を受けて、ル・モンド紙版もこの件を第一面に持ってきた。新事実は、ゲマール家は600m平米のアパート改築費用( 3万8千ユーロ説から15万ユーロ説までさまざま- だいたい550万円から2000万円 )も財務省に払わせていたこと、自分の持ち家であるパリ5区の190m平米のアパートを家賃2500ユーロ(約36万円)で貨してた、など。600平米 duplex のほうには(これも省が給与出していると見られる)使用人を5人住み込ませていた、と住居探しに苦労する一般人を怒らす要素が満杯。ゲマール相は一週間ほど前に、フランス国家予算内社会福祉額が高すぎるため『国民のの国家援助中毒治療が必要』と発言したばかり。おまけにラファラン内閣は今日、社会住居対策案を発表してタイミングもばっちりです。今のところ財務相辞任の話は出ていませんが、日本のホリエモン騒動なみの祭りといったところか。 もともとはアルプス・サヴォワ地方の小さな靴屋の息子だが、ENA(国立行政院)をでて、嫁さんも外交官の肩書きの高級官僚の若手財務相、危機管理がヘタレであると、政権内の同僚からも批判が出始めたようです。

欧州中雪だらけでありまして、スペインのマドリッドやイタリア・ベニスまで雪景色。

2005-02-17

家賃190万円と民主主義 -- 仏財務相のお引越し --

canardまずはアサヒウェブ版から

《家賃190万円豪華アパート転出へ 仏財務相、批判受け》
8人の子持ちで知られるゲマール仏財務相(44)が、国費負担の豪華アパート住まいを批判され、引っ越すことになった。公費抑制の旗振り役でもあり、600平方メートル、月家賃が月給と同じ1万4000ユーロ(約190万円)というのはさすがに通らなかった。

「ゲマールの言行不一致」と特報した16日付の週刊紙カナール・アンシェネによると、アパートはパリ有数のブランド街モンテーニュ通りのそば。財務相一家は今年1月から、5階と6階の各300平方メートルを占有し、1万5000ユーロ(約200万円)をかけて両階をつなぐ内部階段もつくった。。。

ゲマールに子供が8人いるなんて、有名な話ではないですが、まあいいか。カナール紙の元記事は読んでないんだが、このスキャンダルの伝播経過を理解した限りで簡単に書きます。

1. 毎水曜日発行の風刺紙カナール・アンシェネがゲマール大臣の新居問題をスクープ。(この新聞のすっぱ抜き記事の大半はインサイダーからの通報がベースです)

2. カナールの記事を受け、リベが記事を出す。16日エントリ参照。
仏公営放送ラジオフランスのニュース局フランス・アンフォが大幅に取り上げ問題アパートの立地条件、大臣の家族構成をはじめ、特に14000ユーロという家賃を協調し、30分にいっぺんほど(私の印象だが)のをいちんち中流す。昼過ぎ発行のルモンドはほぼスルー。

3. 夜20時の民間テレビ TF1で大臣インタヴュー。

4. ラファラン首相は政権メンバーの住居選択自己規制案を発表。ゲマール大臣は引越しの意思をいったんは否定するが、最終的には引越し声明。

ね式コメント:今回はカナールのセンタリングからフランス・アンフォに非常に上手くパスが通った。フランス・アンフォの記者が『190万円、いや1万4000ユーロ』と読み上げる声には怒りが聞き取れたし、聞いてるこっちも腹が立たないではいられないわけだ。
で、結局『ゴーーーール!=大臣引越し、内閣住宅規制成立』。しかし、やっぱ革命の国、お上にたてつく時の連携プレーはみごとである。

関連記事 
ルモンド 《ラファラン内閣メンバーの住居リスト
リベラシオン  《週120時間仕事してたらアパートさがす時間なんてない、って誰が言ったわけ?》

2005-02-13

パリ症候群 その2

2月5日のエントリーでも扱った《パリ症候群》についてのブログがあんがい日本ネットに多いようなんで、フォローしてみよう。

まずフランスや症候群記事を掲載した仏新聞について: これは当地に長い私としては言いたいわけだ。フランス、広く言えば欧州は(逆説的だが、かなり不便で)住みやすい、いいところである。そしてフランス、そして欧州全体の少なくともペーパーメディア/新聞・雑誌の質はかなり高いということだ。

もちろん日本という遠い国を紹介する場合にキッチなやり方をする場合もかなりあるが、それは細部であり全体としてイイ線いってると私は思う。逆に、東京で《東京症候群》----映画《lost in translation》はまさにコレをあつかっていた---に陥った、たとえばフランス人たちのことを、日本のメディアだったらどう紹介するのか、考えてみればいいだろう。

あとパリに来て症候群に陥る日本人の数は、リベラシオンによれば年間100人だが実際にパリに暮らす日本人数は2万人から3万人はいると思う(すいません、この数字には自信ないけど。それで症候群率って高いのか、低いのか、、)。郷里から東京に出てきて適応するのに苦労するのは普通だと思えるし、逆にぽっとパリにやってきてまんま楽勝でスイスイこの冷たいマルチ・エスニックの街パリの、とくにこの長い冬を生きていける人はかなり神経が変わっているのかもしれない。

東京・ニューヨーク・ロンドン・パリ・ベルリン・北京、、、大都会にはそれぞれの名がつく症候群がありうるだろう。

しかしだよ。もうちょっと考え進めると、パリでなにが面白いかと言ったら、これは前にも書いたが一種の無法的自由なのである。逆に言うと、日本で息が詰まるのは日本にはこの無法的自由がないってことなんだろう。ニートや引きこもりの人は、日本のあくまで親切なガイドラインに乗り切れない感性を持った人である、と思える。かえってこの人口はフランスでもうまくやっていくのかもしれない。むしろ日本で、こうしろああしろのガイドラインに沿って生きてきた人は症候群に引っかかりやすい、かも知れないのだ。

いやいや、まだある。《このごろなんだかパリが東京みたいになってきた現象》である。
たとえば、デパートやショッピング・センターに無料でこぎれいなトイレができた。メトロ内で駅名アナウンスするとか、駅ですりに気をつけてくださいとか日本語で(!)アナウンスがあったりする。売り子が親切になった。犬の糞を拾うパリジャンもまだマイノリティではあるが、私は昨日目撃した。フランス人もこのごろは英語をしゃべる人間がはっきり増えた。やたら気分良く親切な住民も増えた。(アリエネーション系も郊外ゲットー系不良、とんでもプッツン系も多いがね)

先日、オペラ座界隈で乗った95番のバスは半分空き状態だったが、なんと私は別として日本人客3グループいて、おまけに非観光客的会話。おお、ココは日本じゃ、と思ったね。たしかにパリ生活エンジョイ邦人は増えている。ワーキング・ホリデー組みも留学組も多い。エンタメ系文学系もいらっしゃってる(?)らしい。同時に、アメリカになんとなく行きたい組は減っている可能性はある。

今日ラジオである外国人が『悲しい時、パリの街は悲しく目に映る。そして、なにかうれしいことがあったとき、パリは輝いて見える。』と言っていた。これは本当だ。そしてパリは外国人の街である。そしてそして、ここは誰もかまってくれないところが《売り》であり、自分から捜しに出かけないと、何も手に入らない街である。もちろん、百円ショップも本物のコンビニもないよ。

参考 パリ日本語フリー新聞 ovni

2005-02-06

SHOAH

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写真は週刊誌ヌーベルオプセルバタールからスキャンした前仏健康相のシモーヌ・ヴェイユ女史の1941年の写真。

ヴェイユ女史は16歳の時、両親とあと3人の兄弟・姉妹とともにアウシュビッツに送られ、結局生き残ったのは3姉妹だけでした。第二次世界大戦記念式典も去年は例年になく大規模に行われていた。当時の記憶を語るものがだんだん減ってきているという理由もあるようです。

アウシュビッツのあとにもカンボジア・ルアンダそして今はダルフールとエスニッククレンジングの歴史は続いています。こちらのTVやラジオで『虐殺はこれからも起こるだろう』と語る人が多かったのに驚いた。人間の本質についての深い悲しみと、そしてヨーロッパの人々の記憶への執念に近い意志に心を打たれました。

2005-02-05

パリ症候群

n_d_p以下は2月3日付け天声人語です。

フランス語教育が充実していることで知られる暁星学園でフランス人教師に囲まれて11年間学んだ。東京大学の仏文に進み、卒業後もデカルトやパスカルを研究、助教授になった。 1950年、戦後第1回のフランス政府給費留学生に選ばれた森有正は、フランス語に不安はないはずだった。本人もある程度自信もっていたが、同時に「心の底には一種の形容するのがむつかしい恐怖の念がありました」と述懐している(『森有正エッセー集成3』ちくま学芸文庫)。 日本で学んできたものが根本から揺るがされるのではないかという恐れは、的中した。生きたフランス語や社会、文化に接しているうち、「最初の自信めいたものは跡かたもなく消えてしまいました」。彼の苦闘が始まる。それは哲学者として思索を深めていく過程でもあった。結局、76年の死までフランスにとどまった。 在仏日本人に「パリ症候群」があとを絶たないという。あこがれのパリで暮らし始めたものの、うまく適応できず、精神的トラブルを起こしてしまう人たちだ。90年代にパリ在住の精神科医太田博昭さんが命名した。最近、仏紙も話題にしたという。 「フランスはあまりに遠し」という時代ではもはやない。だが、どんなに身近になってもパリには「有史以来、日本人が異文化と接触した時のあらゆる幻想が、凝縮されて盛り込まれている」と太田さん(『パリ症候群』トラベルジャーナル)。「症候群」に苦しみつつ、あえて深みにはまることで新しい地平を開いたのが森有正だったといえよう。

パリ滞在者なら誰でも名前ぐらいは知ってる太田先生のことが書かれていて、ちょっと気になった。しかし本『パリ症候群』は1991年発行の"古い"本で、アマゾンで調べてみても在庫なし状態でした。

パリ症候群について書いた仏紙はリベラシオンです。今流行の日本ネタでとくに読み応えのある記事ではないが、それによると、パリでは毎年100人以上の《パリ症候群》に陥る日本人滞在者がいるという。パリにやってきて3ヶ月後あたりに発病、ノイローゼから強迫神経症や自殺未遂にまで進む可能性がある。当初は日常生活での失敗が原因で欝気味になり、やがて不安・外出することへの恐怖に取り付かれ、やがて公共交通機関を利用できなくなる。しかし彼らはパリの夢を見捨てることは出来ず、帰国を拒否する。

この文章から《パリの夢》をさっぴいたら、これ、引きこもりじゃないの?そうかオルガン弾きの森有正は引きこもりだったのか。いや、馬鹿な言葉遊びはやめよう。

中学か高校時代の濫読期に読んだはずの「遙かなノートル・ダム」の詳しい内容は忘れているが、崇高な作者の孤独とその孤独に対峙するかのごとく立つ(当時の私はまだ見たことのない)崇高なノートルダムの塔のイメージは残っている。そしてそのバックにはロンドン塔とこれも神経衰弱に悩んだ夏目漱石の姿が浮かんでくる。

パリにやってきた当時の私には《パリ症候群》的症候はまったくなかったけれど、いかんせんこの頃になってメランコリー症候群に陥ることがある。こちらの長い冬がその大きな原因だけれども、そればかりではないな。年齢を重ねた結果か。いや、もともと母国で『環境不適応』だった私は、こちらの無法的自由の中で夢中で生きることに気を張っていた。それが齢を重ね、それなりに適応してしまって、自由の中でやっと自分が不自由なことに気が付いたのかもしれない。

森有正の本を探しに、明日はパリの街に出てみよう。