投稿情報: 2007-04-18 カテゴリー: Livre / 本 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
4月5日のユマニテで、トッドは大統領選についてインタヴューに答えています。対サルコジ・レジスタンスが着々と組織されつつある選挙2週間前ですが、しかし。どうなることやら。
Emmanuel Todd :
« Notre société se radicalise » エマニュエル・トッド:「私たちの社会はラディカル化する」 、一部翻訳紹介します。
...もしわたしたちが、この社会の代表者が経済システムに対する-有効で理性的で合理的な道である -意義申し立てと、犠牲の羊(boucs émissaires)のあいだで躊躇しているのに立ち会っているのであれば、ぎりぎりになってナショナル・アイデンティティ議論を組み立てようとするニコラ・サルコジの試みが完璧に怪物的であるのは明らかだ。 (訳注:市長であった)ヌイイ市の外で参加した選挙すべてに敗北した(これは事実である)ニコラ・サルコジを、無意味でばかげた政治家と判断できなくなったのは、これがおそらく初めてである。 サルコジは選挙戦のカタストロフそのものだ。 これまでも、また現在も私はサルコジが高い投票率を取る可能性は少ないだろうと思っている。 2002年のシラクと同率を取ったとしても、それは大きな驚きだろう。 私にとってサルコジは未試験選挙物体なのだ。 しかし、選挙論争の中心にゼノフォビア・エスニー(外国人嫌悪・民俗性)を持ってくるとは信じがたいことだ。 この男は、論議をリアリティの鳥羽口で(アクテュアリティを)主題とする責任を負った。 この意味ではフランス社会での歴史的断絶を身をもって示したといえる。 おまけに彼がやったことはフロン・ナショナルの利益となってしまう危険性がある。。。
。。。ボナパルト(ナポレオン)は、それでも平等によって支配されたフランスの“価値” 権威を具現していた。 サルコジは、まったくもって平等という価値とは無関係だ。彼はブッシュに従属していたし大企業経営者たちの友人だ。 不平等の男だ。この意味ではフランス文化システムの産物なのだ。 この同じ理由から、彼の行く先はそれほど長くないと思える。 彼の前論理段階思想は不気味だ。まずNATO・ブッシュ主義者だった。 そのあと Guaino(訳注、サルコジの演説ライター)が書いた演説では、国民共和派。 つぎは、移民問題でペタン主義者になった。。。こう考えざるを得ない:この男は、すべてをでたらめに語り、プログラムを絶えず変更するスタイルの《解放者》であって、その政治メソッドはヨーロッパ史におけるファシストたちによって教授されたのだ。
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トッド風には、サルコは独裁者の見習い魔術師ですか。オンフレイのブログ、アクトII では、サルコジ精神分析されちゃって、おまけにオンフレイに憐憫されてました。
また、辞任したベガグ相(Azouz Begag)の本が話題になっています。一部は雑誌 Marianne で読むことができますが、サルコジ氏のダーティ・ワード語録になってる。ここ。
しかし、NSが大統領になっちゃったらどうするんだろう。トッドもオンフレイもベガグも、france3 のキャスターお姉さんも、島流しでしょうか。郊外大暴動が起きても、誰も止める人がいなくなりますね(←いつもの悪い冗談です、スミマセン)。
追加:ボーっと復活祭日曜の仏ウェブ界を見回してましたら、テレラマでトッドのインタヴュー発見(3月3日)。ヨーロッパ経済保護の可能性を訴えていますが、本論とは関係のない最後のところ(が個人的に面白かったので)紹介します。
研究調査への嗜好はどこから来るのですか?
受けた専門教育から。私は歴史学者です。歴史の続きを知りたいと思うのは普通じゃあありませんか? イランに行ったことはないし、私がそのシステム崩壊を予言する以前のソ連にも、18世紀にだって一度も行ってみたことはないのです。これらの国に関して、私は歴史家として文献・資料・統計を調べる。そして傾向を延長する。。。すべての歴史家が近未来に散策するわけではないですが。。。人は、しばしば現在から逃れるために歴史に向かう。かつて起こった騒ぎや熱狂の中に避難する。けれど中世研究家と話していると、彼らが現在について鋭い洞察力を持っているのに気づかされる。単純に、彼らがそれを好んでいるわけではない。現在がかなり危惧される状態なのです。今、私は過去における家族システムについて調べていますが、自分の小さな仕事部屋で小さなカードをもとに中国での家族共同体の発達時期を限定しようとしている時、自分は保護されていると感じるのです。
今日のル・モンド紙一面の一部と31ページ目全部が、3月6日に77歳にして亡くなったボードリアールに関する記述になっています。ポール・ヴィリリオのインタヴュー、また911後、ボードリアールがル・モンド紙に掲載した文章についての別記事も興味深い。ご紹介いたします。(ということでドヌーヴ記事紹介は後になりそうです)
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ヴィリリオのインタヴューを訳してみました。あくまで私的な意訳ですが。
《彼は事実の敗北をかいま見ていた》
ポール・ヴィリリオ:エッセイストそしてユルバニスト
ポール・ヴィリィオはジャン・ボードリアールに一番親しい友人たちの一人。ガリレ出版社で彼が編集する《L'espace critique/批評空間》に多くの哲学作品を発表している。ジャン・ボードリアールのどんなイメージが印象に残っていますか?
最初に会ったとき、彼はアンリ・ルフェーブルとジャック・ラカンの間にいました。1960年代中ごろのパリで、日常生活と批評問題に関わる雑誌ユートピーに、彼は参加していたのでした。
私にとってあの出会いは重要なものだった。何が起ころうと枠外にとどまろうとする、ある特種な孤独を抱えていたにしろ、彼は周囲の人々に極めて寛大な人間だったのです。
作品のなかに、その孤独の跡を見ることはできますか?
はい、なぜなら彼は、シオランのすぐとなりに並べうる懐疑の哲学者だったからです。大体、シオランについては共に多くを語り合ったのですが。そして、たえずアカデミックな成功からくる思い上がりを拒絶した。メディアの勝利という現在の錯乱を彼は予見していた。
「フーコーを忘れること」に関わる論争を想起してください:彼はフーコーを評価していたが、そのオーラは評価しなかった。ボードリアールは一瞬のリアリテ/事実にだまされたりはしなかった。そのせいで、彼のシュミレーションに対する情熱があった。なぜなら彼は、事実の敗北(la défaite des faits )と、進歩の大いなる幻影をかいま見ていたからです。
彼はまた、ニヒリズムへの誘惑が数え切れない今日にあって、ニヒリズムを拒否したエッセイストでした。。。アメリカの衰退という、この主題は彼が好み、また多くを書いた主題ですが、これは彼自身を深く悲しませた。イメージの人間ではない彼が、当時フォトグラフィーに急激に移行したのは、逃避するこの大陸の敗北を描くためでした。
ボードリアールの後継者はいますか?
出てはこないでしょう。それは無理です。最後の書籍 「ダイアローグの追放者たち、エンリック・ヴァリアント・ノアイユとの共著:ガリレ社 2005年/ Les Exilés du dialogue (avec Enrique Valiente Noailles, Galilée, 2005) 」は、21世紀の大きな断絶、ポスト・モダン性に特有な政治哲学のクラッシュを明快に示している。そう、大きな断絶があり、その意味でボードリアールは固有のジャネレーションに属している:革命-後は存在せず、孤独がある。そして彼の作品は、深い孤独の作品なのです。
リアリテ(事実)と、美学ばかりではなく政治の敗北についての真実の確証もあります:彼は現在の二重性に自覚的だったし、彼にとっては、“マニピュレーション/操作”は拡大する以外考えられないものだった。そして、彼は対する自身の苦痛と、そして政治の退廃と、同じだけの忍耐性と批判抵抗性を持っていました。
最後に話したとき、今から数日前のことですが、彼はおしまいにこう言ったんです:「苦痛は終わることがないだろう」。。。
インタヴュー担当はジャン・ビルボーム( Jean Birnbaum )
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続いては、ボードリアールの言葉についての短い記事です。これもかなりな意訳です。なおボードリアールの文章のいくつかを、一番下のル・モンド弔報ウェブ記事ページ内右のリンク先で読むことができます。
“われわれはレゾー(ネット・網・組織)である”
幾たびか、ル・モンド紙上でジャン・ボードリアールはその視点を公表してきた。
2001年11月3日のル・モンド紙に掲載された《テロリズムの精神》では、セプテンバーイレブンについてこう書いている:《すべての言説とすべてのコメントは、この出来事が引き起こした大いなる無意識の表層化と幻惑とを現している。モラルによる有罪宣言、対テロリズムの聖なるユニオンは、世界レベルのスパーパワー破壊を目前にするという驚異的歓喜に相対する。さらには、言ってみれば力が自己破壊を遂げる、その美なる自殺を目にするという歓喜に。
わたしたちはこの出来事をどんなに夢見たことか。例外なく、誰もが夢見たのだった。なぜなら、ここまで集中した権力の破壊を夢見ないわけには行かないからだ。これは西洋のモラルにとっては許容しがたい。だが事実は事実であり、実にすべての言説の悲壮的暴力性は、それが覆い隠そうとしていたもののに等価であるのだ。》
ル・モンド2(2005年5月28日付け)では、“スペクタクルとしての社会”について記している。
《私たちはすでに、一定の距離とあるインテリジェンス空間を所有するとされる批判的観客ではない。私たちはすでに、スペクタクルとしての社会に、演出のなかに、スクリーンによるアリエネーションの内側等に生きているわけではない。私たちは舞台シーンの前にいるのではなく、私たちはそのレゾー(ネット・網・組織)なのであり、レゾー自体なのだ。メディア権力の現在のヘゲモニーは圧倒的であり、スペクタクルによる支配ももはや存在せず、それはある種の均質性の触手であって、帝国主義でさえない。そして私たちは内部に沈んでいる。グローバルなスクリーンの中にいるのだ。私たちの存在はイメージと記号の流出に入り混ざり、私たちの精神は過多情報と現在自体を消化する絶え間ない現在性の集積に溶解するのだ。》
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最後は、メインの弔報記事です。
社会学者そして哲学者のジャン・ボードリアール、死去
ボードリヤールは、長い病の末、3月6日火曜日に77歳で死亡した。1929年ランス(マルヌ県)に生まれた、ジャン・ボードリヤールは、ソルボンヌでドイツ語を学んだあと、文学批評家としての活動を始めつつ、中学のドイツ語教師となる。最初の出版は(ジルベール・バディアとの協働)ベルトルト・ブレヒトの追放者たちの対話の翻訳である。1960年台のはじめに、マルクスとエンゲルスのテキスト、またドイツの作家ペテール・ウェイツの(よく知られたマラー/サドを含む)何冊かの著書を翻訳している。
同時に哲学の勉学を始め、1966年にはアンリ・ルフェーブルの指導下に、 論文「対象のシステム」 (Système des objets;Gallimard, 1968)を発表。この著作が、ボードリヤールの社会学研究界でのデビューとなった。ここには、新しい視点の中心(資本主義の掟によってますます短いサイクルで“消費”される《記号》の生涯)と、時として呪文に似た、しばしば表層を剥ぎ取る、独自なトーンが読み取れる。
その後のボードリヤールのキャリアは、まずナンテールのパリ第10大学に始まり、1972年にそこで教授となる。次に CNRS(国立研究院) の社会イノヴェーションに関する研究者、そして最後(1986年以降)にはパリ第9大学(ドーフィン)の社会-経済学研究院で研究責任者をつとめた。しかし、彼をフランス国内と国外の知識人界での重要人物とした大きな要因は、記号の政治的経済批評である。
消費社会の非情さと、そしてルフェーブルの跡に従って、工業化された国々の“日常生活”を観察し、それでもボードリヤールはマルクスの伝統的後継者であることも、フランクフルト学派の場に身を置くことも拒否している。スターリニズムに反対した彼は、同時にトロツキズムとマオイズムに関しても警戒心を怠らなかった。彼にとってイデオロギーとは、流行と同じように記号システムに収斂される。そして、どんなものであれ記号(シーニュ)とは単なるシュミラークル以外のものではないのだ。資本主義システムにおいて、もの(訳注;事象、商品、現象)は、その流通価値が完璧に消滅するまで際限なく流通する。すなわち、われわれはレアリテ(訳注;事実あるいは現実)の最終的本質を決して知りえないのだ。その上それは存在せず、さらに、その上にわれわれが新しい政治なり社会セオリーを建設すると信じるこの基礎は、あくまで幻想でしかない。
したがって、ギー・ドボーの状況主義にかなり近いボードリヤールの思想は、ラジカルなペシミズム、さらにはニヒリズムに似通っている。こういった様相のもと、彼の思想が1968年5月ムーヴメントを、真に関わることなく通過したことは驚くべきことではない。以来、その思想はいかなる政治政党にも救いの手を差し伸べるのを拒否したにしても。
しかし、これはボードリヤールが非政治的であるという意味ではまったくない。反対に、その- 出版され続ける -テキストのそれぞれが、彼の当初からの得意技である、支配的思想批評に貢献している。
パラドクスへの嗜好(LE GOÛT)
これは時として衝撃的である:たとえば、「生産の鏡、あるいは歴史的物質主義の批判幻想」 ( Le Miroir de la production ou l'illusion critique du matérialisme historique;Casterman, 1973) 、「象徴交換と死」 ( L'Echange symbolique et la mort ;Gallimard, 1976) 、「誘惑の戦略」 (De la séduction ;Galilée, 1979) は刺激的な著書であり、今でも読み返して得るものがある。けれど、「ボーブール効果」と「フーコーを忘れよう」(1977)は、より状況につき動かされて書かれたと見うけられる。これらの本は、時事問題に関わる論客としてのボードリヤールの誕生と、またガリレ社への最終的移行を示している。- ガリレ社からは、しばしば挑発への意思が強く見受けられるエッセイを含む20冊を越える著作が出版されることになる。1980年から1990年までの10年間はその国際的名声の頂点に対応する。どんな環境ででもリラックスした話し手であるボードリヤールは、世界中の大学から大学へ、討論会から討論会へと行き交い、コンフェランスを行い、寛容にインタヴューを受ける。
「クール・メモリーズ」(Cool Memories; 全5冊、1987- 2005)には、新聞・雑誌の記事と性格的(訳注;d'humeur)テキストが集められており、専門的分野を越えて一般読者をひきつけた。このパラドクスへの嗜好から、1991年には「湾岸戦争は起こらなかった」( La Guerre du Golfe n'a pas eu lieu ) という小冊を発表する。ボードリヤールによればクウェート戦争と呼ぶべき戦争が、実は視聴覚メディアによる綿密にオーガナイズされた“シュミラクル”戦争であると告発するこの著作は、ボードリヤールのポピュリズム的かつ図式化された反-アメリカニズムへの方向転換を現している。119直後、まずル・モンド紙に(2001年11月3日)、同じテーマのテキストを集めた,「パワー・インフェリノ」(Power Inferno)出版のすぐあとに、ガリレ社から「テロリズムの精神」( L'Esprit du terrorisme;2002)を発表する。この、悲劇の犠牲者への同情の不在を特徴とする文章群は、理論的に二重の主張を持っている:911はすべての人々が夢見た出来事であるだろう。なぜなら、だれでもアメリカ・パワーの破壊を夢見るからだ;そして、ツィン・タワー破壊がイスラミストの犯行であると想定されても(されるべきであっても)、この出来事の“真実”とは決して把握しきれるものではないだろう、ということだ。
これは、挑発をその思想のばねとした著者のやっとたどり着いた漂流先なのか?いずれにしろ、ジャン・ボードリヤールがこの時代のアクティブな証人だった事実は決して忘れられないだろう。著作を通して、そして写真を通して。彼は、アートとしての写真を擁護(例としては、ソフィー・カルあるいはリュック・ドライエの作品支援)することでは満足しなかった。彼自身、数限りない旅行のおりに、情熱を傾けて写真を撮り続けた。
その完璧に砂漠化した都市風景のカラー写真集の中から、彼自身が選んだ写真とタイトルを持つ一作品集を私たちは記憶にとどめるだろう。この写真集のタイトルは、彼の思想を見事に現している:「なぜなら、幻想はリアリテ(事実)に対立しない」(Descartes, 1998) 。カイエ・ド・レルヌ(Cahier de l'Herne)誌は2005年にボードリヤール特集を発行し、同年に、ガリレ社からは数冊の対話書が出版されている。ボードリヤールは、挑発と過剰に至るまで、その批判という熱情を維持していたといえるだろう。この情熱は人々に、彼の思想に反する考えをも含めて、考える機会を与えるのだ。
クリスチャン・ドラカンパーニュ / Christian Delacampagne
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投稿情報: 2007-03-07 カテゴリー: Livre / 本, trad/翻訳 | 個別ページ | コメント (4) | トラックバック (2)
この土曜に、まとまった時間が作れたので例外的に80ページほどイッキ読みいたしました。結局、読了に4ヵ月近くかかったことになる。嫌になって2・3週間放っておいたり、落ち着ける時間がなかったりで1・2ページしか進まないことも多々あったのですが、しかしこれだけの文字分量のある(翻訳ではない)仏書を短期間に読み終えたのは、26歳でフランス語を習い始めてから初めてな気がします。
以下、読み返さずに一読者として印象に残った点を列挙してみる。
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さて、これからこの小説を読んでみようとする人へのアドヴァイスです。
辛いのは最初の180ページぐらい。ドイツ軍・政府内のヒエラルキーがドイツ語で書いてあるので、文末のリストはあるもののなかなか理解しがたい。でも、それも慣れます。
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しかし、バッハをはじめ偉大な音楽家とヘーゲルやゲーテの偉大な思想家を生んだドイツ(語圏)があんなことになったのは一体どうした訳なんだろう。また、この小説が示すのは、60年を過ぎて、“事実”を事実として距離をもって見ることができるようになった。そして、忘れないように書いておくことのできる世代が出てきた、ということでもあるだろう。
いや、また時間が経ってからこの本のことは書いて見ます。
しかし、しばらく日本語たたいてなかったから、かなり単語とか忘れている。やばい・やばい。
参考:ガリマール出版社の《 Les Bienveillantes 》 サイト、一部ですが読むことができます。
投稿情報: 2007-01-29 カテゴリー: Livre / 本 | 個別ページ | コメント (8) | トラックバック (0)
...Le Big Brother d'Orwell est un oeuvre d'une nomenklatura restreinte qui épie tous les gestes de tout membre de la multitude, contre le désir de chaqu'un. Le Big Brother de 1984 n'est pas la télé, où des millions de voyeurs regardent un seule exibitionniste. C'est le panopticon de Bentham, où plusieurs gardients observaient, sans être observé ni observables, un seul condamné. Mais si, dans le récit d'Orwell, le "Grand Frère" est une allégorie du Petit Père stalinien, aujourd'hui le Big Brother qui nous observe n'a pas de visage et n'est pas un individu, c'est l'ensemble de l'économie globale. De même que le Pouvoir de Foucault, ce n'est pas une entité reconnaisable, c'est ensemble d'une série de centres qui acceptent le jeu, se soutiennent mutuellement au point que celui qui, pour un centre de pouvoir, espionne les autres qui achètent dans un supermarché, sera à son tour espionné quand il paie à l'hôtel avec une carte de crédi. Quand le pouvoir n'a plus de visage, il devient invincible. ou, du moins, il devient difficile de le contrôler.
...オーウェルのビッグ・ブラザーとは、小数のノーマンクラツーラ(共産党幹部)が、マルティテュードを構成するメンバーすべての動作を、ひそかに観察するその活動のことだ。1984のビッグ・ブラザーは、数百万人の覗き魔がひとりの露出狂を見つめる場としてのTVではない。それは、ベンタム(ジェレミ・ベンサム)のパノプティコン、つまり不可視で観察対象ともならない守衛たちが、ただひとりの罪人を監視する場のことだ。しかしながら、オーウェルの物語における“大きな兄弟”とは、スターリン主義の“父/権化”のアレゴリーだったわけだが、今日、我々を監視するビッグ・ブラザーは顔がない、それは人間でさえない、グローバリ化した経済全体なのだ。フーコーの権力と同じように、それは認知しうる実体ではなく、ルールを受け入れるサークルの集まり全体であって、互いに支えあい、結果として、権力中枢のためにスーパーマーケットで他者をスパイする者が、同時に、あるホテルでクレジット・カードを使って支払いする時にはスパイされることにもなる。権力が顔を持たなくなるとき、それは無敵となる。あるいは、少なくとも、コントロール不可能なものになる。
Umberto Eco "La perte de la vie privée /私生活の消失" 2000年にヴェニスで行われたコロックから、猫屋試訳
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...マルクスが資本についての分析のなかで労働者の貧困と言う問題に出会ったとき、彼は何をしたでしょう。そうした貧困を自然的欠如ないし謀られた搾取の結果と見なそうとする通常の説明を、彼は拒否しました。そして、彼が言ったのはおよそ次のようなことでした。「資本主義生産は、その根本的な法則において、貧困を生み出さずにはおかない。」 つまり、労働者を飢えさせることが資本主義の存在理由ではないけれども、資本主義が発達するとき必ず労働者は飢えることになる、ということです。マルクスは、搾取の告発にかえて、生産の分析を始めたのです。 --- “フーコー・コレクション5”、性の王権に抗して、1977年B・H・レヴィとの対談から
投稿情報: 2006-11-19 カテゴリー: Economics/経済, Livre / 本, trad/翻訳 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
アタクシが読んだ、あるいは聞いたことなどいくつか。
Wikipedia仏語版の該当ページが長くなってます。また、リテル個人サイト内の audio,video ページ上から三番目のリンクで、これはめずらしいですが Radio Canada への長い、完璧なフランス語でのインタヴューが聞けます。
と、思いついたまま書いてみました。ホントウの読後感は読了後に。また、カナダ放送でのインタヴューは興味深いものなので、聞いてみることをお勧めします。なおこれから読んでみようという方へ:小説最初部分の虐殺シーンを含む部分はかなりシンドイですが、そこを越えると案外“ラク”になります。
投稿情報: 2006-11-08 カテゴリー: Livre / 本 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
まずはル・モンドウェブから、
ゴンクール賞、ジョナサン・リテルに
近頃いろいろ批判の多い仏文学賞なんですが、ナンシー・ヒューストン(Lignes de faille )がフェミナ賞を受賞したのち、アメリカ国籍のリテル (Jonathan Littell、39歳) の文学作品第一作が、7票(他候補に3票)とって2006年ゴンクールに選ばれました。なお、同時に発表されたRENAUDOT/ルノドー賞は仏・コンゴ人Alain Mabanckou/アラン・マバンク(発音自信なし)、の Mémoires de porc-épic(ポーク・エピックの記憶)が受賞。
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リテルの本は夏休みから帰った時点でヌーヴェル・オプスの記事を読んで、9月に読み始めたんですが、なにしろ行間詰まりに詰まった900ページ、重さだけで一キロありそうな本。中身も重い重い。時々思い出しては読み続けてるんだけど、なかなか進まず。まだ200ぺージめぐらいをウロウロしています。受賞を機会に、もう一回気合を入れて再挑戦しましょう。ネブロ関連エントリー:この秋、絶対読みたい本 今読んでる本 日記、その2
また、こちらはル・モンドアーカイブからドイツの歴史家、Peter Schöttler による批判、“ショアの国のトム・リプリー”
パトリシア・ハイスミスの小説の人物トム・リプリーに比べてますね。
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“リアル”と“フィクション”の関連というのは、21世紀のテーマのひとつだと思います。それについて、いずれ(リテルの本読み終えてからだな、たぶん)書いてみるつもり。
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追記:フランスでもっとも読み手の多い文学系ブログ、La république des Livres (本の共和国)のピエール・アスーリンが今回のゴンクールとルノドー賞について書いています。仏文壇内輪話がわかる。
投稿情報: 2006-11-06 カテゴリー: Livre / 本 | 個別ページ | コメント (5) | トラックバック (0)
ええい、もういっちょ。
ということで簡単に読後感想です。この本、村上春樹と柴田元幸の「翻訳夜話」が出版されたのは2000年だったんですねえ。翻訳というサド・マゾ体験大好き人間である猫屋は、以来気にしつつも某図書館で借り出して初めて読みました。
翻訳技術のノウハウ種明かし、としてはまったく甲斐なしの本ですが、村上春樹という作家と、柴田元幸という米文学専門教授の人間としての差が見えるところがイト面白い。本書終わり近くには、カーヴァーそしてオースターの短編の両氏競訳が並んでおり、本の最終には原文まで載っているという、一粒300メートル、じゃなかった、同じ短編が3回楽しめる仕組みになっている。
これ読んで、村上小説のベテラン・ファンであるアタクシが、何故か村上翻訳が好きになれない事実に驚愕してみたり。嬉し楽しの3時間読書でありました。
投稿情報: 2006-10-24 カテゴリー: Livre / 本 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
先週に続きル・モンド木曜書籍別紙からのクリップ。以下はアンリ・タンクが書いてる批評です。《イスラムのインテリジェンス》
HISTOIRE DE L'ISLAM ET DES MUSULMANS EN FRANCE DU MOYEN-AGE À NOS JOURS. 監修 Mohammed Arkoun. 序文Jacques Le Goff, Albin Michel, 1 220 p., 49 €.
タイトルは、中世から現在までのフランスにおけるイスラム教とムスリム。ソルボンヌ大学名誉教授モハメッド・アルコアンのもとに、なんと68人もの歴史学者・研究者によって執筆編纂されたこの本は1200ページを越えるんですね。ル・モンド批評冒頭にアンリ・タンクも書いているけれど、今大きな問題となっているイスラムに関する疑問を現実と言う枠中で把握したかったら、この本が la boîte à outils、つまり道具箱として役立つのだろうし、それがこの本の意図するところでもあるだろう。
古くは西暦732年の、イベリア半島から攻めよるイスラム勢とのポワティエの戦いに始まり、十字軍、中世における文化交流、そしてオリエンタリズム、ボナパルトのエジプト遠征、植民地時代から移民に至るまでの、イスラム世界とフランスのつながりをロング・タームで鳥瞰しようという、かなりカナリな企画です。
“他者”とは一体誰のことなのか、鏡の両側にある西洋とオリエントは、実はシャム双生児のように、切っても切れない関係にあるわけですが、しかし1220ページ、49ユーロ。イラスト・写真も多いらしいこの本、イスラムが専門ではまったくない猫屋ですが、Meddeb の Contre-Prêches(反-教義のクロニクル)と一緒にクリスマス・プレゼントに欲しい。まずは本屋で実物を見てみよう。
今更ながら、“歴史”とは単なる事実のつながりではなく、現在という時点から振り返る過去であり、同時に変化し続ける共同記憶なんだと思う今日この頃であります。
投稿情報: 2006-10-23 カテゴリー: Livre / 本 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (1)
というわけで、昨夜ミッション・アンポッシブルのごとく簡単に消え去ったXファイル、木曜ル・モンド書籍別冊から拾った“植民地”関連書リスト・アップの再現を試みます。なお、前日エントリーと同様、本タイトル日本語版はかなりな意訳なり。
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Memoires d'empire. La controverse autour du "fait colonial" 帝国の記憶、“植民事実”をめぐる論争 Romain Bertrand. 18,50 €. 下はル・モンド関連記事 《植民地、記憶の戦場》
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The Cambridge Companion to Postcolonial Literary Studies
監修 Neil Lazarus フランスで購入すると 23,38 euros
ケンブリッジの本がル・モンドで紹介される時代になったわけだ。あのカルチュラル・スタディですね。
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Atlas des esclavages : Traites, sociétés coloniales, abolitions de l'Antiquité à nos jours 奴隷制のアトラス:古代から現在までの通商、植民地社会、廃止。Marcel Dorigny, Bernard Gainot, Fabrice Le Goff (Cartographer) : 15,00 euros
奴隷制のアトラスです、凄い。79ぺージ。
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Culture post-coloniale 1961-2006 : Traces et mémoires coloniales en France ポスト・コロニアルカルチャー、1961-2006 : 19,00 euros
以前ル・モンドウェブでの読者とのチャットを訳した(井上ひさしに似てる)パスカル・ブロンシャール先生が共同監修しています。同シリーズには《植民地カルチャー》、《帝国カルチャー》があるそうで、面白そうだ。参考:《植民地の歴史はどう書くべき?》
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L'immigration ou les paradoxes de l'altérité : Les enfants illégitimes (文庫)
Abdelmalek Sayad :EUR 12,00
植民地に生まれた両親を持ち、フランスで生まれ育った二世の引き裂かれた状況を調査する社会学者サイアッドは、ブルデューに近い人。
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Nos mères, paroles blessées : Une autre histoire de harkis 母親たち、傷ついた言葉:もう一つのハルキの歴史 Fatima Besnaci-Lancou : EUR 17,00
ハルキ(あるいはアルキ)とは、アルジェリア独立戦争の際、フランス側について戦ったアルジェリア人(当時は仏国籍)。独立時に多くが虐殺されたが一部が本土の収容所で苦しい生活を強いられた。
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Leïla : Avoir dix-sept ans dans un camp de harkis レイラ:ハルキ・キャンプで17歳であること Dalila Kerchouche
: EUR 16,00
著者の父親はハルキだったそうです。
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Histoire de la décolonisation au XXe siècle 20世紀の非植民地化の歴史
Bernard Droz : EUR 23,00
20世紀ジオポリ状況上の大きな変化である植民地の消滅を細部にわたり検討した本。
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La tyrannie de la pénitence : Essai sur la masochisme occidental 罪の圧制:西欧マゾヒズムに関するエッセイ Pascal Bruckner : EUR 16,90
あのヌーヴェル・フィロゾフ衆の一人であるブリュックネールが、過去・罪・恥ばかりのヨーロッパは哀しすぎる、後悔の正しい使い方だってあるはずだ、と書いた本だそうです。
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Camus, si tu savais... suivi de Les Pieds-Noirs カミユー、もし君が知っていたら..ピエ・ノワールのその後 Daniel Leconte : EUR 20,00
アルジェリアのオランに生まれ、フランスに“戻らざる”を得なかったピエ・ノワール(北アフリカでの植民者)が語る共存の可能性。1980年に出版された本の再版です。
投稿情報: 2006-10-15 カテゴリー: Livre / 本 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)