eireneさんとこで見たときは、ひとまず「そうか」と深くうなずいたわけですが、トラカレさんとこ見たら、、、なんと上下いっしょに出ているのではないですか。
アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (文庫)
アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (文庫)
この夏買出ししてきた本がそのまま積んで飾ってあるというのに、
あの時はまだ出てなかった、フーコー・コレクション5を月末に帰国する友人に頼んだばかりだというのに、
買おうと思えば(文庫よりずっと高い値段ではあるが)ここではすぐ原書が手に入るというのに、
欲しいです。
だって日本語なんだもん(といって日本語だからちゃんと読むとは限らない)。だって安いんだもん(読む=消費しない本は元来買うべきではない、あるいは使わんモノを買うのは単なる浪費である、という原則はあるにしろ、)。
しかし、フーコーとかドゥルーズ・ガタリの本はまずこちらの古本屋には出てこない。元シオンス・ポの本好きおまけに本関連職の友人に、何でフーコーの古本ないのか聞いてみたら「ありゃみんな売らずに本棚に飾ってあるんだよ」と言っておった。そうですか。あいつのアパートにもたしかにあった。で、読んだの?と聞いたら。「ちゃんとは読んでません。わからんし」と言ってた(内心ほっとしたり)。
というわけで、(もちろん大学研究者を除いた)ドゥルーズ・ガタリ、またはフーコー読者(あるいは本所持者)数は、仏国より日本国のほうがずっと多いだろうと思います。
さて、先日は日本におけるニール・ヤングのディスコグラフィー見てみようと、コレクターの方のブログでコシヌカシタわけですけれども、たとえば70年代大阪公演なんてのまである。言い方はとても悪いんですが、国中がオタク型(あるいは付加価値十倍型)消費で沸騰してる。日本国のシステムって凄いです。
いずれにしろ、フーコーやドゥルーズ・ガタリ、また(新聞記事以外まるっきり読んだことないですが)デリダが日本で多数人に読まれる(あるいは飾られる)こと自体は、在仏邦人のアタクシにとってきわめて喜ばしい事柄である。
で、問題の文庫2冊ですが、来年か再来年の帰国時にブック・オフで探してみることにいたしましょう。