アプソリュート・ウォッカの瓶も空になっちゃって、だいたい天気はいいのに薄ら寒くそうそうベランダの椅子に座ってぼおっとあたりを眺めているわけにもいかない。眺めすぎても、小人であるアタクシはユウレカ!と、人類を救うべき愛の新経済システム構想(冗談・冗談)を得たりするわけもなく、いいことはない。しかしなんだかココロモチは空洞である。本を読む気にもならん。
ああ、こうなったらなんでもいいから字をたたこう。
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今夜は、買い込んでいたDVDの中から、ゴダール1965封切りの「Pierrot le Fou/気狂いピエロ」を鑑賞したわけだった。
去年の暮れ近くに、アルテTVでのキューブリック特集があって「博士の異常な愛情」「2001年宇宙の旅」と「バリー・リンドン」を見て、ついでにDVD買って「シャイン」を見た。1月1日にはパリ5区のシネマ・テイクでもう一度「バリー・リンドン」を見直した。こうやって続けてキューブリックを見るというのはやはり、圧倒的キューブリック経験であったよ。まあ、本来は全部映画館で見たいわけだが、それは望みすぎだろう。
このごろのフランスTVアホクササのおかげであるが、アルテを見る機会が増えた。というか、それ以外はあまりTV自体付けなくなった。
「フレンズ」見て、育ったら「セックス&シティ」で、結婚して「デゼスペレイト・ハウズワイヴス」見て笑ってるんじゃ、ちょっと人生悲しすぎじゃん。おまけにニュースもお笑いトーク・ショーもサル・プロパガンダだもんねえ。あれじゃ脳みそスポンジ化家電だTV。 というわけでアルテ。
キューブリックのあとは、これまたアルテで「A bout de souffle」を見た。「勝手にしやがれ」である(しかしあのころの日本語タイトルはしゃれてた)。もう4・5回見てるけど、やっぱかっこいい。白黒。
このところクラシック映画が安い価格で出ていて、「ピエロ」は先週購入。カナル+が出してるカイエ・ド・シネマシリーズで9.99ユーロである。「悪魔にささげる歌」のほうは若いロックオタクの友人に借りてこないだ見たよ。
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さて、Le Perrot le Fou。この映画は過去に一回だけ、二十歳のころだ、東京四谷の自主上映だったか、変な映画ばかりの三本立やっていた水道橋の映画館だったかで見てるんだけど、最後のシーンとランボーの詩のことしか覚えてない。
しかし、たいしたもんである。ゴダール特有の無秩序の秩序。色の使い方。画面の枠組み(ああ)。ユーゴーやセリーヌ、ランボーの挿入のしかた。音の扱いの意識的暴力性。バック・グラウンドにあるヴェトナム戦争。
途中の映画館のシーンで観客のジャン・ピエール・レオの顔が上半分だけ見えたり、上映中のニュース映画レポーターがジーン・セバーグだったり、怪物レイモン・デボスが出てきたり、アンナ・カリーナがこんなに魅力的だと今頃気がついて、ベルモンドの着てる服のなんともいえないしゃれ気(あんな色あいの服が似合う男はそうめったにいない)に関心して、ナンセンスさに大笑いもして、かなり充実した100何分かが過ごせたのだったよ。
もちろん、死に向かって突っ走る男フェルディナンド=ピエロの「悲劇」が主題なんだけれど、意図されたものなのか、あるいは35歳の作家の心なのか、いずれにせよこのゴダールには「軽さ」と「品」があって、それがアタクシが愛するゴダールの真髄なんだ。
またそれが「自由」なんだろうし、「創作/アート」なんだと思う。つまり、徹底的に遊ぶこと。
このごろ1968年のパリ5月運動、もっと広い意味で初めて世界レベルで行われた反ヴェトナム戦運動や一般的に「自由」を求める“中産階級”子弟の若者を中心とした運動(プラハやカルカッタ、東京)や女性解放の動きと、同時に生まれた文化(特にロック音楽)の豊穣さ(と悲惨;オーヴァードーズとか)のことを漠然と考えていたんだけど、ヌーバル・ヴァーグ(米国ではマーロン・ブランドやジェームス・ディーンの映画が対応するかも)ってのが、来る68年の大衆運動を準備してたんじゃあないか、ってのが今夜の思想であります。
コンフォルミズムと父性的権威からの逸脱志向(やってくる女性および性解放)と、マテリアリズム=資本主義と個人の関係の意識化、中産階級の形成とそれに伴う“若者文化”の発生、第3世界へのまなざし、とかね。
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ところで、タルコフスキーの映画もシネマ・テイクで上映するか、安いDVD流通してくれないかなあ(なんだかんだ言って、ここフランスでも下級人が文化を担っちゃう流れのようだよ)。