相変わらずのゴタゴタ、対アドミ戦争に駆け巡る毎日なんですが、土曜日曜は基本的に戦争相手がお休みなわけでして、おまけに愚痴の大放出に友人達も呆れたんだろう誰からも“遊ぼうよ”の声がかからない。で、急に暇になりました。
なお、対アドミ戦争とはなんぞや?これ説明したいとこですが、しない。また腹が立ってくるからです。申し訳ない。アドミンというヴィールスが突然変異を起こして怪獣化しこの平和なパリを襲おうとしているのだが、ヘタレ猫屋はこれを拒もうと日夜戦っている、わけではないです。
それで、今夜は映画一般論です。
ネタにするのは The Brothers Grimm グリム兄弟 です。監督はアノ Terry Gilliam、そう伝説のモンティ・パイソン(仏人はモンティ・ピートンと発音)の中のアメリカ人の人。
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以下に書くことには、芝居というのも含まれるのだろう。でも私がこれまでに見た芝居なんて、東京で見た唐十郎とか、こっちで見たシェークスピア、歌舞伎、オペラにしてもたいした数ではない。だから語れることも少ない。
映画はTVがうちの茶の間に出現する前から親に連れられて見に行ってから、一時某国に出稼ぎに出ていたときは別としても、コンスタントに見てる。映画館に行って。
やはり映画は映画館がいい。できればスクリーンは大きい方がいい。座席は座りごこちがいい方がうれしい。今ではなくなってしまったが、籠にアイスクリームとかキャンディとか入れて売りにくるお姉さんがいると、買わないんだけど、余計うれしくなれる。
映画の前のCMは映画予告だけがいい。画面に幕があって本編出だしの時幕が引いたりするともっといい。劇場の照明が暗くなって、パラマウントだの松竹だののカムパニー名と自由の女神やライオンやなんかが仰々しくでてきちゃって、猫屋は興奮してしまうのである。そして映画の出だしが私をストンと別の世界に投げ入れる。
映画は夢に似ている。そして映画は複数の人間と共有できる“夢”なのだ。
映画“グリム兄弟”を見終わって、私が考えたのはこのことである。こんなような事は多分、カイエ・ド・シネマとかドゥルーズとかのプロがもうたくさん書いてるんだろうが、新聞・雑誌の映画評しか眼を通さない私は、今になって初めて気がついたわけだ。
そして映画には、映像があり、音がある。そして言葉がある。視覚と聴覚と記憶装置がいっぺんに活性化する。
テリー・ギリアムのこの映画は、米国では当たらなかったようだが、フランスでは悪くない成績を残したようだ。だがほぼ同じ時期に封切られたアノ、ティムバートンの2本の映画に押されてしまった。確かにティム・バートン映画もつある種の完成性と毒気には負けている。
だが、“グリム兄弟”のもつ非論理性、というか多分ギリアム自身、自分がどこに行くのかわかってない、、のじゃないか、これが魅力である。
宮崎映画のハチャメチャはどこか計算された非論理性と見えるわけですが、テリー・ギリアムは“絶対こうじゃなきゃ駄目なのよー、と映画を作ったら結果こうなった”風である。よく言えば、想像力の暴走だ。
たとえば、グリム兄弟の作品研究家がこの映画を観たらかなり怒るに違いない。マット・デイモン(仏読みマット・ダモン)のグリム兄がすばらしい。しかし単なる詐欺師である。
舞台になるのは19世紀ドイツだが、彼らは完璧な英語をしゃべり、悪者は美食にふけ“文明/光”を力で世界中に広めようとするナポレオンのフランス軍である。サディックな禿のイタリア傭兵も出てくる。早い話がなんでもあり。
呪われた森があり、ヘンゼルとグレーテルと白雪姫とかのエピソードが挿入されている。もののけ姫そっくりの呪われた聖なる娘がいて、気の狂った馬が少女を口から吐き出した蜘蛛糸で絡み上げ飲み込んでしまう。森からやってきた緑の液体お化けも子供を飲み込む。森の中にはもちろん月夜に変身する狼男がいる。はあ、はあ。
そして世界で一番美しい、女王モニカ・ベルッティが出てくるのよーん。開かずの塔のなかに。
ジョン・レノンに良く似たグリム弟は、幼い時瀕死の妹を助けられなかったという罪悪感に苛まわされてて、兄を恨むんだけど、、とお約束のドンデン返しが2回転半ぐらいあって、最後にこれもお約束の大団円。なんか最後に村人が喜び歌い踊り、、がドイツのフォークロールじゃなくてあれ、ヘブライ風。なんで、?と思ったが私には確かめようもない。
途中崩れ去る塔の姿や文明戦争がらみで、こりゃアメリカ批判だという説もあったな。
映画考古学的には、たしかに宮崎の影響がある。しかし、今はなき山口昌男大先生が喜びそうなディテールがそこここにちばめられている。“昔々あるところに、、”で始まる話には、いろいろな読み方が出来る。ギリアムはそこのところを良くわかってこの映画を作っている。
そして、マット・ダイモンはバリー・リンドンのライアン・オニール型俳優になりつつあると感じた。エレファントとラスト・デイズを作ったガス・ヴァン・サントが2002年につくった不思議な映画、 Gerry でもマットは不思議な“身体”の見せ方をしてたけど、ここではみごとに役にはまっていた。(関係ないけどラスト・デイズにはソニック・ユースのキム・ゴードンが脇役で出演、またサーストン・ムーアは音楽コンサルタント担当だったそうです。もっと気をつけて見るべきだったな、この映画。)
でもって“セックス”はどこ行っちゃったわけー。
あら、見当たらない。
たぶんモニカ・ベルッティがぜんぶ鏡の中に閉じ込めちゃったんだよ。
私達の“夢”が本来の“DESIR/欲望”を取り戻すためには、テリー・ギリアムがこの映画で試みたように、マーケティングに絡みとられた“物語性”を取り戻さねばいけないのです。“夢”はそれを追っかけるものから逃げる、ここにいたと思えばあそこにいる、あの自由と不自由そのものなのですから。
そしてもちろん、私達人間はその“物語性”がなければ生きてはいけません。
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