日本・中国・韓国・日本で“言論の自由”とナショナリズムをめぐってかなり抹香臭い論争とイベントが続いています。Media@francophonieブログでは《中国の反日デモと日本》というタイトルでフランス語圏プレスからどれも興味深い三記事を翻訳してくれています。欧州プレスになれた自分には、どうも腰砕けの感がある日本プレスが扱え切れないナーヴァスな内容も、直接の利害関係がないところ発の報道がうまくカバーできる場合がある。
まったく関連はありませんが、イスラエル・パレスチナ問題をめぐってイスラエルとアラブ両サイドの知人から話を聞くと、同じ歴史、同じ土地について話してるとは信じられないほどに違いがあって驚く。最終的には、このふたつの見解を和解させるのは不可能だろうという考えを第三者の私は持ちました。(その意味で少なくともイスラエル・パレスティナ問題をめぐっては国連なり国際刑事裁判所なりの仲介なしには解決不可能だと思っています。)
今回の問題には、中国・韓国・日本の三国での教育と政治、そしてメディア問題が大きく関与している。米国ではダーウイン説を教えないというチョイスが高校にある、ようですが、“言論の自由”を妨げない国家が逆に大枠での“言論統制”という目的を達してしまう場合もある事実は指摘すべきだと思います。これは日本のネット界でナチスの行ったジェノサイドに関して現地ヨーロッパでは考えられないような歴史修正主義的歴史観が《自由》に伝播/電波していることとも関係してくる。冷戦終了後の東アジアで同時に過去を振り返っての動きが見られるのは偶然ではないでしょう。
ドイツのシュローダー首相が「ホロコーストはドイツの歴史の一部だ。」と発言しました。ドイツ国内での反論も多いとは思いますが、こう言い切ることができるのもひとつにはEUの存在があるし、また60周年をもって東西分裂を乗り切ったドイツがやっと終戦を終えた、第二次世界大戦から(責任は取りつつ)やっと自由になったということでしょう。もちろん、欧州はアジアに勝っていると言う心算はまったくないのですが、国民/国家の歴史とその分節/変換期に元首がその仕事をなし方向性を示すといういい例だと思います。
・さて、手元の岩波国語辞典で引いてみますと、《自由》の定義は他からの束縛を受けず、自分の思いのままにふるまえること。△思うままであることが重点のの場合(例、「どうぞ御自由に」)、拘束のないことが重点の場合(例、「言論の自由」)、他からの強制でなく自分の責任で行うことが重点の場合(例、「自由意志」)等がある。また資本主義体制化の自由をさすこともある。「自由世界」 以下略。。。とあります。
スイスはベルンの mari さんは、『十字軍にしろ イスラム戦士にしろ ユダヤ教徒にしろ たとえ善意の行為であっても「神がそれを望んでおられる」何ぞと言うのは具の骨頂、ニンゲンの傲慢勝手な解釈としか思えないので言い訳にカミサマを使うのは止めんしゃい。。。』 とまことに正論のTBを昨夜のエントリにつけてくださいました。
たしかに、ある言論の絶対化を目的に神を持ってくるってのはよくあるパターンですね。経済では未だに『見えない神の手』が幅を利かしていますが、これもなー。眉唾、眉唾。たしかに、モラル/倫理欠乏症の21世紀ですから、宗教に帰りたい/ナショナリスムに帰りたいという帰依の発露はむべなるかな、なんですがいったいそれで物は解決するのか、と問えば答えはノー。国内をひとつにまとめるのに外部に敵を想定するというテクも失敗する時点でかなり悲惨な結果を招きえるし、他宗教を信ずる外部全体を排除することで、排除されるのは結局自己というカルマ/業が回ってくるですねえ。
自由と言えば思い出すのは70年代に聞いたジャニス・ジョプリンの歌《Me And Bobby McGee》 の『Freedom's just another word for nothin' left to lose』 というフレーズです。このテーマは確かディランも歌ってたかと思う。まあ、70年代の子供の感性だと言ってしまえばそれまでなんですが、これが私にとっての自由定義のベースメントになってるようです。(←世代論のようなもの) その子供が、2000年代には権利と義務なんて話をするわけで、ちょっと感慨は深かったりしますが、、まったき自由を生きようと世界に出る子供がドンと出会うのが権利・義務なんですね。自己の自由を守るにはそれにともなう権利と義務を認知できなきゃいけない。相手が国家であってもこの自己の自由を守る権利はある、これは憲法が保障するところです。もちろん環境、たとえばアフリカの飢餓地区できれいな水を飲めない子供の環境というキツイ状況があります。人間は状況から自由ではない、これは選択の自由をトレードマークにしたサルトルも晩年には認めていたようですが、基本人権を広げる活動も自由・権利・義務の範囲に入ると考えてもいい。ただ、この活動が一定の団体によって行われる時、どうしても内部利害が発生しますから、それのチャックアップ機構も必要となってくる。
また散漫化してきたのでここいらで切り上げますが、今回やってみた言葉一つ一つが持っている意味の再確認/チェックアップは有益だと思います。なぜなら言葉の意味自体が本来固定化してないことと、以前のように一国家内でほとんどすべてが片付いていた時代は終わってしまって、インターネットを始めとしたメディアが発達して、同時に流通する情報量が膨大ですから、トラフィック量の増大にともなって、どうしても最小限度の管理が必要となるのはやむをえない。だがその管理のしかた、あるいは管理責任の放棄が大きな結果を及ぼす可能性がある、と考えられるからです。コミュニケーションを成立させるためには、基盤となる語彙レベルでの共通概念が必要ですが、現在の東アジアにおける地鳴りを聞くと、なにやらそういった語彙レベルでの、同時にそれ以前のコミュニケーション意志レベルでの欠落が大きいな、という感がします。
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あしたこそ、ゼッタイに《形》のはなしに入るぞ。
参考:余丁町散人の隠居小屋 - Blog からル・モンド、エディトリアル 《Tentions Chine-Japon/日中間の緊張》
ね式
《形と自由》宿題編 《形と自由》とんでもないところに話はいってしまう編