さて、昨夜は某所で花見会があったのだが、あまりの気温の低さに暖炉を囲んでの飲み会になってしまった。その某花見流れ酒飲み会に来ていた仏人剣士に《形と自由》の関係を定義しろ、という難問をぶつけてみた。日本刀を何ふりか所有するほどの剣道オタの彼が言うには、『自由とは、自分が自己に科した目的に到達した時に感じる開放感/感情、である。』 また『規範のないところに自由はない。規範のない自由は単なるアナルシー/無政府状態である。』 と言っていた。前回エントリにコメント欄で答えてくれた、スイスのmari さんの『「形」あってこその自由ではないかとわたくし何ぞは思うのですが、どうなんでしょう? 制約のない自由はじゆうでなく、放埓とかそんなもんではないかと。』 とも通じます。なんか、皆さん賢いなあ。
さて、私自身の自由の定義は拘束のないこと、なんですねえ。いかにnekoyanagi がエゴイストであるか分ってしまうのだが、解説してみれば、フランス革命以前の社会は階級制度下、生まれによって人間の地位は決まっていたですね。王や聖教者が市民/ブルジョワや農民を上から押さえる形で統治、結果構造上部腐敗が進み耐え難い生活難から貧乏人/市民が立ち上がる、王族・聖教者をギロチンに掛けまくり(やりすぎたですが)特権階級の消滅を宣言したのがフランス革命でありますが、ここで自由とは(階級社会の)拘束のない状態、と言う概念が出来上がる。(ま、これはね式仏革命解釈で違った読みもできるでしょう)
前のエントリで扱いましたが《自由》を、所有する自由と見るのが資本主義です。ケインズ(恥!)アダム・スミスが言ってる《神の手》とかってここからのデリヴァティフ/派生と思います。すなわち、自然界においては結局強者が生き残るが、これって神の選択だ、となる。この線を極端に強調してるのが現行米政権ですね。(所有する)自由を妨げるものは悪であり、また強者は常に正しいのであるから、強者である米国は弱者である他の国々を正しい道に導くことができるし、またそれが強者/米国のの使命でもある。
まあ、私が自分で書いた文章ですから、その誤謬を指摘するのは簡単です(^^)。弱肉強食論のベースにあるのはダーウインの一解釈であって、自然界で生き残った“強者”ってのは単に各時点での環境に適応してたからで、別に強いとか弱いとかの絶対的なもんではない。おまけに実際の自然界を見れば分りますが、自然の生命構成単位である種はきわめて多様なんで、本当に弱肉強食であれば最も強い種だけ生き残るはずが、そうはなっていない。まあ、その生物・植物界の多様性も人間と言う種が生み出した《文明》のせいでかなり脅かされているのが現実です。自然界の最強者/人間が自然を破壊しつくす、としたらこれはもう《神の誤算》なのかあるいは《神》はいなかった、ということになりますが、これは余談。
また、所有する自由があるとしたら、所有しない自由もあっていいはずだ。ところがないんですねえ。nekoyanagi はなんも所有してませんが、これは望んで所有してないのではない。所有する自由と、所有できない運命というべきか。昔、藤原新也が「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」と写真にコメントをつけましたが、結局そういうことになる。たとえばアフリカで濁った水を飲んで死んでいく子供は、濁った水を飲む自由があることになる。
話を(少しだけ)戻します。ここで《法》の概念が出てくる。もちろん、残念ながら自分は法専門家でも何でもありませんから、ね式《法》です、ゴメンナサイ。ここに一個の《物》がある。そしてその《物》をめぐって二者がその所有権を主張する場合、話し合いで解決するか、殴り合いで解決するか、あるいは《法》に従って解決するかという選択肢が出てきます。(ああ、なんとなく出口が見えてきたような、ふふ) ある意味、こういったコンフリ/紛争は、ふたつの自由のせめぎあい、といった様相を帯びる。複数の自由が競合する時介入するのが《法》であり、この《法》をお約束/フォンダメンタルにして成立する国家が法国家。
ということで、今夜はもう遅いし、法/ダルマは形であるというオチ。この宿題の回答編
にたどり着くのはまだまだ先になりそうです。
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