ここで言う形とは日本武道の、そして日本の古典的芸能作法全般、つまり茶道や花道・舞踊等で重んじられる《形》あるいは《様式》をさす。一応お断りしておくと、母親がその幼少時代に祖父母からかなりの量の日本古典技能関係を叩き込まれたが、戦後に教育勅語とともにそれらの祖父母の嗜好をゴミ箱に捨て去り、ジャズを歌ったりスキーをしたりMGMの映画を愛したり年下のボーイフレンドと結婚しちゃったりした流れで生まれたnekoyanagi は日本古典技能とは一定の距離を保ったまま成人、その流れのまんま欧州に来てしまった。したがって、恥ずかしながらそろばん・書道・俳諧・民謡・謡はいうに及ばず、柔道・剣道・なぎなた・合気道から気功にいたるまでまったくやったことがない。ここまでできないと見事だな、と感心してしまう。あえて言えば、のし泳法ができる。日本語は(まだ)しゃべれる。味噌汁はつくれるな。それだけだが、現実は現実である、その現実を生きるしかない。(かといって、あしたから習えばいいんじゃん、という展開は有効ではない。あなたはね式思考形態の実体を知らない。)
欧州に来て気づいたことは自分が日本人だった、という事実である。これを知るだけでも外国に出る価値はある。ただこの《道》も他のすべての道と同様に、真髄に近づくためには長年の修練と犠牲が伴う。半端なところで終えると、半端な優位あるいは劣勢コンプレックス人間が出来上がる。(ね式のこと?) ここで悩み始めるとよくないので元に戻ろう。でもって、羽織袴で日の丸の扇子をかざしてシャンゼリゼを練り歩く、まではしないがなんとなく自分は日本の代表的気分の時期がすべての外遊者/島流し者にはあるのだが、実はニッポン代表したくても披露する日本技能が手持ちにないと気づき、汗したり。寿司もにぎれない、作る刺身は単なるぶつ切りだし。自宅の床をフローリングにしてから、日本式雑巾がけデモンストレーションを行ったが受けなかった。雑巾の絞り具合や、ケツを持ち上げてダダッと走りこむあの爽快さは階級制度の尻尾を引きずる欧州人には理解できない。床掃除とはあくまでびしょびしょモップでたらたら・イヤイヤ行うものであり、大体床に這い蹲る姿勢は最悪の自虐スタイルと、彼らの目には書いてあった。この次のデモはダライラマ系仏人でも見つけてから行うことにする。(余談だが、ゴダールだ、トリュフォーだと東京では格好つけてた訳だが、パリの格好つけ人間は増村だ小津だあ、とうちの母親を通り越して祖母の映像言語を使っていたりする。あるいはゴジラだもんな。なんでパリさ、出てきたんだが。まあいい、それが人生だ。ファイトー・いっぱあーつ!)
さて、前置きがここまでで、やっと本題に入るはずなのだが、実はね式にはその本論がまだ見えていない。困ったな。
パリ武道大会というイヴェントで剣道形を見るチャンスがあった。八段師範による真剣を使った形だ。見ながら、自由と形の関係はどうつけたらいいのだろうか、と考えていた。これが分らない。《自由》という言葉の規定から出発してみる。あるいは逆に《形》のもたらす自由について考えてみる。しかしこのふたつの概念がどうしても交差しない。たぶん言語的レベルがまったく違うんだろう。もうちょっと考えてみる。チャンスがあったらこっちの仏人剣士に質問するという手もあるな。---- と言うわけで、この件いったん宿題化。
毎度。 猫屋さまのエントリにはいつもうなずかされて、TBしたいのですが今日は忙しく(ベルンでは雪降ったし)コメントでまず失礼。
私も日本式技能はいたって貧しく、強いていえばコドモ相手に習得した折り紙とか。うそ臭い生け花(でもこれは薀蓄を伴わないと、西洋ふらわーあれんじめんとを圧倒できない)とか。受身だけ出来る柔道とか。 あと多少の理解を求めるならやはり仰る通りダライラマ系人間をつかまえるのが手っ取りはやい。
そんな話ではなく、「形」あってこその自由ではないかとわたくし何ぞは思うのですが、どうなんでしょう? 制約のない自由はじゆうでなく、放埓とかそんなもんではないかと。勝手な誤解解釈だったら申し訳ありません。
投稿情報: Mari | 2005-04-09 11:46
んーと、今は剣道家にインタヴューした後で作文中、大体おんなじこと言ってました。まだ続きそうです。
投稿情報: 花見帰りの猫屋 | 2005-04-10 03:26