« 生き残りの春 | メイン | 《形と自由》 -- とんでもないところに話はいってしまう編 »

2005-04-09

コメント

Mari

毎度。 猫屋さまのエントリにはいつもうなずかされて、TBしたいのですが今日は忙しく(ベルンでは雪降ったし)コメントでまず失礼。

私も日本式技能はいたって貧しく、強いていえばコドモ相手に習得した折り紙とか。うそ臭い生け花(でもこれは薀蓄を伴わないと、西洋ふらわーあれんじめんとを圧倒できない)とか。受身だけ出来る柔道とか。 あと多少の理解を求めるならやはり仰る通りダライラマ系人間をつかまえるのが手っ取りはやい。

そんな話ではなく、「形」あってこその自由ではないかとわたくし何ぞは思うのですが、どうなんでしょう? 制約のない自由はじゆうでなく、放埓とかそんなもんではないかと。勝手な誤解解釈だったら申し訳ありません。

花見帰りの猫屋

んーと、今は剣道家にインタヴューした後で作文中、大体おんなじこと言ってました。まだ続きそうです。

この記事へのコメントは終了しました。