まあ、20年も島流し状態にあるにもかかわらず、私の日本語がどうにか通じる事実が注目に値するかもしれない。ネットもあるし、海外電話も安くなったし、最近日本人多すぎのおパリですから普通である。しかしだね、困った情況がしばしば起こる。『はっ』としか対応できない状態に陥る。
原因1 フランス語で言うアブレジェ、(単語の短小化か)マクドナルドをマックとかマクドとか呼ぶアレです。
例 ケイタイ:慣れた ミスド:覚えた(食べたいもん) コテハン:解説読みました イケメン:ワカイコに聞いた サポセン:日本のココに電話する機会はほとんど無い etc.
原因2 現存の日本語を使わず英語というより英語から来たカタカナ表記・発音になってる。対応する日本単語が無い場合もある。英語系の場合、近しいフランス単語では発音が違うので困る場合が多い。あるいは発音不能に陥る。
例 マニュアル インセンティブ メトロ(まあメトロと言うのはパリのメトロポリタンから来てるから許してやる)
原因3 こんなの分りません。こんなの英語でも日本語でもホンジュラス語でもありません。
例 ホームセンター イメージ マイブーム ホームページ
派生として:本来の使い方から外れて用いられる言葉、 癒し、など。
問題は原因3である。これははっきり言って見るたびに腹が立つ。どうにかしたい、社会心理学的エッセイだって書けそうである。書かないのは自分がヘタレた人間であるからに過ぎない----ところでこの《ヘタレ》という言葉はおおいに許している。だってヘタレ状態に適する形容詞ってなかなか見つからない。シオシオノパーというのがね式の少年時代にはあったな、そんくらいだ。
また横道にずれたが、要は帰国時自宅の時差ぼけ状態のリヴィングルームで(茶の間と書きたいが、まだ生きてる御先祖が勝手に建て直してしまったのだ)じんわり幸福をかみしめながら広げる朝日新聞の、といっても私はプロ中国でも反日でもなんでもないんだが(子供の頃から読んでたコレが一番うれしい)本物の紙のおまけに配達してくれる朝日新聞に挿んである広告に、一杯この手の許せん言葉が並んでおる。
たとえばマンション(この言葉も気に喰わん、アパートだろが早い話、なにがメンションだ)の広告にホームセンターまで車で5分、とかあるわけです。この《ホームセンター》は理解できるまでに時間がかかった。ショッピング・センター、ショッピング・モールでしょ英語圏では。フランス語ではソントロ・コメルシアルみたいな音になるが要するにコマースのセンターだ、論理的である、やはりデカルトの国である。
しかしホームセンターには悪意に近い意図が感じられる。言ってみれば近代個人主義から資本主義中期後半の消費過剰主義に移行した日本の状態をよく体言する言葉である。つまり、近代における個人意識の基盤としての家庭=ホーム(注1.)という、ポストモダン言語でいえば、幻想としての世界の中心かつ価値のベースであるはずの"現実"家庭が、TVに出てくるような"理想"家庭になるためには、ショッピングセンターに行ってピカピカの素敵な家具や観葉植物や電気製品や小物を買うというそれまでのシェーマ(図式)自体が、いつの間にか現存の価値形態から乖離したと言う事だ。
乖離してどうなったのか。個人は家庭から消滅し、ショッピング・センターに引っ越した。人々はもうめんどくさいので、ホームセンターに常駐してるのだ。言い換えれば、個体としての人間自体は枠としての家に住み続けてはいるのだが、個人意識のほうは集団で新しい家庭=ホームをショッピングセンター内に作ってしまったのである。
個人、あるいは消費者は製品のストック場である家からホームセンターに出かける。理想の家庭はこれから買うピカピカの製品で組み立てあげる《リカちゃん》の家ではすでになく、理想の家庭/ホーム/基盤とは永遠に選び続け、永遠に買い続けることのできるセンター、ホームセンターなのである。楽天やeBayやヤフオクに常駐する例はこのヴァリエーションと言えるだろう。近代個人主義は実にすでに終わっていたと言っていいと思う。
付け足せば、例に挙げた《マイブーム》というのも同質の変形パターンであって、元来多数の個人がある対象に入れあげる状態をブームというのだが、これをたった一人でやってしまう。個人と集団の入れ違い、あるいはすれ違い、またはねじれが起こっていると考えられる。
こういったひねり型乖離は浦島状態の自分には案外簡単に見つかる。言葉《イメージ》の誤用もそれである。イメージという言葉は本来ある映像をさす(これは念のために書いておく)。物や人や現象なりを表す絵なり写真なり、あるいは心に浮かぶ映像がイメージであろう。しかし、ファミリーレストラン(ここにも。これは人が家からショッピングセンターに移行する時間モデュールにおける中間点だな)の広告写真に、『これはイメージです』とか説明書きがあって、これも最初は分らなかった。
写真はイメージ/像である。なにも説明する必要は無い。そのうち、実際に買った商品と広告写真との間に差があった場合の消費者からのクレームをかわす手段であると、さすがの私にも分ってきた。たぶん訴訟王国アメリカ合衆国でも同様な事例がすでにあって、それがまんま日本に上陸したと考えるのが妥当かもしれない(現地調査に行く暇も金も無いのが残念だが)。
説明書きの必要な流れはわかる。しかしやっぱり《これはイメージです》とイメージに書き加えるのはなんとも情けない話ではある。が、この例は、手に入れなきゃいけない=売らなきゃいけない消費物の包括する過剰価値(イメージ)と実際の商品現実との間の差異の問題を良く表している。
大体が、貨幣というものも表象が一人歩きしちまった商品であるのだから、貨幣/円の実際のヴァリューが変動しっぱなしの昨今、それが体現してきた神話を商品自体が担うようになったと考えることも出来る。ステータスシンボルのグッチなりエルメスなりをヤスオクで格安にゲットしても、そして格安で買ったことを他者に言っても言わなくても、シンボル=エルメス自体に価値があるのだから、そして私はエルメスを持つ価値のある人間なのだから、おkなのである。
見せびらかすべきステータスは過去のように、貴族の持つ階級でもブルジョワの持つ金/マネーでもなく、単に商品/消費物なのである。そしてステータス/商品の流行サイクルは意図的にどんどん短くなっていく。わたしが暫定的に《消費過剰》主義と読んだのは、消費先進国日本を回転させているシステムのことだ。
これまでの例とは若干くい違い度のことなる《癒し》という動詞については後の機会に書いてみたい。
でも予告 【でもいったいなにから癒されたいのか?】
注1. これは米式シット・コム 古くは“奥様は魔女”“ゴッツビーショウ”、家族幻想崩壊後は“フレンズ”“セックス&シティ”等々が見せつける明るくオープンな、あの家庭である。まあ明るくオープンじゃなくちゃTV映えしないし番組内で紹介する製品もピカピカに買いたくなる風ではない。和式で言えばあの《サザエさん》と東芝の関係である。