« 分らない日本語 -近代個人主義の終焉試論 - | メイン | パリのアメリカ人 -コンドリーザ・ライスパリ訪問- »

2005-02-08

コメント

澤井雅子

私がスーザン・ソンタグさんを知ったのは、今年2月の朝日新聞における追悼文によってでした。その内容がとても刺激的だったので、ウェブ・サイトを検索してソンタグさんのことをもっと知りたいと思いました。彼女は若い読者へのアドヴァイスという文章を残していますが、その中に、「人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められて来たかの軌跡です。」「傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。・・・そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、自らの生を狭めてはなりません。傾注は生命力です。それはあなたと他者をつなぐものです。それはあなたを生き生きさせます。・・・」というような輝く言葉が散りばめてありました。私が彼女の存在を知ったのが、彼女への追悼の文であったのは、残念ですが、彼女の生きて歩んだ奇跡を今からたどって行きたいと思っています。<スーザン・ソンタグはやはりもう生きていないのだった。>を興味深く読ませていただきました。パリでの現在の生活が、さらに豊かに血肉化されますように。澤井雅子

nekoyanagi

雅子さん、こんにちは。
私自身彼女の言葉を意識し始めたのは彼女がこの世界にいなくなってからです。NYタイムスに載った長い記事《Regarding the Torture of Others》、英語ですがソンタグの身体性とでも呼んだらいいのでしょうか、魂から直接発せられたといった感のある文章が読めます。
http://www.nytimes.com/2004/05/23/magazine/23PRISONS.html?ex=1400644800&en=a2cb6ea6bd297c8f&ei=5007&partner=USERLAND
感性/センシヴィリティ、というのは西欧では影響されやすい・あるいは弱いといった形容詞と一緒に使われて否定的な意味合いも強いのですが、彼女はその感性・想像力を目一杯駆使していた。それはある意味、身体(カラダ)を張ったキツイ仕事だったとも思いますが、八方塞なこの時代に抵抗/レジスタンスするにはこれしかないんじゃないか、と考えてます。

ちーうよ

はじめまして、パリに住むチーウヨという者です。
ジム・モリソンの墓は、モンパルナスではなくペール・ラシェーズのほうにあります。
そこにいくと今でも多くのファンの人たちが、ちょっと怖い雰囲気を漂わせて彼の音楽をかけたり、タバコなどを彼の墓に供えてたりしています。
ちなみに近くの売店(花屋)などでは彼のTシャツを売っていたりもします。

nekoyanagi

ちーうよさん、
お返事が遅れてゴメンナサイ。コメント書いて確認までして、でも投稿ボタン押すのを忘れたような、、気がします。もうこりゃ母国での社会復帰はあきらめたほうがいいかもとか思うこの頃。お元気でしょうか。天気がよくなったらパリの墓地散歩でもと思っているのですが、なかなか天気が持ち返しませんね。ジム・モリソンの墓は嵐のほうが似合ってそうですが。

この記事へのコメントは終了しました。