京都議決書をめぐってmedia@francophonie サイトで読んだベルギーのプレス2記事 (追加 同ブログから、ベルギー首相の欧州委員会批判)と 、極東ブログの finalvent さんの(ほぼ)環境シリーズとそこで引かれている日本経団連コメントなど頭に置きながら自分の考えを、書きながらまとめてみたいと思う。
私はエコロジストではないし、もちろん思想専門家でも経済専門家でもなんでもない。だが、地球上の一点にはいつくばって生きている人間のひとりとして、環境問題は生活レベルでも政治レベルでも避けて通れない問題だと捉えている。
この個人としての受け止め方は、私のいるヨーロッパでも、経済構造や気象状況の異なる日本でも、そう差があるわけではないだろう。ただ、議定書に関する評価と、個々の生活レベルでの動き方は違ってあたりまえだろう。また、テクニカルな面、将来の地球像に関してはそれら専門家の意見を聞いて、理解する努力をするばかりだ。
私が書きたいのは、この世界を動かしているシステムその中で生きる我々がどうシステム全体を理解しているのか、と言う問題だ。そして、これは思想と政治のことでもある。
共産主義 vs 資本主義という古典的図式のあとに、資本主義あるいは自由主義 vs テロリズムがあり、この頃はやってくるだろう米国 vs 中国という図式が流行りであるようだ。
いつのまにか、《主義》はなくなっている。実際、軍事主義にしろ、共産主義にしろたいした幸福をもたらした形跡のない主義ってやつは、なくなったほうがいいのかもしれない。では、資本主義はどこに行ってしまったのか。これは間違った質問設定だ。
資本主義は本来、思想ではない。実は資本主義(あるいは自由経済主義としての自由主義)とは、思想としての主義(イデー/アイデア)ではない、というのがこのエントリーの趣旨である。市場主義でも自由貿易主義でも、保護政策でもいいが、それらが示すのは国際経済関係に対して各国政府が取りえるある“姿勢/政策”のことにすぎない。(おまけに完全な自由貿易主義なるものは歴史上にもない)
資本主義とは、財産の私有という《自由》と競争に基盤を置いた経済体系(システム)であって、国家統制経済体制がそうであるように、それ自体の中にはいかなる“思想/イデー”も、したがっていかなる“モラル”も内包していない。
同列に《科学/サイエンス》を持ってきてもいい。科学、あるいは科学研究とは、我々の知識の拡大を目指す人間活動自体を差すのであって、科学自体は資本主義と同様に、《思想》なり《モラル》を内包しない。
資本システム内で動く企業の存在理由は利潤追求であって、そのために多国籍企業の多くは国内法や国際法の網目をくぐる目的で多くの弁護士を抱え、ロビイストを使い、あるいは政権内に人材を送る。個人企業の社長さんには可能であっても、現在の株上昇を望む株主に縛られた企業人にはモラルを選択する余地はない。
同じ論理で、科学の目的は研究の目的成就(そしてその結果としての利潤確保)なのであるから、いくら道徳性の高い科学者たちが警告を発したとしても、世界レベルでの研究の発展をとめることは出来ないだろう。
そういうことだ。結局、南アフリカが先導してエイズ治療薬の特許問題で欧米大手薬品会社を相手に(部分的ではあるが)勝利した事実は注目に値する。これは《政治》が《世界一般世論》をバックに、経済理論に打ち勝った事例であるからだ。
今問題になっている自然保護、もっと正確に言うなら自然取り戻しの流れで言っても、実際可能なのは消費者であり、国民である個人が企業や政府に働きかけ(といっても具体的行動に出ると言う意味ではないにしろ)、企業・各国政府・国際機関の重い動きを変える以外にないと思う。
あまりに当たり前のことで、ブログに書いてもどうなんだか、極東組組長のように赤面するわけだが、消費者がその製品を買わなくなった企業も、選挙民が逃げた政府というのも原則的には消えてなくなるはずだ。
そういった意味で、ベルギーからの記事でインタヴューに答える企業家の言葉は、ポジティブなある《態度》を示している。政治レベルでの対米意識はもちろんあるだろう。だが環境をめぐって、短期間で一般消費者の意識が大きく変わったヨーロッパ、そして(私の考えでは)古いタイプの民主主義とレベルの高いプレスがまだ存在するヨーロッパの態度でもあると思う。
これには1999年末にヨーロッパを横断した大型台風を思わせる大嵐と、一昨年に多くの死者が出た猛暑のインパクトが、大きく作用していることは言うまでもないだろう。
私が住んでいた頃の東京地方の夏の最高気温はせいぜい32・3度だったように思う。今では40度は珍しくもないようだ。私の素人考えでは2003年の夏、エルニーニョー的高温度帯の流れが太平洋から大西洋まで回りこんでヨーロッパが熱し、逆に日本で冷夏になったと見ている。
グローバリ化したのは商品と人と情報だけではない。いや、もともと自然に国境はないのだ。