前回のミリオンダラーベイビーでがっかりしてるし、スピルバーグ参加ありという情報もあったし(あの人のリアリズムにはついていけない、だから“プライベート・ライアン”も“ミュンヘン”も観ていない)、だいたい普通な戦争映画は好きじゃないんだが、先週3年のニューヨーク生活から帰ったばかりのベトナム系仏友人に断定的に“絶対観るべき!”と一緒に行こうと誘われ、これはたまたま暇がなくて行けなかったんだけれど、まあこちらでは来年一月に封切りになる“硫黄島からの手紙”は観てみるつもりがあったので、ものは試し、今の米国での、と書いては言い過ぎになるだろうが、少なくともイーストウッドと言う人の戦争観はどうなってるのか見てみてもいいか、と思って朝の割引料金で観てきた。
結果:肩凝った。
説明:戦場の場面がフラッシュバックで、過去の、そして現在(モト本が書かれている時点)の場面に突然挿入されるから疲れる。臓物系リアリズム。ミリオンダラーでも思ったけど、やはりこの人は血が好きなんだよ。(あるいは実際に血が好きな人は多いんだと思う。)映画の最後に、旗二度目に立ててから兵士達が海に遊ぶシーンがあるんだけど、なんだこりゃ?“結局ヒーローたちは単なる子供だったんですよ”って事なんだろうか。よく分からない。Flags of Our Fathers サイト
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戦争モノ映画はSF系を除けば、キューブリックの何作かと黙示録とプラトーン、それにあと数編ぐらいしか見てない。記憶に残っているのは、キューブリックのPaths of Glory(邦題『突撃』1957年)、純戦争物ではないが、『ブリキの太鼓』での戦闘シーン(日常性と戦闘=非日常性の重層である日常)、ガダルカナルが舞台のテレンス・マリック監督The Thin Red Line (1998、トレイラー)。第一次世界大戦を扱ったフランス映画『Un Long Dimanche de Fiansailles』 も悪くなかった。
と、書いてみるとアタクシの戦争映画傾向が見えてくる。要は、リアルとフィクションの関係なんだろう。ハラワタ見せたらリアリズム、ってんではあまりにつまらないと思うわけです。フィクションである以上、なにかドキュメンタリーでは表現しきれないものがあってしかるべしだし、その意味では、上にあげた『レッド・ライン』の、ガダルカナルの美しい緑が、進んでいく兵士の視線の高さで風にそよぐ恐さは忘れられない。
かつて、作家マルグリッド・デュラスが、すべての戦争映画は戦争賛歌である、と書いていた。然り。そういえばアラン・レネの『広島わが愛』はデュラスの筆。またアラン・レネはあの映画『夜と霧』の作者でもある(先週アルテでもう一回観たですが)。
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あるいは、話はイーストウッドに戻るわけですが、結局、これって米国内の問題なのかなあ。かの国には、死体や死や暴力について、すくなくとも近年においては独特なコード化があるんじゃないか。たとえば911での、そしてイラク、アルグレイブでのカラダ(人間)の扱い方。そういう観点で言うと、また真珠湾攻撃以来、911が国家創立以来2度めの本土攻撃だったといういわば特殊な米国歴史性を考えあわせると、イーストウッドの映画の“存在理由”ってのがあるのかもしれないですね。
戦争と言うのが、いつも遠いところで行われるものであって、同時に報道が統制されている環境内であれば、この『父親たちの旗』と言う映画が、イラク戦争を抱え、中間選挙をひかえる米観衆に、何かをもたらすのかもしれない。(猫屋には肩凝りをもたらしたわけでありますが。)
なおこの映画のタイトルは、日本では『父親たちの星条旗』、フランスでは『父親たちの記憶』と微妙に変わっています。