13日間の日本滞在期間中、何故だか本屋には行かなかった。例外は、実家近所のラーメン屋に(正しい醤油ラーメン550円を)食べに行ったあと、通りの斜め向かいにあるブックオフに入って、でもあんまりに本やdvdやCDがたくさんありすぎでゲップが出てそのまま帰ってきたのと、帰仏便への搭乗待ちの間、成田空港のショッピング・モールの、確かユニクロのならびにあったツタヤにフラッと入ったら、この上下冊が平台に並んでいたのでそのまま手に取り、レジで代金を払い、なんとなく紙カバーもつけてもらって機内持ち込みのバッグに押し込んだ、その2回だけだ。
いつもは行く新宿南口の紀伊国屋にも行かなかったし、池袋のジュンク堂にも実家から遠くない三階建ての大きな本屋にも行かなかった。繁華街をフラフラしていて、ああ、あそこの本屋に寄ろうなどと思っても、本屋のコーナーにたどり着くまでに、なぜか、ユニクロだったりムジだったりヴィレッジ・バンガード(しかし、なんて店舗ネーミングなんだ)とかのエンターテイメント・ブティックに引っかかって、結局本屋までたどり着けなかった。
日本の出版業界も危機だそうだが、まず出版される本の数が多すぎること、第2に本屋を取り巻く販売環境のあり様も、すべてとは言わないまでも、幾分かその原因になってると思う。
**
さて問題の『1Q84』である。
というより、この未来過去小説の、周縁の話だ。
しかし、タイトルに入ってるQというのはあまりよくない。?;つまり疑問符クエスチョンマークのQなんだろうが、少しは仏語圏に住んでる人びとのことも考えてネーミングして欲しかった。キュとはオケツ、あるいはアレのことなのだ、ここでは。まあ、小説が(その意図があまりアタクシには分からんのだが)セクスアリザシオン/つまり性的化の強い作品だから、いいのか。
ついでだから書くと、何年か前、実家のそばにあるショッピング・モールで99円市を時々やっていて、その日は『キュウ、キュウ、キュ、キュ、キュ』という騒がしく、恥ずかしく、なんともエキセントリックな『曲目』を一日中流していた。あれは見事な環境『暴力』で、いまだにQという音を日本語で聞くと、あの暴力が頭の中で鳴り出してしまう。
さて、仏語圏に生きる人々を代表して、もうちょっとメモを続ける。チーズを食べる時にクラッカーと一緒には食べないで欲しい。あれは、アメリカ合衆国とか英国とか、正しいパンがない国で行われている食習慣である。品がない。(いつものごとく)あれをまねして、東京のオサレなホテルのバーかなんかがおんなじことしてんだろう。たとえば、すでに1980年代前半の東京には、おいしく正しいフランスパンを作っていた店があくさんあった(アタクシが最初に仏語を習い始めたアテネ・フランセでは、女の子たちがきゃあきゃあ言いながら、昼のカフェテリアに近所のアンデルセンで買ってきたバタールと誰かが持ってきたカマンベール・チーズのピクニックを楽しそうにしていた)。
ついでだから年の話を続けよう。
アタクシ猫屋寅八が日本国を後にし、仏国に渡ったのが1984年の8月。
アタクシが生まれたのは小説の主人公である青豆と天吾と同じ1954年だ。なんか、小説内に寅八という名のトラ猫でも登場させていただきたかったような気もする(たとえば、金魚のかわりにとかさ。空中大破したドイツ・シェパードの代わりはやだけど)。
バッハの平均率とかマタイ受難曲に並んで、ヤナーチャックの『シンフォニエッタ』ってアタクシの知らない曲が出てくるんでYouTubeで探して聞いてみたけど、あれエマーソン・レイク&パーマのアルバムに入ってた気がする。あるいは『展覧会の絵』のムソルグスキーの曲に似てるだけかなあ。確認してない。
途中で死んじゃうグラマーな警官のあゆみは、アタクシの脳内で、今は終わっちゃったTVシリーズ『ER』の最後のほうで登場してたシカゴのラチノ姉御警官のイメージに固まってしまった。小説が映画化されるとしたら彼女しかいないぞ、この役。
入院した天吾の父には、アヴェドンが撮った晩年のアヴェドンの父のイメージが重なる。
白ワインは無難に『シャブリ』が出てきたけど、他にもピュイイ・フュメとかピュイイ・フュイセとか薫り高き白は他にも色々あるし、ちょっと高いが極めはムルソー(ブルゴーニュ)で、おまけにこの名:Meursault はカミュの小説『エトランジェ』の主人公ムルソーと同じなんだ。ムルソーは一回しか飲んだことないけどあの味は、ビックリした。。。
食関係でもうひとつ言えば、コースの最初にスープが出てくるのはいただけない。イタリアのズッペとかは田舎の感じだし、仏料理だったらスープは出てこないほうが80年代の今風だと思う。
あと、主人公(男)が料理するのが、確かカマスかなんかの干物とおひたしと味噌汁とかで、ふふっと笑っちゃった。前はトマト・ソースのスパゲティとか、ポテト・サラダサンドとかがよく登場してたけど、いつの間にか和風になってる。春樹氏も年を取って和風好みになったのか。和風でいえば、文体も、以前のアメリカ大好き風はなくなってきてるし、あの春樹節も抑えてある。突拍子のない比喩とあの春樹式ジョークも以前よりは登場回数が少なくなってる。ヒットは三割三分ぐらい。あれが全部なくなっても、あるいは文体の中にびっちり組み込まれ、それでもリズムを変える役割は保って、小説が村上春樹の小説として機能するとしたら、それが理想だろうな。
前にもたしか書いたけど、彼はいつになっても少年であり続ける少年・少女小説家なんだと思う。これにはいい意味でも悪い意味でもない。これが彼の属性あるいは傾向なんだ。
もうちょっと続けよう。『クロニクル』にも登場した牛河という人物はスメルジャコフなんだと思うけど、確か彼は埴谷の『死霊』にも登場してたはずだ。
小説としてのできはどうだろうか。『アフター・ダーク』よりは出来がいい。これははっきりしている。ただ、箱(構造)の出来がいいせいで、あの《ワケワカラン》度が低下してる。アフター・ダークの失敗は語法の選び方にあったと思うんだけど、今回は文体の乾き度もほどほどのところで落ち着いている。迷ってない。
アフター・ダークでのように『悪』を『悪』として名指してしまうような間違いを今回は犯してない。
ただ、『ねじまき鳥クロニクル』を村上春樹の最良作と判断するアタクシとしては、あの小説のワケワカラナクサがここにはないのが物足りない。抑制は作品の完成度と読者の理解度を高めるけど、作者のエモーションがもたらすダイナミズムを減速させる。作者自身、自分のことを完璧に理解することはありえないんだし、自身のパラドクスや嘘や非論理性が作品に映し出されるのも必然だから、かえってすべてをコントロールしようとすると動き自体が止まっちゃうってこともあるんじゃないかな。よくわかんないけど。
しかし、この上下本、2日半で読み終えた。もちろん、外出したり仕事したりの合間に読んだわけで、読書にかかりっきりってわけじゃない。それで、1890円かける2、だから3780円。高いのか、安いのか。まあ、アタクシの場合、こっちの友人たちに貸し回しするから仏現地価格と比べて元は取れるわけだけど、でも高いなあ。ところで、値段も1984円にすればよかったのにね。
この小説はまだまだ続きがあるようですが、アタクシとしてはアオマメ・グリンピース女史が助かるに、75 000ドラクマかける。翌日追加:あるいは、アオマメは死ぬけどフカエリに同化して、純愛少年少女小説としての整合性を救い出すのかもしれない。続編は4月に発売だそうです(出版というより発売って言葉が似合ってるよね、この本)。
**
参照:猫屋の昔の記事 村上春樹《アフター・ダーク》
なお、上の写真は先だってのラ・デフォンス。霧が出て、摩天楼は雲の中。