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2012-03-29

コメント

midi

猫さまが本や著作家や映画などについて書いてらっしゃるのを読むと、あ、面白そうあたしも読んじゃお~と軽く考えてしまうので危険です(笑)。思えば大江も吉本もフーコーも、その著作は幾度となく手にしたけれど「冗談じゃありません」と数ページ繰っただけでポイしたものです。でもここでこんなふうに語られちゃうと、オバハンになったアタマでついていけるかどうかわからないけどまた読み直そうかな、という気持ちにさせてくれるので不思議です。

猫屋

どもども、
コメント欄はアタクシの設定が悪かったようで、御迷惑をおかけしました。直してみました。

大江も吉本も、特に読むのが難しいと感じたことはないんですが、なぜかというと分からないところはスットバスからだと思われます。「理解できない」ってのには理解できない理由があるはずで、また反面、大体において「理解」を求めない読書をアタクシやって来た気もします。

フーコーはわざとわからないように書いてたと思うんで、かえって対談とか外国の講演とか読むと理解しやすい。自慢じゃないけど、フーコーの本で読了したのは「知の考古学(日本語版)」だけかと思う。でも、フーコーの考える姿勢は多くの人に受け継がれてますから、ある意味、本読まなくても、充分われわれのバイオポリティックの一部となってると思う。
でも、フーコー・コレクションを読みやすいトコだけパラパラ眼を通すのは、訳文と言うハンデを差し引いても、いい経験になると思います。(仏語版の方が高いし)。

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