« 2005年4月3日 - 2005年4月9日 | メイン | 2005年4月17日 - 2005年4月23日 »
いくら来訪者の少ないハピー・フューな当ブログとはいえ、実際武道をやってらっしゃる方に 『何をおっしゃるウサギさん、そんなら私と一本勝負』 などとアポストロフ/荒々しく声をかけられたらどうしよう、という危惧はままあるのですが乗り出した船は止まらない。行って見ます。
*
さて、《形》と《自由》を逆さにしてみた。この入れ替わったふたつの言葉の間にで浮かび上がるのはたぶん《身体性/カラダとかイシキとかそれに絡まるすべてをまとめたもの》だろう。この段階ではなんとなくそんな気がするだけなのだが、ちょっとグルグルしてみる。
全日本剣道連盟 による剣道形の定義。
「日本剣道形」の制定 剣術は創生期から幾多の流派に分かれ、形も各流派によって異なっていました。大日本武徳会は、将来の剣道の普及・発展を図るためには各流派独自の形に基づいて、新たに基本となるべき共通の形を選定する必要性を認め、明治44年12月に調査委員会を発足させて、草案造りを進め、大正元年10月に太刀の形7 本、小太刀の形3本、合計10本の「大日本帝国剣道形」を制定しました。なお、第二次世界大戦後の本連盟発足に伴い、この形は名称を「日本剣道形」と改めて現在に至っています。
3月にあったパリ大会に私を連れて行ってくれた友人が言うには、形とは諸流派の形をあつめてあって剣道に必要な動きのすべてがこの10本の形の中におさまっておるのだそうだ。
ここで、一緒に行った普通(この場合剣道オタではないという意味)の仏人が、「なんで右足から最初に出さなきゃいけないわけ」とオブジェクションを出した。ま、いいところに気がついたねーといいたいところだがそうでもないようだ。竹刀の柄に近い部分をを握るのが右手であるから、どうしても右足が先に出ることになるらしい。練習では、左から出すのもやることはあるようだが、基本はあくまでも右足が先。
しかし、よく考えてみるとあのススっという足さばきは、能とかお茶とか地唄舞とか派生としての暗黒舞踊とか法事のときの坊さんの白足袋の動きとかを思い起こさせる。(専門家はまったく違う、とか言うのかしら、確信なし。)少なくともクラシック・バレーやフェンシングのばねを利かした上昇型足さばきではない。
以前、友人からカセットを借りて観た剣道関係NHKスペシャルでは《頭の中を真っ白にする》ことの重要性が語られていた。これはどのスポーツにも、ある程度は言えるんじゃあないか。ただ、格闘技やサッカーなどの体当たり式球技では“相手を倒す”アドレナリン増強が必要になるだろう。番組内で剣道世界選手権優勝者は《対戦者にではなく、自分に勝たねばならない》というのも言ってたな。
形のなかに自己=身体性全体を入れ込み、自己=身体性をいったん消去する。すると精神/コントロールするもの、と肉体/コントロールされるもの、の境目/あるいは境目と考えられていたものも消去する。あとは対戦者の動きを見る《まなざし》と身体性のもつオートマティズムが消去された《自己》に取って代わる。そこではある種の超越が行われる、とか言って見る。
自己を忘れて自由になる。これは魅力的だ。《形=自由=身体》といってもいいと思う。
精神≠肉体という西洋志向が行き詰ったことと、剣道をはじめとした武道が世界のいろいろな所でさかんになったことは平行した現象だと思える。いつかパリ-東京のフライトのバー(今はなくなった、残念)で話し込んだフランス男性は「柔道はただのスポーツになってしまった。やるなら剣道か合気道でしょう。」と邦人の俺にニッポン武道の素晴らしさをたんたんと話してくれた。
*
さて、今回の試論をもって回答編にかえさせていただきます。単なる武道傍観者であるnekoyanagi は自己採点できないし。チャンスがあったらまた剣道家に聞いてみましょう。その時点で追加報告レポートも書きます。なお、突っ込みがあったらどんどんどうぞよろしく。
と、内田教授が発信するリフレインにまた、感染してしまった。ソウブキップについで第二弾。いかにnekoyanagi が影響されやすい、まあ言い換えれば柔軟な耳感覚と脳機能を持っているかということなのだろう。自己弁護すれば、複数言語をどちらかと言うと耳で覚えたタイプの自分の耳機能・発音系は悪くないような気がする。反面(お気づきの方もあろうと思うが)スペル・アウトと固有名詞はまったくダメです。
♪シュガータウンは恋の街♪
このメロディラインは、パリ4月の絶望的悪天候と寒さに対する抵抗運動のテーマにいいかも、などと考えたら、ぞろぞろと“テイスト・オヴ・ハニー”だの、“1910フルーツガムカンパニー”だの“牛も知ってるカウシルズの雨に消えた初恋”だのが、千と千尋油屋に向かう妖怪変化♪ももんがー、とはっぴいエンドにまでいってしまう。これって春のアリエネーション?ありえねー。
通常はワードに書き出してコピ・ペースト、いい絵があったらそれと一緒にアップ。画面で見てから誤字等訂正という手順なんですが、typepad も投稿の仕方が変わった。今夜は初めて投稿ページに直接入力しています。テスト。WYSIWYG編集機能ってのも可能になったんだけど、HTMLすっかり忘れているし、あわわ状態。時間にゆとりがあるとき試してみる。
身近な《形と自由》について
たとえば、従来のウェブ・サイトとブログのちがい。nekoyanagi も何年か前サイト作ろうと 1. ドリームウィーヴァー+フォトショップ+フラッシュ+デジカメetc.を購入 2. ドットコムのドメイン購入 3. サーバーに年間仕切り賃支払い、までして結局自分のサイトは一年間ほっぽらかした経験がある。面倒くさかったのと、書くべきことが見つからなかったからだ。“窓から金を投げ捨てる”行為であった。2000年のITバブルをしっかり支えてしまっていたな。
その点ブログは簡単。5分であなたにもブログができる、というのは少々大袈裟だが、サイト構築には、たしかに《構築》と言い得るよーなアーキテクチャルなハイななにかがあって、なぜだかそのハイなところを越えられなかった。少なくともブログの低コストあるいはノーコスト性、キット/箱庭性と即時性があって初めて私のよーな口語人間でも字が書ける、という事態になるわけだ。結果として、とんでも発作発生も可能となるんで。放埓な形には放埓な酒が満たされる、かも知れない。
剣道形
このシリーズ一回目であげたパリ大会では剣道少年少女たちによる形披露もあった。木刀を使う中学・高校生たちがいっせいに形を見せてくれたのだが、なかなか面白い。八段師範マエストロたちの真剣を使ったピリピリした感覚はない。緊張しながらも、まだ育ちきっていない身体と精神のバランス具合と、各人の個性(と思う)がそのまま出ている形と思えた。それはそれで美しいし、感動的でさえある。形披露のまえには年少の子供たちの切り替えし披露もあったが、6・7歳の子供から八段師範の形にいたるまでが、《道》なのか。
*
これで次回はお答え編までいけるかもしれない。
日本・中国・韓国・日本で“言論の自由”とナショナリズムをめぐってかなり抹香臭い論争とイベントが続いています。Media@francophonieブログでは《中国の反日デモと日本》というタイトルでフランス語圏プレスからどれも興味深い三記事を翻訳してくれています。欧州プレスになれた自分には、どうも腰砕けの感がある日本プレスが扱え切れないナーヴァスな内容も、直接の利害関係がないところ発の報道がうまくカバーできる場合がある。
まったく関連はありませんが、イスラエル・パレスチナ問題をめぐってイスラエルとアラブ両サイドの知人から話を聞くと、同じ歴史、同じ土地について話してるとは信じられないほどに違いがあって驚く。最終的には、このふたつの見解を和解させるのは不可能だろうという考えを第三者の私は持ちました。(その意味で少なくともイスラエル・パレスティナ問題をめぐっては国連なり国際刑事裁判所なりの仲介なしには解決不可能だと思っています。)
今回の問題には、中国・韓国・日本の三国での教育と政治、そしてメディア問題が大きく関与している。米国ではダーウイン説を教えないというチョイスが高校にある、ようですが、“言論の自由”を妨げない国家が逆に大枠での“言論統制”という目的を達してしまう場合もある事実は指摘すべきだと思います。これは日本のネット界でナチスの行ったジェノサイドに関して現地ヨーロッパでは考えられないような歴史修正主義的歴史観が《自由》に伝播/電波していることとも関係してくる。冷戦終了後の東アジアで同時に過去を振り返っての動きが見られるのは偶然ではないでしょう。
ドイツのシュローダー首相が「ホロコーストはドイツの歴史の一部だ。」と発言しました。ドイツ国内での反論も多いとは思いますが、こう言い切ることができるのもひとつにはEUの存在があるし、また60周年をもって東西分裂を乗り切ったドイツがやっと終戦を終えた、第二次世界大戦から(責任は取りつつ)やっと自由になったということでしょう。もちろん、欧州はアジアに勝っていると言う心算はまったくないのですが、国民/国家の歴史とその分節/変換期に元首がその仕事をなし方向性を示すといういい例だと思います。
・さて、手元の岩波国語辞典で引いてみますと、《自由》の定義は他からの束縛を受けず、自分の思いのままにふるまえること。△思うままであることが重点のの場合(例、「どうぞ御自由に」)、拘束のないことが重点の場合(例、「言論の自由」)、他からの強制でなく自分の責任で行うことが重点の場合(例、「自由意志」)等がある。また資本主義体制化の自由をさすこともある。「自由世界」 以下略。。。とあります。
スイスはベルンの mari さんは、『十字軍にしろ イスラム戦士にしろ ユダヤ教徒にしろ たとえ善意の行為であっても「神がそれを望んでおられる」何ぞと言うのは具の骨頂、ニンゲンの傲慢勝手な解釈としか思えないので言い訳にカミサマを使うのは止めんしゃい。。。』 とまことに正論のTBを昨夜のエントリにつけてくださいました。
たしかに、ある言論の絶対化を目的に神を持ってくるってのはよくあるパターンですね。経済では未だに『見えない神の手』が幅を利かしていますが、これもなー。眉唾、眉唾。たしかに、モラル/倫理欠乏症の21世紀ですから、宗教に帰りたい/ナショナリスムに帰りたいという帰依の発露はむべなるかな、なんですがいったいそれで物は解決するのか、と問えば答えはノー。国内をひとつにまとめるのに外部に敵を想定するというテクも失敗する時点でかなり悲惨な結果を招きえるし、他宗教を信ずる外部全体を排除することで、排除されるのは結局自己というカルマ/業が回ってくるですねえ。
自由と言えば思い出すのは70年代に聞いたジャニス・ジョプリンの歌《Me And Bobby McGee》 の『Freedom's just another word for nothin' left to lose』 というフレーズです。このテーマは確かディランも歌ってたかと思う。まあ、70年代の子供の感性だと言ってしまえばそれまでなんですが、これが私にとっての自由定義のベースメントになってるようです。(←世代論のようなもの) その子供が、2000年代には権利と義務なんて話をするわけで、ちょっと感慨は深かったりしますが、、まったき自由を生きようと世界に出る子供がドンと出会うのが権利・義務なんですね。自己の自由を守るにはそれにともなう権利と義務を認知できなきゃいけない。相手が国家であってもこの自己の自由を守る権利はある、これは憲法が保障するところです。もちろん環境、たとえばアフリカの飢餓地区できれいな水を飲めない子供の環境というキツイ状況があります。人間は状況から自由ではない、これは選択の自由をトレードマークにしたサルトルも晩年には認めていたようですが、基本人権を広げる活動も自由・権利・義務の範囲に入ると考えてもいい。ただ、この活動が一定の団体によって行われる時、どうしても内部利害が発生しますから、それのチャックアップ機構も必要となってくる。
また散漫化してきたのでここいらで切り上げますが、今回やってみた言葉一つ一つが持っている意味の再確認/チェックアップは有益だと思います。なぜなら言葉の意味自体が本来固定化してないことと、以前のように一国家内でほとんどすべてが片付いていた時代は終わってしまって、インターネットを始めとしたメディアが発達して、同時に流通する情報量が膨大ですから、トラフィック量の増大にともなって、どうしても最小限度の管理が必要となるのはやむをえない。だがその管理のしかた、あるいは管理責任の放棄が大きな結果を及ぼす可能性がある、と考えられるからです。コミュニケーションを成立させるためには、基盤となる語彙レベルでの共通概念が必要ですが、現在の東アジアにおける地鳴りを聞くと、なにやらそういった語彙レベルでの、同時にそれ以前のコミュニケーション意志レベルでの欠落が大きいな、という感がします。
*
あしたこそ、ゼッタイに《形》のはなしに入るぞ。
参考:余丁町散人の隠居小屋 - Blog からル・モンド、エディトリアル 《Tentions Chine-Japon/日中間の緊張》
ね式
《形と自由》宿題編 《形と自由》とんでもないところに話はいってしまう編
さて、昨夜は某所で花見会があったのだが、あまりの気温の低さに暖炉を囲んでの飲み会になってしまった。その某花見流れ酒飲み会に来ていた仏人剣士に《形と自由》の関係を定義しろ、という難問をぶつけてみた。日本刀を何ふりか所有するほどの剣道オタの彼が言うには、『自由とは、自分が自己に科した目的に到達した時に感じる開放感/感情、である。』 また『規範のないところに自由はない。規範のない自由は単なるアナルシー/無政府状態である。』 と言っていた。前回エントリにコメント欄で答えてくれた、スイスのmari さんの『「形」あってこその自由ではないかとわたくし何ぞは思うのですが、どうなんでしょう? 制約のない自由はじゆうでなく、放埓とかそんなもんではないかと。』 とも通じます。なんか、皆さん賢いなあ。
さて、私自身の自由の定義は拘束のないこと、なんですねえ。いかにnekoyanagi がエゴイストであるか分ってしまうのだが、解説してみれば、フランス革命以前の社会は階級制度下、生まれによって人間の地位は決まっていたですね。王や聖教者が市民/ブルジョワや農民を上から押さえる形で統治、結果構造上部腐敗が進み耐え難い生活難から貧乏人/市民が立ち上がる、王族・聖教者をギロチンに掛けまくり(やりすぎたですが)特権階級の消滅を宣言したのがフランス革命でありますが、ここで自由とは(階級社会の)拘束のない状態、と言う概念が出来上がる。(ま、これはね式仏革命解釈で違った読みもできるでしょう)
前のエントリで扱いましたが《自由》を、所有する自由と見るのが資本主義です。ケインズ(恥!)アダム・スミスが言ってる《神の手》とかってここからのデリヴァティフ/派生と思います。すなわち、自然界においては結局強者が生き残るが、これって神の選択だ、となる。この線を極端に強調してるのが現行米政権ですね。(所有する)自由を妨げるものは悪であり、また強者は常に正しいのであるから、強者である米国は弱者である他の国々を正しい道に導くことができるし、またそれが強者/米国のの使命でもある。
まあ、私が自分で書いた文章ですから、その誤謬を指摘するのは簡単です(^^)。弱肉強食論のベースにあるのはダーウインの一解釈であって、自然界で生き残った“強者”ってのは単に各時点での環境に適応してたからで、別に強いとか弱いとかの絶対的なもんではない。おまけに実際の自然界を見れば分りますが、自然の生命構成単位である種はきわめて多様なんで、本当に弱肉強食であれば最も強い種だけ生き残るはずが、そうはなっていない。まあ、その生物・植物界の多様性も人間と言う種が生み出した《文明》のせいでかなり脅かされているのが現実です。自然界の最強者/人間が自然を破壊しつくす、としたらこれはもう《神の誤算》なのかあるいは《神》はいなかった、ということになりますが、これは余談。
また、所有する自由があるとしたら、所有しない自由もあっていいはずだ。ところがないんですねえ。nekoyanagi はなんも所有してませんが、これは望んで所有してないのではない。所有する自由と、所有できない運命というべきか。昔、藤原新也が「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」と写真にコメントをつけましたが、結局そういうことになる。たとえばアフリカで濁った水を飲んで死んでいく子供は、濁った水を飲む自由があることになる。
話を(少しだけ)戻します。ここで《法》の概念が出てくる。もちろん、残念ながら自分は法専門家でも何でもありませんから、ね式《法》です、ゴメンナサイ。ここに一個の《物》がある。そしてその《物》をめぐって二者がその所有権を主張する場合、話し合いで解決するか、殴り合いで解決するか、あるいは《法》に従って解決するかという選択肢が出てきます。(ああ、なんとなく出口が見えてきたような、ふふ) ある意味、こういったコンフリ/紛争は、ふたつの自由のせめぎあい、といった様相を帯びる。複数の自由が競合する時介入するのが《法》であり、この《法》をお約束/フォンダメンタルにして成立する国家が法国家。
ということで、今夜はもう遅いし、法/ダルマは形であるというオチ。この宿題の回答編
にたどり着くのはまだまだ先になりそうです。
投稿情報: 2005-04-11 カテゴリー: Economics/経済, Japon | 個別ページ | コメント (0)