今日のル・モンド紙から。週中の同紙はまったくつまらなくなって、訳したい記事がどんどん少なくなってるのですが、週末ル・モンド2にはなぜか(たぶん編集チームが違うし、読者数・見張り陣も少ないからだと思いますが)面白い記事がある。ほかにも、コーエン教授への長いインタヴューなどいろいろあるんだけど訳す時間なしなんで貼っときます。ついでに書けば、ヌーベロプスも新編集長オリヴェンヌ(元フナック社長でカルラの短期ボーイフレンドだった)が書くようになってからまったく毒が抜かれてしまった。郊外中古車販売会社雇われ社長のお計らいでしょう、リベは若年用新聞、オプスはカルチャー専門誌、ル・モンドはオピニオン紙ではなく単なる仏広報紙になった感がある:残るは、カナール・アンシェネとブログばかりなり。
De quel réel cette crise est-elle le spectacle ?, par Alain Badiou
いったいどんな現実のゆえ、この危機はスペクタクルなのか?アラン・バデュー
ル・モンド 2008年10月17日 オピニオン欄
私たちに提示されている世界金融危機は、現在『シネマ』と呼ばれるヒット作製造工場が次々にひねり出すフォーマットされたできの悪い映画に似ている。人々を恐怖に陥れる新たな展開まで含めたすべてが揃っている:暗い金曜日回避は不可能だ、すべてが崩れていく、すべてが崩壊するだろう。。。
しかしながら、希望は残っている。画面上では、恐怖映画でのように荒々しく興奮した、サルコジ・ポールソン・メルケル・ブラウンそしてトリシェなどの権力の小歩兵団、金融炎上消防隊が、中央にあいた大穴に何兆という金額を放り込んでいる。『銀行を救うのだ ! 』 この民主主義的で人間的な高貴の叫びは、政治家たちとメディア人すべての胸からほとばしる。この映画のダイレクトな役者、つまり金持ちと、それらの召使、それらのパラサイト人、それらに焦がれるもの、追従者たちにとって、私はそう信じるし、そう感じもするのだが、現在彼らがそう(訳注;金持ち・召使・追従者etc.)であり、世界と政治がこうやって軍事展開するからには、必ずハッピー・エンドで終わるのだ。
むしろ、振り返ってこのショー(原文:show)の観客たちを見てみよう。呆然とした群集は、銀行が追い詰められ、獲物が捕らえられたことを知らせる角笛を、遠くの喧騒のごとくに聴いている。政権の長たちからなる輝かしい小隊の、激務のウィーク・エンドを推察している。膨大で理解しがたい数字が移動するのを眺めている。そして彼らは、機械的に自分の財源と比較する。あるいはさらに、人類全体のうちの大きな部分にとっては、単なる財源の不在が、彼らの人生の苦く、勇気ある基盤を同時になしている。私には、これこそ現実なのだ。そして私たちは、(サルコジがメルケルに接吻し、誰もが喜びで泣く)甘ったるい大団円を含めたスペクタクル画面から眼をそらすことで、彼らにアクセスし、彼らにとってはすべてが影絵芝居でしかない見えざる群集を考慮することになる。
『現実の経済』(資産の生産)がこの何週間か多く語られた。これに対して、エージェントたちが『無責任』で『非理性的』でさらには『略奪者(原文:prédateurs)』になったのであるからには、非現実経済(スペキュレーション)がすべての悪の根源であと言う。この識別は明らかにばかげている。金融資本主義はこの5世紀以来一般資本主義の中枢をなしている。このシステムの所有者とその推進者(訳注;あるいはその音頭とり)に関していえば、定義からして、彼らの『責任』は利益であり、彼らの『理性』はゲインに比例し、彼らは『略奪者』となったのではなくて、そうなるべき義務があったのだ。したがって、資本主義生産の売り場階、あるいはスペキュレーション部門以外の倉庫に『現実』があるわけではない。現実への帰還は、『非理論的』悪なるスペキュレーションから聖なる生産への動き以外にはないだろう。それは、地上に生きるすべての人々の即時のそして熟考された生への帰還である。この点から、このところ私たちに強要されている恐怖映画をも含む資本主義を、気弱にならず観察することができる。現実とはこの映画ではなく、それは映画上映室なのだ。
こうして、回り戻って(détourné)、あるいは振り返って(retourné)何が見えるのだろうか?人が、見ると呼ばれるところの、そこに見るのは、大昔から知られた単純な事柄だ:資本主義とはある山賊行為でしかなく、その本質において非理性的でそのポテンシャル(devenir)において荒廃を招くものなのだ。それは、何十年かの短く野蛮に不均衡な繁栄の見返りとして、宇宙的規模の価値が消え去る危機、政略的あるいは脅威と判断する地域への刑罰的で悲惨な遠征、そしてそれが健康を取り戻す世界戦争、を支払わせる。
こうして再び鑑賞した危機映画に、その教育学的権威をゆだねよう。それに見入っている人々の生を目前にして、共同体生命の組織化を、もっとも低俗な衝動、貪欲、対抗意識、無意識のエゴイスムに還元してしまうシステムを、なおあつかましくも讃えることができるのだろうか?『民主主義』をほめたたえる時、統治者たちは私的金融横領の決して罰せられることのない従僕であって、すでに160年前、政権は『資本の正式代表者』だと形容したマルクス自身をさえ驚かすだろう。『セキュ(仏国民健康保険)』の赤字は埋められないと公言しながら、銀行の赤字は総金額を数えもせずに埋められるものだろうか?
薄暗い映像全体から、この出来事において人が望めるただひとつの事柄とは、この啓蒙権力が、銀行でも、それに仕える政権でも、政権に仕えるプレスでもなく、人々が汲みだした教えに自らを見出すことだ。
この現実への帰還を、私は二つの分節レベルで見る。第一に、これは明確に政治的である。この映画が示すように『民主主義』の盲目的崇拝は、銀行に仕えるの早急な使徒でしかない。その真なる名、そのテクニカルな名は、私がかなり前から提唱する:資本的-議会主義である。したがって、この20年以来の多くの経験は実体化するのであって、本質から異なった政治を組織することだ。
彼女(ある政治)はおそらく、これまでの長い間そしてこれからも、国家権力からかなりの距離を取るだろうことは疑えないが、これは重要ではない。彼女は、現実ギリギリのレベルに、今すぐ創出する準備のある人々:アフリカやその他の地から最近やってきたプロレタリアと、この何十年かの政治闘争の継承者である知識人たちによって具体的に始まる。彼女は、彼女自身が、ひとつひとつ創り出す事象に沿って拡大するだろう。彼女は、組織的ないかなる関係をも、既存する政党とも、システムとも、選挙制そして各制度とも、持たないであろう。彼女は、何も所有しない人々の、新しい規律を、その政治的可能性を、彼らの勝利となるだろう新しい思想を創出するだろう。
第2レベルは思想だ。『思想の終焉』に我々がいるとする古臭い評決を覆す必要がある。今日、私たちにとって、このいわゆる終焉は、『銀行救済』という命令以外の何物でもない。思想へのパッションを再び見出し、世界的な一般予想に反して事象のまったく異なった様相を予見するという確信以外に、重要な事項はない。資本主義の害あるスペクタクルに、私たちは人々の現実を、思想自体の運動内にあったすべての人々の存在的現実を、対極に据える。人間の解放という主題はなんらその力を失っていない。
しかし今日において、思想の消滅は、オーダーへの支持者、恐怖映画の出演者のためにしかならない。私たちは、思想をその新しい息吹とともに再生させる。マルクスがコミニュスムについて『伝統的思想ともっともラディカルなやり方でに決別する』と言い、また『すべての人々の自由な開発条件の集合』を呼び出す時、それは同時に古代の美徳を掲げる。
資本-議会主義との全的決別、人々の現実レベルでの政治創造、イデーの主権:危機の映画から私たちを切り離し、活性化したイデーと組織化されたアクションとの融和に私たちを送り返すべてがここにある。
アラン・バデュー:哲学者、小説家、出版者。
試訳後メモ:いくらマル系とはいえノルマルシュップの先生の文は構文解体が難しい。間違いだらけ(自覚あり)のはずですが訂正はアタマが冷えた頃に再トライします。なお二ール・ヤングのこれを聞きながら作業してました。
なんとなくメモ:バデューの“哲学”思想に対する異論はあるにしろ、だいたい彼が“哲学者”であるのかどうかもアタクシ(たんなる風来坊)にとってたいした意味はない。この時代に、考えたり、語ったり、その手でなにか作ったりする人物がいれば、その声を、その音を、その作り出した物の前でたまたま立ち止まり、時としてアタクシは何かを受け取る:それらの、言葉や音や物が、アタクシに「では、おまえはどうなんだ」と問いかけるわけだ。そんな風にして時代が変わって行く(none is the number...)。
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参考:ダニエル・コーエン経済学教授へのインタヴュー(全5ページ)です。
危機:ある資本主義腐敗への裁判
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こちらは翌日土曜のル・モンドから。カナダ出の異色経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの1990年に出版された本から最終章全部が掲載されています。まだ読んでないけど面白そ
う。《遅かれ早かれ、あほどもは自分たちの金と別れるのだ》---ってな感じかな、このタイトル。なお、右の本は該当記事本とは別物なり。
LE MONDE | 18.10.08
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これも。あのボードリアールに近しいアーバニスト、ポール・ヴィリリオのインタヴューです:読まなくちゃね。現行の暴落は完全版アクシデントを見事にあらわしている、ってなるかなこのタイトル、意味分からん。あー、厳密言語を道具に使う哲学・思想系職業人の言葉はあぶなっかしくて素人には訳しづらいのでありますが、最終部をコピーします。
あなたはカオスを信じますか?
金融システムを動揺させたあと、暴落は共同体の最終保障である国家を動揺させるリスクがある。国家は今のところ安心させようとしている。けれど株価が下がり続ければ、次は国家が破綻する番で、国家をカオスに陥れようとしている。これは私のカタストロフ主義ではない。最悪を、カオスを、私は信じないし、それはばかげた知識人のおごりでしかないのだが、それにしても考えざるをえない。この絶対的恐怖に対して、私は絶対的希望を対峙させる。チャーチルは、オプティミストとは災禍のたびにチャンスを見出す人間のことだと言っている。