今回はパリでの展覧会の紹介ではなく、単なるアタクシ個人の印象だけメモします。
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パリ中心部で2時間ほどの時間が空いたので今月17日から始まったTitien, Tintoret, Véronèse... Rivalités à Venise 特別展にふらっと行ってみた。これは来年1月4日までやってる。ネットにあるpdf資料もちゃんと読んで、時間的にも体力的にも余裕のある時行くつもりだったんだけど、ルーヴルの横を歩いてたらなんとしても ティツィアーノの絵が見たくなったんだ。
11時過ぎのルーヴルはもうかなりな人で、会場にたどりつくまでに30分経過、入り口では入場者数制限していてそこでまた10分ほど待った。だから実際に絵を見ていた時間は1時間ちょっとという計算になる。
テーマごとに、ティツィアーノ(1490 - 1576)、ティントレット(1518 - 1576)、ヴェロネーゼ(1518 - 1594)のヴェニスの3人の画家がいかに互いに影響を与えていたか、テーマごとにそれぞれの絵画を並べるという企画(以外の画家の作品もあるのだが)。
ちゃんと見たら少なくとも3時間はかかるだろう。
たとえば埋葬されようとするキリストを描いた作品群では、どう見てもティティアーノの絵がぬきんでている。マスとしての重い男の裸体、それを包む布、人々のそれぞれの表情としぐさのコントラスト、陰になっている男の顔。。。これはたしかルーヴル所有の作だから何回も見ているはずなんだけれど、そのたびに、この絵画がこちらに送ってくる力に動かされる。比喩としてではなく、具体としての身体が反応するんだ。
こうなると(いや、もちろんこれは単なるアタクシの好みの話なのだが)ティツィアーノのメジャー作以外は多くの場合ティツィアーノの偉大を証明するために展示されてるような気にさえなる。
アタクシが最初にヴェニスに行った折には、ティントレットの作の明解さを気に入った記憶があるんだけど、それはたぶん分かりやすさのせいだったのか。ティントレットの作品の演劇性に惹かれたんだろう。時としては、捻じ曲がった緑がかった身体はエル・グレコの絵画を思わせる。
ヴェロネーゼは極めて計算されたドラマチックな画面構成がその本領だ。「カナの婚姻(ルーヴル常設展)」がその典型的成功作だろう。また、男性裸体の筋肉の描き込みが“異形”=グロテスクすれすれの作品があった。
だが、ティツィアーノにもそういった計算や構図や過剰ももちろんあるのだが、それを超えた“なにか”があって、それが彼の作品をとんでもなく遠い場所まで持っていく。たぶん、それは彼の眼の力なのだと思う。フランドル出身の作家ヴァン・ダイク(1599 - 1641)もそういった眼を持っていた。
今回の展覧会に出品されている晩年のティツィアーノ自画像の眼である。
これを、たとえば目の前の人間の内的世界を洞察する力、平たく言えば分析的能力に彼は長けていたと言ってしまうこともできるのだろうが、それでは答えになっていないと思う。
もうちょっと時間をかけて考えてみよう。今の時点では「ティツィアーノの謎」でくくっておくことにする。
時間的余裕ができたところで、もういちど当展に行き、考えを進めてみたい。
あと、ここのところの興味の中心、初期イタリア・ルネサンスにも通じるのだけれど西欧絵画での「裸体」の持つ意味合いへの疑問もどんどん大きくなっている。これって西洋文化のひとつのキーポイントなんだろう。自然=理想=身体と、そこからはみ出してしまう意味。
なんだか、頭の中がよく動いてなくて、文章のキレも悪いなあ。。。しばらく日本語書いてなかったせもあるかもね。
でも、こんな頭脳にもティツィアーノの絵はガンガン響いた。彼の“才能”は明白としてもそれだけでは説明できない何か、むりやり言葉にすれば、たとえば画家の“誠実”といえるような、そんな何かがティツィアーノの絵にはあるんだ。
過去ログ:ティツィアーノ展 - パリ・リュクソンブール美術館
ル・モンド関連記事(マカロニ・ウエスタンになぞらえているよ):Il était une fois à Venise... Titien, Tintoret et Véronèse
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