まず、偶然ルーヴルで見た「天の扉」特別展でのadoration のエジプト・ポーズ(両手を挙げて対象をあがめるわけだけど、かがんだり頭をたれたりはしない)と、イシスが赤子のホルスを膝の上に抱き上げている像があった。
アドラシオンとはラテン語語源の仏語動詞adorer の名詞形で、これはラテン語でもイタリア語でもadorare となる。意味は「聖なるものを崇める(アガメル)」であるね。ただ、これにあたる日本語訳は、辞書やウィキで調べてみたけど各宗教別にいろいろあってメンドクサイ。右に挙げた「天の扉」展での作品に描かれた女性の動作がまさにadorare 。また、イシスとホルスの像がマリアと幼いイエスの母子像の起源じゃないか、という説があるともどこかで読んだ。
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それから、プティ・パレでアトス山の秘蔵展を見に行った。目的はイコンである。だが、わかったのはイコンと言うのは変わらない、つまりスタティックであるからこそイコンなのだと言うことだった。
展示されている絵画・像・彫金は、たしかにすばらしいがフランス語でいえばfigé、つまり固まっている。これは聖者たちのポーズばかりではなくて、そこに描かれている数々の物品や色やなんかはそれぞれ決まった意味合いを持っていて、つまり象徴なんだけど、“聖書”が教えるその枠からはみ出してはいけないというその規律が、あのスタティックさになってるんだと思う。これは東方教会の偶像崇拝をめぐる制約からくるんだろう(欧州内やロシア、中近東にも見られるイコンが、時代的あるいは地理的距離にもかかわらず、同じような外見を有しているのも同様かと想像できる)。意外だったのはいくつかの聖書だ。あれは古代ギリシャ語なのか。パピルスに記されたエジプトの「死者の書」と同様な力とエレガンスが、手書きの聖書の、私には読めない文字にこもっていた。
キリストを含めた聖人たちの肌は、西ヨーロッパ宗教絵画で見慣れた白い肌色ではなく、時としては緑に近い土色で描かれている。パレスチナのユダヤ人であったキリストとその使途たちの姿としてはこの方が“事実”に近い。
4世紀頃から修道僧が住み着いたというマケドニアのアトス山に現在20ある大小の修道院は、厳しい戒律と周囲の厳しい自然のおかげで、今も8世紀の創立当時とさして変わらない様相を保ち、昔同様の宗教生活を送っているわけだ(なお、あそこの修道院はビザンチン以来それぞれの自治を保っている)。
言い換えてみれば、10何世紀を超える期間にマケドニアを取り巻いた戦争や教会分裂や迫害や侵略とか、それから近年のギリシャ観光化とかの歴史的変動にもかかわらず、アトス山修道僧たちが今も当時と同じ生活を続け同じ信仰を保っているのも、この規律のおかげなんであって、結果イコンがスタティックなのは当然なんだ。
それに、あくまで宗教的理由で描かれたイコンを、移動不可であるフレスコを含む修道院自体やそれを取り巻く自然から切り離して、美術館で鑑賞するという作法自体にも問題ありなのだ。祈祷の対象を“単なる”美術品として観察してしまうわれわれは、ある意味ではまったくもって非常識なのだと考えることもできる。
まあ、そこいらへんのところは、「じゃあ、ピラミッドから発掘された埋蔵品は美術館にあってもOKなのか?」とかの疑問に行き着くわけで難しい。これはまたいつか考えてみよう。。。
美術系ブログleaule の当展批評記事:Le Mont Athos et l’Empire byzantin
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その後のある夜、アトス山のイコンのことを考えていたら息が詰まりそうになって、《もっと自由を!》 と、ルネッサンス初期の絵が見たくなった。パドーヴァにあるジオットのフレスコを無性に見たくなって、行き方とか調べたが、あいにくちょっと遠い。それで翌日ルーヴルに行こうと思いついたんだが、案の定火曜日でルーヴルは休み。それで、変わりに、と言っては申し訳ないが、リュクソンブール美術館で開催されてるリッピ親子の絵を見に行くことにした。Filippo et Filippino Lippi:
La Renaissance à Prato
展覧会は「フィリッポ・リッピとその息子フィリピーノ・リッピ:プラートのルネッサンス」とタイトルがつけられてるけど、実際にはフィリピーノの作品は少ない(パリの市バスに広告つけて宣伝するほどの展覧会じゃない;会場は狭いし入場料は12ユーロと高い)。
それでも、右に貼った父リッピの描いた、マンガチックに不思議な“聖母と包まれた児”、それと“ベルトをした聖母像”など何枚かの父リッピとフラ・ディアモンテの手になる大作をいくつか見ることができたので、よしとする。
孤児だったフィリッポは修道院で育てられ、やがて15歳の時修道僧となるわけだが、絵画の才とともに風来坊の才(!)にも長けていて、25歳で修道院を去り奔放な生活を送ったらしく、仕事の教会絵画修復をめぐって同僚とけんかになり、結果、牢屋に送られ拷問まで受けたという話もある。本人46歳の時点でリッピはモデルだった“未成年の”修道女ルクレツィア・ブーティを誘惑し、彼女をひっさらい自宅に連れ去る。もちろんこれは大罪でありますが、リッピを評価していたフィレン
ツェの大メセナであるコジモ・デ・メジチはヴァチカンに出向き教皇ピウス2世にリッピとルクレツィアの無罪放免を嘆願し、めでたく2人は放免され正式の夫婦となります(このとき画家は52歳でルクレツィアはまだ20歳になってなかったそうだ)。この2人の間に息子フィリッピーノ・リッピ、それから娘のアレッサンドラが生まれる。
アネクドットが長くなってしまいましたが、肝心なのはリッピの描く聖母と子の自然さ、静寂・愛くるしさは、ルクレツィアと幼いフィリピーノがモデルだったからだと言われていることです。リッピはイコンとしてのマリアと幼いイエスの像に、生きた人間の命を吹き込んだわけだ。上に張った聖母子像では、悲しそうな表情をしたマリアに比べ、布に巻かれた赤ん坊は大変生き生きと描かれていおりまして、これは彼が自分のスタイルを確立する前のリッピ初期作品のようですが、それにしてもすでに、ビザンチンの影響の強かった宗教画の、コチコチに描かれた表情からは遠い。アタクシの記憶にはないんですが、布に巻かれた幼子として描かれた聖児というのは他にもあったんだろうか。
やがて、父リッピの弟子であり、息子リッピの師匠になったポッティチェッリは、さらに宗教という枠から離れ、フィレンツェ美人群の優雅と動きを描きあげるわけです。ダヴィンチも遠くない。
なお右はリッピおじさん自画像:愛嬌ありますね。
フラ・リッピ、あるいはポッティチェリが描くような繊細な金髪美人は、今でもトスカーナに行くとときどき見かけることができます。
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で、ルーヴルにも行ってきました。
観光シーズンでありまして、初期イタリアン・ルネッサンス展示場はモナリザの置かれたチンクチェント展示場への通り道と化し、熱気と人ごみで東京駅コンコースみたいな雰囲気。ここでは、もう一度リッピ親子の作品とポッティチェリ、それから今回は16世紀のヴェロネーゼの大作「カナの婚礼」を丁寧に見て、モナリザはパスだが廊下展示の他のダ・ヴィンチ作も確認してきた。
自分の傾向と言うか、好き嫌いが自分なりに分かってきて、これはこれで面白い。ラファエロはきれいだけどあまり興味がわかないし、ルーヴルにはないダイナミックなミケランジェロもダヴィデ像以外はあんまり関心しない。その点、ダヴィンチにはなにやら(ダヴィンチ・コードとは無関係に)謎めいたものがあって、これはダヴィンチの底の知れない好奇心が渦巻きして、こちらの好奇心をくすぐるわけだ。カルバッジオのリアリズムやマニエリスムもケレンが過ぎて好きになれない(ティツィアーノとヴェロネーゼについては、この秋のルーヴル特別展を機会に再度考察してみるつもりです)。
マニエリスムよりは、イタリア・ルネッサンスと同時期に発展した初期フランドル絵画や、ボッシュやブリューゲル、あるいはドイツのデューラーやクラナッハに魅力を感じてしまう。
こうやって見てきて、歴史オンチ+数字=つまり年代オンチのアタクシにも、それなりになんとなくルネッサンスの表わすものが分かりかけてきたように思います。
個人的感覚ではイタリア・ルネッサンスはジオットに始まったと考えるわけですが、やはりパドヴァに行って確かめたいし、何回か行ったフィレンツェでも建築とドナッテロの彫刻は歴史的な注意なしで見てただけなので、もう一度行きたい。プラートにも行きたい。
あと、イタリア・ルネッサンスとホボ同期に盛んになった初期フランドル絵画も、イタリア・ルネッサンスとのかかわりを考えながら、もう一度見直したいなどと思うのでありました。ドラペ(衣の襞の描き方)や背景に描かれる自然などは、ヴァン・アイク兄弟やヴァン・デル・ウェイデンの影響でしょう。油絵が始まったのも北です。北の光と南の光の出会いです。
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ル・モンド紙に、漫画アステリックスに絡めたゴーロワの地、つまりゴール/ガリアの起源についての夏季特集があるんですが、そのひとつである《Le sang et le vin》 に、ギリシャの哲学者Posidonios d'Apamée / ポセイドニオスが紀元前100年頃にゴールを訪れたエピソードが挙げられている。
記事自体も、ローマ人やギリシャ人たちと違ってゴーロワたちは赤ワインを好んだんだが、これは当時南からの“輸入”物で高価な血の色に近い赤ワインを、宗教的理由から飲酒したんじゃないかという仮定を立てています。キリストさん生誕以前の話。
どうも話がすっきり進まないんですが、歴史オンチに地理オンチ(簡単に言えば無学な)アタクシでさえ、実にあたりを見回してみると、世界は狭い。いや、世界は狭かった。あるいは人間というのは極めて、と書いてこのあとぴったりくる形容詞が見つからないのだけど、マメというか好奇心が強いというか、我慢強いというか(強欲もあっただろうが)飛行機も列車も、たいした船も、あるいは馬さえなくてもとんでもないところまで出かけて行った。
また、どうしても国家単位で歴史を考えてしまう癖が私たちにはあるのですが、近代国家なんて極めて最近できたものだし、これは地中海沿岸地図を見てみれば(アタクシ以外の方々は見なくても)、たとえばイタリアとギリシャとエジプトとパレスチナとトルコとペルシャなんて、ご近所みたいなものなんだ、と分かる。右の地図はローマ帝国最盛期(4世紀ごろ)のものです。
アトス山の伝説では、聖マリアは航海中に難破してアトス山に流れ着いた。マリアは山の美しさに打たれ、ここを聖なる山と決め、修道院が作られていったことになっています。ふーむ。比べてはいけないんですが、日本にキリストがやって来てたという説よりは、距離的に考えても可能性は高い気もする。
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とりとめのない文章になってしまいましたが、それは、7月はじめに書き始めて以来、アタクシ自身の心持ちや興味や調べた事柄が、途方もなくフワフワ放浪してたせいでありまして、不完全ながらメモということでこのままアップしておきます。
なお、renaissance の日本語表示はルネッサンスといたしました。再生、あるいは再誕生が直訳であるフランス語renaissance という言葉を歴史的意味合いで最初に使ったのはミシュレだそうで、つまりフランス語源。で、フランス語的に発音すればカタカナで書くとルネッサンスがいちばん近いのでこうしました。