この土曜日の午後は、ネットでイラン動向の情報を探しながらブログ用記事を書き足していたのだった。何回かtwittyマップのHTML貼り付けにトライしたんだがうまく行かないのであきらめて、テヘランにいるロバート・フィスクのインディペンデント記事や、各国メディアの反応を読みながら、テヘランやシラッズ発のtwittyマップ・リストを追っていたら、あの短いヴィデオ2本ををリンクしたfacebook ページに行き当たった。「事件」から2・3時間たった頃だと思う。
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彼女はスリムのジーンズにスニーカーをはいた、世界中のどの大都会にでも見つかりそうな、ちょっとクールにかっこいい女の子である。彼女の眼は、彼女に向けられた携帯電話を見つめている。やがて彼女の大きな瞳から光が消えていく。
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その2本の短いヴィデオをそれぞれ2回見てから、ヴィデオが撮られたバックグラウンドについてかなり必死で探してみた。ネダ(Neda Solton)が彼女の名前らしいことを知ったが、それ以上はっきりした“事実”は分からなかった。
イラン国内で起こっていること、あるいはイランを取り巻く諸国(イラク・イスラエル・エジプト・トルコ、そしてもちろん欧州と米国)との関係も、複雑すぎ、あるいは矛盾していて把握しきれない。
それで、書きかけていたブログ記事もオハコにした:混乱しすぎで何も書けやしないのだ。混乱しているのは“世界”なのだろうか、“私”なのだろうか。
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何年か前に、パレスティナでの市街戦に巻き込まれた親子の映像がニュースで放映され、問題になった。撮影したのはたしかfrance2のジャーナリストだったはずだ。
イラク戦では米軍による夜間爆撃の赤外線標準映像がショッキングだった。
ネダの映像を(それが現実とした場合)、これが今ここで起こっていることだと、多くの人に知ってほしいと願う状況は理解できる。だが、それに反応しテヘランからは遠い地で「独裁者に死を」と叫ぶ気にはなれないし、それが現地の状況をさらに悪化させることはあっても、現地の住民たちへの助けにはならないと思えるんだ。
イランの人々は普通に日々の生活を送りたいだけなのだ。イランの映画や小説を見れば、あるいはこちらのプレスに紹介される(非合法に集められた)人々の証言を読めば、彼らは彼らに見合うだけの政治組織と自由を要求しているに過ぎない、と思えるのだ。
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今一度、ソンタグが書いた「他者の苦痛へのまなざし」という本のことを想起している。
どこかで、私たちと同じような一人の人間が、突然の不条理な死を迎える。それを望むか望まないかとは無関係に、私たちはその不条理な死の目撃者となる。
そしてそれを言語化するには距離が足りなさ過ぎるし、ポール・ヴィリリオの言うとおり出来事の連続はどんどん加速する。
そんな時代に私たちは生きている。
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ル・モンド関連記事:Neda, une histoire qui synthétise la complexité du conflit
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