もう一ヶ月近くも、文章をほぼまったく書かなかった。ああ、仏文での事務的手紙は何本か書いたか。ブログも書く気にはなれなかった。
しかし何たる時代だ。これからやってくる津波の大きさが測れない。いったいどのぐらいの間息を詰めて潜ればいいのか分からない。
malaise という言葉があってマレーズと読むんだけれど; 辞書で見たら日本語では、1)不調、めまい 2)違和感 3)不安、危機感 とある。まさに、これである。
金融危機が経済危機に移行し、これからは社会危機に姿を変えようとしている。ボンベイで起きたテロも、バンコクでの大衆政治運動も、ソマリア沖の海賊活動も、ギリシャでの破壊行為も、ガザでの不法入居者の抵抗も、背景にあるのは生活苦と未来への展望のなさ、そして政治の無能さに対する人々の怒りだ。
今日のル・モンドでは、日本で最近多くなったという年長者による犯罪について書いている。タイトルは『彼らは刑務所に戻るために盗む』。
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いつか、日本のニュースで84歳になる女性がたんすの取っ手に紐を結びつけて縊死したという記事も読んだ。女性は夫と暮らしていたという。上にあげたさまざまな世界の動きと、日本から聞こえてくる悲痛なニュースを、私は区別して受け止めることができない。
ル・モンド記事は、日本におけるこれまでの家庭枠の崩壊と個人主義の発達、医療整備の結果としての平均寿命の延長が、年長者の貧困と孤独の原因だと書いている。けれど、ここフランスでも、現在の国家赤字に悩む国家は医療制度の個人負担率を徐々に引き上げ、同時に医療機関の民営化を進めており、物価・家賃上昇で退職者の購買力も急激に下降したから、政府の大型政策でもない限り、日本のような現象が起こるのは時間の問題かもしれない。
貧困や不幸はどこでも似通っている。
このところ、今まで街中では見かなかった80歳をすぎただろう老人が、値段の安い巨大ハイパーで買い物していたり、身なりのそれでもきちんとした退職者が街中のゴミ箱をあさっていたりする(市場の終わったあとで、捨てられた売れ残りの野菜や魚を拾う人々は昔からいたが、最近は目だって増えているそうだ)。
もしろん、現在の混沌の中で苦しい生活を送っているのは老人ばかりではないのはもちろんだが、戦時に少年時代を送り、そしてWW2戦後の繁栄を担った彼らを歴史の突き進むその道端に投げ捨ててもいいのだろうか。上の記事を読んで映画「姥捨て山」を思い出したのだったが、記事の話はフォルクロールではないんだ。
100歳の誕生日を迎えたレヴィ=ストロースがいつか『私はもうすぐいなくなるんだが、それにしても世界はまったくひどいことになっている』と怒っていた。
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私たちの文明は、文化は、ここまで進んで、医療は(世界の一定圏に住む)人々が長く生きていけることを可能にした。技術と機械化は辛い労働から人間を解放したはずだった。世界はより豊かになるのではなかったのか? それが労働から解放されて単なる失業者じゃまるっきり寂しい。
豊かさとは、物の数で計られるわけではない。ウォール・ストリートでびっくりするようなボーナス稼いでたトレーダーより、貧しい食事を仲間と食べてるカタリーナで家を失った貧しいはずの人々のほうがシアワセそうに笑っていたりする。、アフリカではだしで走っている子供が、いま都会ではなかなか見つからないようないい表情をしていたりする。ワジスが「アフリカが世界を救う」と言うのは、ここらへんだと思うんだ。
昔はよかったと言うつもりもない。昔の宗教なり、風習なり家族制度なり国家制度を無理やり復興させても何かが取り戻せるわけではない。
必要なのは多分、『人間』を取り戻すことなんだろう。『自然』内に生きる『人間』というのを取り戻すことなんだろう、と思う。だがどうすればいいんだろう。。。脱力する。
『自然』を逸脱した『人間』は、当初からその自己プログラム内にバグを内蔵してたんだろうとつくづく思うんだけど、それにしても人間は、アートを、つまり音楽や絵や哲学や詩を発展させた。エティックを創り出したし、哲学や歴史をも考え出した。人間は物にはなれないんだから、もうちょっと頭や身体を働かせて21世紀のエティックを創り出すべきなんだろう、すべてが手遅れになる前にね。
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記:4枚の写真は“シンガポール生まれのマカック”君撮影のもの。ポートーレートのデッサンは、郊外SNCFの小さな駅の壁にチョークで落書きされてたもの。誰が描いたんだろう:なかなか上手い(世界は才能にあふれてるんだぞ、大衆をバカにするなあ、ゴラ・サルコ !)。