つまり、なんだ。欧米・欧米と話を始めてみても、ま、こりゃ、オリエントにしても同じなんだが、ことばじゃひとつになってても、現実には実に広いわけであります。
映画 Azur et Asmar を紹介した時にも出てきたけど、アメリカやシンガポールでは、アニメでさえ、母親が乳飲み子におっぱいをやるシーンは検閲されてしまう。婚姻における“禁止”というのは(たぶん、ってちゃんと読んでない)、レヴィストロースを初めとする文化人類学者たちのキーワードだったわけで、どうもここが(つまり、おっぱい禁止が)極めてクサイとアタクシは考える。
少なくとも、南仏やギリシャで見る欧州観光客は、英国産・北欧産・ラテン系産の大小老若のおっぱいを、なんとも堂々とお天道様にさらしている。まあギリシャ現地女性の方々は欧州人ではあるが同カテゴリーには入らないので、、勝手に例外として、横に置いとく。
あの、ジャネット・ジャクソンのスパーボールおっぱいポロリ事件と、たしかカンヌでの、ラ・ブーム・ソフィ・マルソーの大おっぱいポロリ現象における世論の反応を比較していただきたい。おっぱい満載の欧州TV広告はそのままでは米国ではブロードキャストできない(イスラム国でももちろんダメですが)。
同時に、わが日本の公衆浴場で混浴が禁止された“いわく”を思い起こせば、またオリエンタリズムの一部として、上半身裸である日本女性の写真が欧州でブロマイドのごとく受けた事実も思い起こせば、その“禁止”の原因はピューリタニズムの過剰受け入れにあることは否めない。
アタクシが子供だった頃には、街なかでお母さんが赤ん坊におっぱいをやるってのは、なんとも自然な風景だった。今の日本ではどうだろうか。
実に欧州では(特にラテン語圏では)、おっぱい、そして広い意味では身体(裸体)に対する寛容が見て取られるのに対し、欧州を去った以降のアングロ・サクソン文化においては、身体とはあくまで隠すものであるようだ。
つまり、欧と米の間には、ふかーい(つか、でかーい)おっぱいの溝があるわけだ。
歴史的に言って、ギリシャ文明の流れであるルネッサンスなり、あるいは欧州産業革命なりが、この“おっぱい許容度”に何らかの影響をもたらしたかどうか。オールド・ヨーロッパを脱出したプロテスタント達にはルネッサンスはまだ訪れてないのかも知れない、とか。また、もうひとつの欧州文化源泉であるユダヤ社会史におけるおっぱいのアルケオロジーについては、またいつかの機会に妄想してみたいと思う。
んちゃ。
追記:17日夜、イメージ追加してみました。なお、左の写真は2007年カレンダー Dieux de Stade から、仏ラグビー・マンがポーズしてますが買うのは御婦人だそう。