« 日記、その2 | メイン | 欲しい文庫、もちろんドゥルーズ・ガタリ »

2006-10-06

コメント

renqing

猫屋さん、どうも。 renquingではない、renqingです。(^^;
長い無沙汰は、ただの怠け心です。カテゴリー付けも全く進んでいません。(-_-; ただ、キリスト教におけるロゴスに関して多少書いてみました。ご参考になれば。

猫屋

あ、ほんとだ。仏語だとqui でキと発音なんでつい間違えますた。なんと、長編ですねえ。今夜は客人で飲みすぎまして、明日のクリアなアタマ(無理かなあ)でちゃんと読みたいと思います。で、ロゴスって三位一体のひとつのキリストの身体だとかって、言われてもアタクシにはトテモわかんないんだけどもね。
エントリー、イスラム・クリップにアップした本の裏表紙の図柄が、天使(ガブリエル)が、マリアに受胎告知と、ムハマンドに言葉を与え結果それがコーランとなるの図の比較は面白いです。まだイコンがきつく禁止される前の、たしか14世紀の現アフガンの絵なんですが。。。

renqing

キリスト・ロゴス論というのは、簡単に言えば、
①ロゴス=神の言葉、
②イエスがキリストとしてこの世に現れたこと=神の自己顕現=神のメッセージ=神の言葉、
したがって、
③ロゴス=イエス・キリスト、
っていうことでしょう。アリストテレスの三段論法(^^v。

イスラムでは、新旧約聖書も聖典で、旧約に登場する預言者もすべてムハンマドに先行する預言者で、イエスもその1人、という位置づけのようです。したがって、歴史上のさまざまなイスラム帝国では、「聖典の民」ということで、ユダヤ教徒、キリスト教徒は、税金だけ払えば改宗する必要はなく、あまつさえ能力があれば高官に取り立てられました。時代が下るに従って、この傾向は強まり、後には仏教徒でさえOKになっちゃったようです。(^^; 歴史上、ユダヤ人にゲットーを作らせ、何かというと、火を放ち、血祭りにあげていたのは、他ならぬ、教皇のキリスト教徒たちです。ま、それも、彼らのロゴス=理性のなせるわざなのでしょうが。

猫屋

renqing 氏君臨(^^v。!
いやバタバタしてて返事が遅れました。ところで北朝鮮やっちゃいました、ね。あんなトンデモな国が存在しちゃうんだからナントモ人間の理性なんて、、とか思ってしまったはいけないんですけれども。

さて、キリスト教ではイエス誕生以前のソクラテスも実はキリスト教徒だとか言ってるようです。フーン、てなもんですが。

イスラム・クリップに挙げたメデブという、チュニジア生まれのイスラム・フランス人比較文学の先生は、インタヴューで以下のように言ってる。
http://www.liberation.fr/transversales/weekend/206211.FR.php
Ce peintre montre la fondation coranique dans une scène iconographiquement très proche de l'Annonciation. La réception du Verbe par Marie engendrera le corps et la réception du Verbe par Mohammed engendrera le Livre. D'une certaine manière, le Livre est donc une forme d'incarnation. Mais les musulmans actuels n'admettent pas cette image.
この絵(エントリに貼ったもの)は、受胎告知に非常に近い絵柄でコーランの起源を表している。天使ガブリエルが与えた“言葉”によってマリアはキリスト=身体を産むわけだが、ムハマンドは“言葉”を受け取って本を生み出している。この本(コーラン)はしたがってincarnation の形態をとる。けれど現在のイスラム教徒はこの絵柄を許容しない。(以上意訳)

つまり、“この言葉を読め”とガブリエルが言って、文字が読めないムハマンドに“言葉”が託され、そしてムハマンドの言葉がコーランになった。演繹して、この先生は“言葉”自体は実は不可視なもので、コーランの方はこのコピーであるんだから、コーラン自体が神なのではない、といったことを言ってます。なかなか面白いです。

さて、本題に戻りますと、どうもアタクシが分からないのは、キリスト教の“身体性”なんだよね。ロゴス=キリストの身体、で教会では神体パンを信者が食べたりする。ワインはキリストの血だったりする。どうも仏教徒にとっては身体<自然=現実は変化し続ける世界の一時的現象でしかないわけで(ね式仏教ですが)するってーと、大体死んで消滅するはずの身体を十字架に釘付けにして信仰の対象にするってのがどうも分からないわけです。

renqing

聖体については被造物物神化(いわゆるフェテシズム)といわれても仕方ない気がします。なぜ、最後の晩餐でそんなことをイエスが言ったのか。ま、死を予感して、グループの団結力を高めるためですかね? 一遍上人絵詞には、一遍のおしっこを喜んで飲む場面が描かれていますが・・・。超大雑把に言って、同じベクトルのメンタリティではないかと。

jedisunefleur

こちらでははじめましてこんにちは
パンとぶどう酒の話を読んで
関係ありそであんまり関係ないかと思いつつ。
個人的には面白い。。。と思ったエピソードがマラルメにあるんです。
ある日、このイカレ詩人がこんな話を聞いたっていうんです。
「マラルメ先生、食人族に神父たちが恐れを省みずに野蛮な行為はやめろと布教活動をしているそうです」
「なんでそんなことをするんだろう、我々だって一緒じゃないか。。。」
ごきげんよう。

猫屋

renqing 氏、
そうですねえ。大体神学も(文学も、精神学も、ですが)学なんて最後についてるわけだが、ニンゲンのココロに関わるもんだ。おまけに(仏陀さんやキリストはん自身を離れて)宗教が宗教になる時点でどうしてもフェティッシュ、あるいは抽象化、あるいは記号化がなされるんでしょう。権力ってのはそうだ。歴史全体にしてもある時点でミスティフィケーションという過程があると考えるわけです。するってーと、まあ、ネ式に言えば、信じることと理性を一緒くたにしちゃあイケナーヨ、となる。つーと、んじゃおまいさん。理性信仰はどうなんだい、リュミエールだっておんなじよーなもんじゃねーか。と返されるとちとコトは難しくなりますがね。このごろホトホト(モチ自分を含めての)人間さまの本質なるものにイヤケがさしております。

jedisunefleur 氏、ここでは始めまして。猫屋亭にようこそ。
そんなわけで、最近ますます歳をとり、2・3才の好奇心の塊みたいな子供の様子を見ていたりすると、思わず感動してしまったりするわけですが、やっぱり人様ってのは、そうゆー困った遺伝子だか好奇心だかなんだかの“過剰”を抱えて生まれてくるんでしょうかねえ。それとも人間様の社会性ってところにモトはあるんでしょうか。救済とうたった宗教がこうなんだもん。こりゃ詐欺だ、とか言いたくなったりする。哲学は人を殺しませんから、とも言いづらいしね。では、ごきげんよう。

この記事へのコメントは終了しました。