時々ネット上で拝見する宮代氏の文章は、あのポストモダン社会学系語彙と、時として繋がってないとも感じられることもある論理性と、いい視点/切り口からできている場合が多い。今回の短い文章の基本ラインには同意できます。で、以下の抜粋にあげる部分から、nekoyanagi なりのコメントというか、ね式グルグル転回/展開を書いてみます。どこにたどり着くかは書いてみないと分らないけど。
以下は宮台氏の《つまらなさ一段と深刻〜地下鉄サリン事件から十年〜 》からの抜粋です。
僕は、成熟社会のつまらなさの問題をより深刻に受け止める必要に迫られました。流動性の高いコミュニケーションが与える殺伐さをどうするかです。この10年でそれが明瞭になりました。 ■問題は国際的です。9・11テロはただの宗教的蒙昧ではない。実行犯は留学経験を持つインテリで、テロ組織の指導者層にも留学組や金持ちなど近代の恩恵を知る者がいます。彼らは近代を知った上で実りがないとしたのです。 ■国際テロの背景に原理主義があるとされますが、核心は先進国の近代化が周辺に蓄積した「歴史的怨念」と、近代を知った上でつまらないとする「再帰的(あえて選ぶ)感受性」です。「狂信は恐い」という捉え方は誤りです。 ■つまらなさは深刻です。三島由紀夫が早くから気づいた通りです。若者から見れば、政界のトップも経済界のトップもつまらなそうな顏です。トップか否かに関係なく、数少ない「面白そうに生きている人」に注目が集まります。処方箋のヒントは、生き方のモデルにありそうです。 ■この十年で気になるのは、監視と排除を求める気分の増大です。人々は客観的安全より主観的安心を過剰に求め、実効性の疑わしい施策に群がります。監視や排除が不信や怨念を増加させる悪循環に無頓着で、近代のベースである信頼の構築にも関心が低いままです。「つまらなさをやり過ごすために不安を消費している」と、僕には見えます。 ■退屈ゆえにハルマゲドン幻想を持ち出して不安を消費する──それがオウムでした。事件が教えたのは、そんなな生き方は危険で滑稽だ、ということだったはずです。
《流動性の高いコミュニケーションが与える殺伐さ》については、当ブログを始めてから読むようになった諸ブログで時として遭遇するアグレッシブなコメントから受ける印象と重なる。どうも、ブログ間を彷徨する若い衆が多いようだ。彼らが望むのはある意味危なっかしい重労働である自己形成ではなく、若い衆の“気分”を形にして語ってくれる、仏語で言えば grande gueule/でかい面、をした頼りがいのあるアニキなんだろう。腹が減ればコンビニに行きゃあ、何か喰うものはある。それに似た消費選択感覚が自己形成というプロセスにおいても強いのではないか。いまさら自分でドストエフスキーだの、サルトルだの読んで悩む必要はない、というかそんな時間はないのだ。(60年台の開成高校の夏休みの宿題が、岩波文庫50冊読みだったという話を聞いたことがある。左翼・保守論争に立ち入る心算はない。ただ、いまどきその手の古典を読む少年少女はかなりマイナー視されてるんではないかと思う。実は私もあんまり読んでいないわけだが、今頃後悔している。)
この自己形成の言って見ればコンビニ化現象は、消費社会システム変化に対応するように見える。かつての町内の小型商店街、つまり町角の乾物屋や肉屋や豆腐屋で交換されていたのは金と商品だけではなかった。酒屋が台所の裏口に届けたのも、キリンビールのケースとバヤリースばかりではなかったのだ。そこでは共同体の個人と個人をつなげる媒体、コミュニケーションが成立していた。そして取り交わされる商品もその町からそれほど遠い場所で作られたものではなかった。はるか遠くから来る物品は、祝い事喪事の際に日常を非日常と化す小道具として消費されていたと思う。現在では、こういった町内の暮らしを支えた、またもっと広い区域での流通に伴うコミュニケーション(たとえば職業グループ間の横のつながり)は、消滅あるいはきわめて希薄なものになってしまっている。グローバリ現象の最も大きい弊害はこの地域社会の、そしてその基盤にあった社会共同体意識の解体だ。
以前のエントリ 《近代個人主義の終焉試論》であつかった消費過剰文化への移行にともなう家庭概念の変化を以下のように捉えることもできるだろう。第二次世界大戦終了後の家長制度崩壊と大都市への人口集中は大家族の解体と核家族誕生をもたらした。しかし見方を変えてみると、大戦後の日本家電の発達には、国民の核家族化が必要だったと言い換えることができるのではないか。アメリカのフォード社が行った中産階級向け小型自動車キャンペーンが成功し、社会構造を変えたように、マーケティングが社会をフォーマット化したとは考えられないだろうか。マーケティング用語で言えばインセンティヴをクリエートする、言い換えれば、欲望を創造する巨大な市場に、私たちは生きている。
この仮定から、現在社会 –日本ばかりではない高度消費社会全体に当てはまると思う -- の少年から青年期での自己形成過程を見れば、どのように今の社会がある意味理想的消費者を作り出しているか納得が行く。元来物を(あるいは政府のメッセージを)売る媒体であるTVを見て育った子供たちが成人し、その子供たちは仲間で集まってもTV画面に向かってゲームのリモコンを無言で繰っている。彼らの生活は(自由資本主義社会の基盤である)自由競争が科すタイムテーブルによって厳密に管理され、週末にたとえば少年野球をするにしてもそこにはまた厳密な管理体制がひかれている。“子供たちの安全のため” だ。
町内の子供たちが走り回る空き地も、後ろの山ももうない。村や町内の祭りは最善の場合でも観光化され、クリーンで安全な“文化的”催しとなってしまった。荒物(あらもの)としての祭り/祀り/政 は、ミリタリー・ゲームの中かインターネット上の“祭り”に、あるいはサッカーなどのイベント内に隔離されてしまった。あるいはメディアの創造するモードやスターのゴシップのうちに取り込まれてしまった。
入れ替え可能な、フォーマットされた個人は、たとえそれが“引き込み”や“ニート”と呼ばれる人間 --彼らは過剰消費によって作り出される過剰雇用システムの最低賃金労働を拒む人々、と思えなくもない--で あろうと、消費者である以上このシステムの内側にある。神々が、聖なる狂者が住まう周縁はもうどこにもないのだ。
イラクでの日本人人質事件、それに続く香田君殺害時の“ネット世論”の盛り上がり方は、そういった受動態で反応する世代のプロファイルを良く表している。どこからかやってくる“声”を待っている。自分の声はアプリオリに“声”ではないと信じている。そして宮台氏が指摘する“退屈に”満たされた共同体から出て行く人間は“非国民”なのだ。なぜなら、“退屈”を拒否した時点で、彼らは共同体を裏切ったからだ。
日本は消費文化先進国である。アメリカ合衆国での安価量産消費とは明らかに違った、また未だに過去の階級制度を引きずったユーロッパ市場ともことなる、全国民を対象としたハイクオリティ商品開発と販売が可能な世界一の消費先進国だ。そこでは、交換可能性が大であるもっとも効率の高い消費者群が生産されている。しかし、不完全な人間が作った不完全なシステムにはバグが常に付いて回る。それは、経済バブルがはじけたあたりから頻繁に起こる(と少なくとも私には思える)小・青年による理由のない凶悪犯罪、そして日本ばかりではなく欧州でも始まった感のある集団自殺など、メンタルを病む若い人の多さだ。
3月13日のエントリにあげたショルジュ・スタイナーは、20世紀について、《最も進んだ西洋文化が、2回の大戦とホロコースト、原爆、そして粛清を生み出した。歴史がそのまま進化であるというのはまちがいだ。》といったことを言っている。同様に、物質的豊かさがそのまま幸福に繋がると言う幻想もまちがいであることはすでに多くの人が感づいている。京都議決書に関するエントリで書いたが、現在の大型経済活動にはモラルが入り込む余地はない。そして宗教はすでにその本来の力を失ってしまった。現在の閉鎖、宮台氏の言うところの“つまらない”世界をどうしたら“つまる”開放システムにしえるのか、、それがわかりゃ世話はない。いや、それには先鋭マーケティングの裏をかくゲリラ的思考とゲリラ的欲望とゲリラ的に柔軟な身体性が必要とされるはずである。やってくるだろうカムイに期待しよう。
Nekoyanagiさま
先ほどはコメントありがとうございました。ついでに、ジェンダー間違い、まことに申し訳ありませんでした。 なぜだか思い込んでいたのです。 早速当方訂正させていただきました。
いつも(といっても最近そちらのblogを発見したのですが)興味深く拝見させていただいております。 これからも言いたい放題でこちらのゆるみ脳ミソの啓蒙お願いいたします。
投稿情報: Mari | 2005-03-16 14:52
Mari さん、どもです。
言いたい放題やってやるぜい、と行きたいところですが、突然冬から夏になってしまった。これって5・6月の気候でしょが。花だの、陽の光だの、おパリの薄着美男美女だのを見に出かけたくなる、旅行にも出たくなる、困ったな。啓蒙なんてえのは偉い人とか宮台さんがしてますし、NekoyaのはX十の手習い、文章修行と日本語忘れ防止です。ほめると木に登ります、つけあがる。餌はやらないように。
投稿情報: nekoyanagi | 2005-03-17 00:30