大江健三郎の小説の題「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」の変形です。アタクシは、誰も道を教えてはくれないとう認識を持つので、ちょっと変えました。
同時期の大江には「洪水はわが魂におよび」というのもある。こちらは新約聖書からの引用だけど、「われらの狂気」に原典あるのかなあ。
しかし、冷戦真っ只中の重苦しい「心」のありようを大江はよく文章化していたと思う。とはいっても上記2冊ともアタクシ読んでないはずです:記憶にない。大江の作品は初期の何冊かと、あとはレイン・ツリー以降の何冊か+ ヒロシマ・ノートしか読んでません。仏文やってた人なのに、なぜか彼の文体はガリゴリしていてあまり気持ちよくなかったからだろう。
できの良い仏文学を(すべての良い文学がそうですが)声を出して読むフルイッドさ/流れなしに、仏文を文字の配列と文法だけで日本語化するとあんな文体になるのかも。いやわからん。
とまれ、大江作品のタイトルは初期作品から一貫して素晴らしい。たとえば、好きで何回も読んだ「新しい人」という作品があるが、こんな題をつけちゃうなんて普通の人にはできない。あの頃は文体もガタピシしなくなってたし。
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大江の書いたタガの外れた冷戦が終わってから20年以上経っても、また別の「戦争」は継続中で、「我らの狂気」が世界中のそこかしこで大小の暴発を起こし続けている。
南仏での単独連続射殺事件とほぼ同時に、トゥールーズ23歳射殺犯のマホマッド・メラも何ヶ月か過ごしていたらしいアフガニスタンで、米軍軍曹が未明に兵舎を抜け出しカンダハールの子供を含む民間人16人を射殺している。狂気としか思えないこれら惨殺行為も、アフガニスタンやイラク、さらにさかのぼればパレスティナでの「戦争」がなければ起こらなかったかもしれない、などと思う。
個人による殺人が狂気によって引き起こされると仮定した場合、では「意味のない」戦争は国家の狂気なのではないか。さらには、気の狂った国の国民は気が狂わないほうがおかしいんじゃないか。
今の世界人口の半分には、飲料可能な水への“定期的”アクセスがない。数多くの子供が毎日、下痢から来る脱水症状で命を落としている。
あれだけ食い物が氾濫している日本で餓死する人がいる。
これだけ科学と産業・流通が先鋭化された21世紀に、そりゃないだろう、と思う。まともじゃないよ。
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実は今夜アタクシが書いてるのは、なんと、読み方ブログ1000本目の記事なんです。で、こんなタイトルにしてみたわけ:7年間かけてポツポツと1000もの文章を書いてきたのはまさに「狂気を生き延びる」ためにやってたんだと、思いあたったのだった。
アタクシの自由は文章を書くという行為によって保証(gage)されている。
金融経済がすべて(つまり教育や医療や文化だとか衣食住、移動の自由、職業の選択といった基本的人権)を限定する、あるいは排除する世界にあって、アタクシが選んだ生き延びる方法が、世界を読みながら文章を書くことだったわけだ。
前にボエシーの「自発的従属」のことをちょっと書きましたが、この従属体系はピラミッド型をなしている。で、上からオーダーが下り、最下の俗人までが「へへー」と従うわけなんですが、この図式でいえば一番下の人間がひとりでも上部を支えることをやめて、その不服従が周囲に拡大すればピラミッド自体が崩壊する。
まあ、フーコーの描いた監視システムとはちょっと違うんだけど、そこいらはまた、別の文で考えて見ます。
1000回めの投稿、おめでとうございます。そうなんですね。すごいなあ。ずっと、本当にこの世は狂気と背中合わせね、と思っていたけれど、「狂気の中を生き延びる」ってまさにそのとおりだと思いました。
コメント、前みたいに普通にできなくなりましたね。どうすればいいんだろーって思いながら気がつけばなんだかわからないまま、typepadのIDつくってしまっちゃってた(笑)。
レス、不要ですよ(笑)
日本は今突発的暴風雨に襲われてます。気の抜けん国ですわホンマ。
投稿情報: midi | 2012-04-03 05:18