今夜は一人で暇だし、かなりの間さぼってたせいか当ブログの読者数もだいぶ減ったし、金融・財政危機もまた週明けには再開するだろうが、月曜の15日もフランスは旗日で、(ヴァカンスに出てない)株式戦士も休息を取っているはず。
というわけで、ストーリーもリンクもオチもないグダグダ話をしてみるよ。
どっから始めよう。
ニルヴァーナ
「ティーンエイジャーみたいに臭うんだよ」というハードな曲を始めに持ってきたCDネヴァーマインドがリリースされたのは今からちょうど20年前で、つまり1991年。アタクシが始めてニルヴァーナを聴いたのもその頃、シンガポールにいた時だ。
聴いてぶっ飛んだね。ラフなつくりなんだけど、聞き込むとどこにも無駄がない(これはサージェント・ペパーあたりのビートルズの完璧な無秩序系で、音はまったく違うがおんなじ質)文学的に言えば(茶目っ気もある)冷静な狂気か。
で、20年が経った。あの頃生まれた赤ん坊たちは冷戦もソヴィエト・ユニオンも知らず、WW2後の復興期も知らない。バブルの頃に育ってガジェットやコンピューターやアディダス・ナイキだのタートルニンジャやmade in japanマンガで育った。
でもこの5年ぐらいは、学校での競争もますます激しくなり、就職もどんどん難しくなり、身についた消費欲は相変わらずあっても資金は目減り気味で(金持ちの子弟は別としても)、それでも学校続けないとドツボだし、ギターもアンプもゲームも欲しいし、クリスマスに爺ちゃんに買ってもらったPCもスマートフォンも2年経てばオシャカである。
さて、20年前に臭いティーンエイジャーだった子達は今どうしてるんだろう。バブルの世代である。
今20歳ぐらいだったら、まだ(頭脳を含めた)身体も柔軟だから(充分スマートな子たちは)身軽に脱皮できるだろうが。
核の恐怖がバックグラウンドの低音部だった冷戦期の頃、作家マルグリッド・デュラスはインタヴューにこう答えていた:「絶望した時はこんな風に考えることにしています:世界は破滅に向かっていると。そうすると不思議に気分が楽になる。」
もう一度、ニルヴァーナを聴いている:これかなり効く(タフな人用だけどね)。
フランス山岳部の村の話
以前はイタリア領だったアルプスのモンブランに近いとこにある。人口は今は1000人ぐらいか。かつては峠を越えるのには牛の背に乗って行ったとか。今はチーズ生産と観光業で潤っている。
でもアタクシが通っていた頃(5年ぐらい前)は、まだ日曜日の教会ミサに村人が集まり、教会前には市場が立つ。人々は(年長者が大半だが)教会前で話し込んで情報を交換する(家族間抗争の噂話が大半らしいが)。
若い衆は教会前のカフェに集まってクダを巻いている。
肉屋では、いつも同じ叔父さんがうまい肉や野草入りのソーセージを切り分けて売ってくれる。誕生日とかの祝い事があるときは、羊の腿などを予約するんだが、叔父さんは「あさって山の上のジョルジュんとこのスージーちゃんを屠殺しに行くんだけど、それでいいかな?」とか地元の客に聞いている。(残念なことに、叔父さんは数年前にリタイアし、別の叔父さんが引き継いだ:で、商品の種類や質も落ちた。)
日本やパリのスーパーでパックされた精肉を買う都会人には残酷な話しに聞こえるだろう:工場でベルトコンベアーの量産殺戮とはまったく別の話だ。
かつて山や農村部では「きのこは貧乏人の肉」と言われていた。仕事がきついので、朝からベーコンを入れた野菜スープにチーズを入れて、昼はパンとチーズとあればソーセージ(脂肪分の多いブタ)と地元ワイン、夜もスープか、とうもろこしでできたポランタに油を加えたもので小麦は貴重品だから雑穀のパスタにチーズをかける。
肉は祝い事ぐらいにしか食べなかったんだよ。魚はもちろんない。今でも食べるのはツナ缶ぐらいだし、ファーストフードは3時間ぐらい列車で行かないとない。医者も車で30分走らないといない。
それでも村の人は長生きである。90歳級が何人もいる。だが若い人もよく死ぬ。昔は戦争に駆り出されて(シャッサー・アルパン)、今はスキーでの雪崩事故。村の墓地に行くと戦時の死者墓碑があるんだが、読んでみると、同じ家族から多くの死者が出たことが分かる(まあ人里はなれたところだから大体苗字の総数が少ないし、婚姻の関係で村中が親戚らしい)。
アタクシと日本
こっちに来たころは学生だったし、親からの仕送りもほとんどなかったから、最初の3年は帰らなかった。
それからは(日本はバブルに突入)金回りもよくなり、大体一年に一回は帰省するようになった。不思議だったのは、知人たちが毎回歓待してくれるんだが、前年は信じられないくらい御馳走してもらっておまけにいろいろ土産までもらっちゃったから、と無理してシャンペンとかクッキーとかヴァニラとか色々用意しても、次の年の歓待は(単なる比較の話だけど)どっと貧相になってたり(たとえばスーパーの刺身盛り合わせとか)。グッチだトッドだの言ってたハイソ思想だった従兄弟が、いつの間にかギャップ、それからユニクロ派になってたり。
かつては都心でレベル高いレストランでフロア・マネージャー兼メニュー作りやワイン選びを職としていた友人に、「品川のあたりでお勧めのすし屋ない?あんまり高くない店で」と聞いたらチェーン店の回転寿司を教えてくれた。苦労して見つけて食べたけど、あれはギネス・ブックに載せてもいいくらい不味かった。
まだ余裕があった頃は品川のホテルの23階ぐらいだったかな、コーナー・ツインをプール券つきで取ってもらって、成田から着いた時と帰仏前に利用していた。でも(映画ロスト・イン・トランスレーション的に)いつも眠れず、酒を飲みながらレインボー・ブリッジに日が暮れるところ、品川駅に電車がひっきりなしに着いたり出たりするところ、勤め人たちが蟻のように駅前の交差点をわたる様子、真夜中から夜明けまでひっきりなしに輸送車が行き来する様子を眺めていた。
東京の、あのエネルギーには感嘆するが、同時に(今でも)最初の2.3日は恐くてたまらなくなる。何が恐いのかは未だに分からない。
不知火の海
熊本を訪れた時、そこに居ついて農業やっている高校の同級生が、車で天草まで連れて行ってくれた。4月だったのにあいにく天候は悪く、風も強いし空はどんよりしていた(それでも風景と食べ物と温泉は最高でした)。
フリーウェイの頭上の標識に「不知火」と記されていた。「ああ、ここがシラヌイなんだ!」と言うと同級生は「あれ、よく読めるねえ」と感心してくれた。
知ってるよ。水俣の海だ。チッソの海だ。
不知火の海は聞いたとおりに美しかった。涙が出そうになるくらい美しい。
こちらに帰ってからネットで調べたら、米人写真家ユージン・スミスはチッソ訴訟の集会に出て右翼系の暴徒に襲われ、脊髄を痛め片目も失ったと読んだ。写真家が片目を失ったんだ。今も奥さんは九州でエコロジー活動を続けている。
しかし、智恵子の空を上天に仰ぐ安達太良山の、みずみずしい緑の地も見えない悪に染まってしまった。
オスロの湖上の牧歌的な小島でたくさんの子供たちがいっぺんに虐殺された。
(近所に住むJF君は一年イングランド中部に留学していて知り合ったノルウェイ人ガールフレンドに会いに出かけたのがオスロ・テロの前夜。心配になって報道直後SMS送ったら、彼は市中心部の官庁街を事件10分前に歩いていたけど無事と知らせてくれた。)生とは張られた一本の細い糸の上を歩んでいることだ。
あの、時間がゆっくりと過ぎる、人々がゆったりと年老いていくアフリカが、飢餓と水不足と政治混乱(あるいは政治不在)に荒らされている。
かつて、邦人女流作家が「天国に一番近い島」と書いたヌーベル・カレドニアも、再び騒乱の島となっている。
一体、どこに行けば「安泰」は見つかるんだろう。
たぶん、自分の中に小さな秘密の「平和の小島」を創るしかないだろう。でも、戦いをやめてはいけない(敵を間違えないようにね;フレンドリー・ファイアは世界の消滅につながるだろう)。
Peace & Love 猫屋
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写真はローマまで撮ったもの(iPhone):ピクセル少なくしたけど、あとは無処理:6月のローマには光が満ちていました。
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