先週、金融問題で頭が疲れて(アタクシの頭がフル回転しても解決するわけじゃないつーのに)急にネットで読んだこの写真展に関する文章が引っかかって、時間が空いた午後遅くモンパルマスまで直行したのだった。
これはH・C・B、すなわちエンリ・カルチエ-ブレッソン・財団での写真展で、米国写真家エヴァンス(1903年生まれ)が恐慌後の荒廃したアメリカ南部を撮ったシリーズと、ほぼ同じ年代にほぼ同じ場所でフランス人であるカルチエ・ブレッソン(1908年生まれ)が撮ったシリーズの、合計全部で86作品を展示している。
あらかじめ読んだ批評が書いているとおりなんだが、カルティエ-ブレッソンとエヴァンスの写真に対する、あるいは「現実」に対する、これは考え方というかコンセプトというべきか、あるいは創作の哲学といってもいいかもしれないが、まあ姿勢だな、これがまったく違うのだった。
どこがどうなって私たちがそう感じるのかというメカニズムは難しすぎてアタクシには分からんのだが、それにしてもまったく違う。一枚一枚の写真の中にある「時間」の流れかたが違う。うん、うん、そう。こうやって印象を字に変えて書いてみるとなんとなく分かってくる。批評で批評家が言おうとしていたことも、なんとなく分かってくる。
ヒントのひとつは、パリのソルボンヌで文学を学んだエヴァンスは当初作家になりたがってたんだが、文学を捨て写真を選ぶ。米国では、ルポルタージュ作成のためにトルーマン・カーポーティと組んで旅行もした(残念ながらこの企画は失敗に終わる)カルティエ-ブレッソンは、絵画から写真に入っている、ということ。
つまり、写真という瞬間と物語性の関係なんだと思う。エヴァンスは一枚の写真の中に永遠の時間、つまり連続性としての時を写しだす。カルティエ-ブレッソンは、一枚の絵画/写真のうらに物語を閉じ込める。
カルティエ・ブレッソンの写真の美しさは、印象的な、計算された均衡のなかにfigé して(つまり固まって)いる。
対して、エヴァンスの写真の「現実」は、カオスと偶然と、ときには唖然とするような不在を抱えている。一枚の写真は決して完結せず(彼の構図枠自体がそうだったり、家や通りや壁や柱が、ゆがんだり傾いたりしている)、見る人間をその写真の外に放り出す。でも写真の外とはなんなんだろう。
ここでアタクシは、昔読んだ江戸川乱歩の短編を思い出す。覗きからくりに魅入られた男の話だったはずだ。ああ、また出だしに戻ってしまった:リアルとリアリティ、ウソとホント。ウソも1000回唱えればホントになるし、きれいが汚いで、汚いがきれい。。。なんか混乱してきたのでここでおしまい。お後がよろしいようで(テンテン)。
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参考
同写真展についてのル・モンド紹介記事:Dialogue posthume entre Walker Evans et Cartier-Bresson
Lunette Rouge によるブログから:Evans et Cartier-Bresson
Michel Poivert による2写真家の比較(ムズイ):Cartier-Bresson / Walker Evans : confession d'un impatient
さすが猫屋さん
写真家が何を見るのか(何を撮るのか)は『時間』をどうとらえているのかによって全く変わる、そして写真家のお育ちによっても変わる,ウオーカーエバンスとカルチェブレッソンが文学で育ったか絵画で育ったかの違いは、大きな違いだと思う。絵画で育てば構図にこだわる、瞬間でありながら画面のなかに完璧な構図を求めたがる完結性が絵画系、文学で育てば連続性とフレームの外にテーマを感じさせることにこだわる文学系。ボクもそんなふうに思います。作品のよしあしは別にして、アラキーことアラキノブヨシ,藤原新也いずれも実際に小説も書いている写真は文学系、藤原新也は東京芸大の油絵に入学しているけれども絵描きとしての才能に見切りを付けてすぐに辞めている,日本の写真家は文学系が多いように思う。
投稿情報: しんちゃん | 2008-10-06 14:16
どもです。えっと、猫屋亭金融危機もあり、エヴァンスの写真見たくて行く先変更もあり、アヴェドンの写真集買い損なったです:ゴメンナサイ。必要とあらば、探します:連絡乞う。
エヴァンスが大恐慌下の米国で写真を撮ったのは、ルーズベルトのニュー・ディール政策の一部だったんだそうです。失業して文無しのアーティストに恐慌に苦しむ人口の実情をレポートさせ、市民に伝える、という策だった。これは今、考えてるパズルの一部をなしている:時間が見つかればこの話も、もう少し情報探してから書いて見たいです。。。
投稿情報: 猫屋 | 2008-10-08 04:00