クリップ:中世学者の論争が“文明の衝突”化する で紹介した本、《モンサンミッシェルのアリストテレス》 を、EHESSに属しポリテクで歴史を教えているビュルギエール教授が素人にも分かりやすく批評してたんで訳してみます。先週のオプス原文はここ:オプスウェブのリーブルから
しかし、誰がアリストテレスを翻訳したのか?
アンドレ・ビュルギエール/André Burguièreヌーベル・オプセルバトール 2008年5月22日号
中世ヨーロッパがアラブ人たちのおかげでギリシャ哲学を再発見したことは、規定のことがらかと思われた。シルヴァン・グーゲンハイム[注1]*(Sylvain Gouguenheim;正確な読み方確かめてないです、スミマセン)は、同僚たちに大きな不快感を与えつつも、これに抗議する。
ヨーロッパはつねにギリシャ思想家たちと直接のつながりを保っていたのか、あるいは8世紀にわたる忘却の後、アラブ文化の仲介を経てそれら思想家と再び結びついたのだろうか。これが一触即発の議論となった[注2]。
13世紀の大学が、アヴェロエスとアヴィセンナの書におけるギリシャ医学を通してアリストテレスを再発見したという考えは、ヨーロッパに根強く残るイスラム・フォビーと闘う人々、そしてバブ・エル・ウエッド(Bab-el-Oued;アルジェ市の海に面した庶民の住む地域)を絶望させることを拒否する人々に、明白な事実として受け止められていた。
固定概念に立ち向かう歴史家をだれが非難できるだろう? 中世におけるオリエントとオキシデント交流への確かな知識をベースにしたシルヴァン・グーゲンハイムのエッセイは、基本的な二点において説得力を持つ:西洋の聖職者たちは、古代ギリシャのテキストとのコンタクトを決して失わなかった。
ギリシャ語がラテン世界の知識人たちから忘れられた時期、多くの場合ビザンチンで学んだ聖職者たちがギリシャ語作家を翻訳し始めた;グーゲンハイムが私たちに思い出させるヴェニスのジャック(Jacques de Venise)が、そのひとりである。西洋における最も活動的な模写工房のひとつだったモンサンミッシェル大修道院に属していたジャックは、12世紀半ばにアリストテレスの書のほとんどをラテン語に翻訳していた。
そして、アルベルトゥス・マグヌス(Albert le Grand)やトマス・アキナス(Thomas d'Aquin)は、アラブ思想家のものではなく、ジャックの翻訳からギリシャ哲学書を再獲得したのだ。ムスリム社会自体においても、ハルン・アッラシード カリフ下の13世紀に生まれたネストリウス教徒の医師で論理家だったYuhanna ibn Masawayh やその弟子のHunayn ibn Ishaq のように、まずシリアのカトリック教徒たちがギリシャ語からアラブ語に翻訳し注訳を加えていた。
アレキサンドリアの図書館と比較された、11世紀にアッバース朝によって開設され、ムスリムのペルシャ人とユダヤ人とカトリック教徒によって運営されていたギリシャ作家の翻訳研究所、この『知恵の館(wiki jp)』を、歴史家グーゲンハイムは「千夜一夜」の美しいお話でしかないとほのめかす。この懐疑主義は受け入れよう。
しかし、バグダッドにおける文化の開花と、人々が大げさにカロリング王朝のルネッサンスと呼ぶ時代のエクス・ラシャペルの文化には格差がある。それは現在のロンドンにおける知的生活と、カトマンズでの知識生活の差に等しい。
最初の四章までは情熱を掻き立てるこのエッセイが、ヨーロッパの純粋たるギリシャの根源を要求する時点で、告発に変わってしまう。この寒がりの《根源主義》は、女性権利と民主主義規則の尊重に関する現在のアラブ世界の困難を、過去のムスリム文化の栄光賛美というノスタルジーで忘れようとするムスリム知識人と同様にばかばかしいと、私の眼には映る。
A.B.
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[1]«Aristote au mont Saint-Michel. Les racines grecques de l'Europe chrétienne», par Sylvain Gouguenheim, Seuil, 278 p., 21 euros.(*) professeur d'histoire médiévale à l'ENS-lettres et sciences humaines de Lyon, également auteur d'un essai consacré aux «Chevaliers Teutoniques»
おもしろいですね。
確かに、固定観念に挑戦することは人間のパッションであるし、歴史は解釈するもの。
視点はよくても、単純で強引な結論が正当な議論を生まないとすると、すごく残念。
現実は非常に複雑だったのでは、と想像してしまいますが、そういう意見はないのでしょうか?
投稿情報: heian | 2008-05-29 04:44
まあ、問題の本も読んでないし、大体自分は年代オンチなわけで、論点について何かを言える立場にはないんですが、よろしかったら上にあげたオプスのコメント欄と以前のページのリンク先でのコメント欄(歴史専門家多し)も含めた論争を読むと、なんとなく様子がつかめるかと思います。
結局のところ、何十年か前のある意味リジッドな歴史観に立ち戻っちゃってる、とも言えるだろう。フランスでの共和国思想からコミュノタリズムへの移行傾向(これが続くのか一時的なものなのかは分かりませんが)が表面化してる時点で、この本がジャストミートに、出版されたということでしょう。
歴史(学)は、文献や発掘や発見をもとに、過去を見直す学なんだと思いますが、同時に、もちろん各時代の“権力”は歴史を“編集”するわけです。いち時期、フランス歴史学は想像力を伴ったいい仕事をしていたようですが、ここんとこあんまり元気ない(元気がないのは歴史学者に限りませんが)。
なお、おっしゃるように、中世当時のヨーロッパ・オリエント世界は、実に複雑だったんだろうと想像します。ただ、それをヨーロッパとオリエントと、あるいはキリスト教・イスラム・ユダヤと分割してしまってはルネッサンスを用意していたあの時代の豊かさ(複雑さ)を理解できないだろうと考えています。
実際にヨーロッパを若干ですが旅行して、たとえばフランドルやブルゴーニュを見て、南仏からイタリア、特にヴェニスにたどりつた時には、目の前に広がるオリエント風味にびっくりしたものです。残念ながらスペインはまだ行ってないし、イスラム圏もまだ行っていませんが。
単なる夢想ですが、厳しい戒律に縛られた僧院の坊さんが、禁じられた書を開いて“ギリシャ的自由”を夢見る、、、って、これ、映画“薔薇の名前”の影響でしょうけど(笑)。
投稿情報: 猫屋 | 2008-05-30 03:30