今日のル・モンドに、86年とネオ資本主義をめぐるジジェクの記事がありました。こういったあんまりひねってないジジェクの文はよいですね。ナオミ・クラインの新刊 The Shock Doctrine とならべて読みたくなります。なお、7日に訳文の間違いを訂正のうえ一部書き換 えました。
La véritable leçon à tirer de Mai 68, par Slavoj Zizek
68年5月から学ぶべき真の教え、 スラヴォイ・ジジェク
ル・モンド 2008年6月2日68年5月、パリの壁に書かれたグラフィティのうち最も知られたもののひとつはこう言っていた:「構造は街をデモらない!」-言いかえれば:1968年の学生と労働者によるデモンストレーションは、構造主義の語彙によって、社会の構造的変動によって引き起こされた現象としては説明できないだろう。
しかしジャック・ラカンの答えは、1968年に起こったことはまさにそれだと主張する:構造が街に繰り出したのだ。
可視の爆発する出来事は結局のところ構造的不均衡の結果だった-ラカンが支配者のディスクールから大学のディスクールへの移行(passage)と定義する、ある支配形態からもうひとつの支配形態への移行だった。 この懐疑的ヴィジョンは根拠のないものではない。
リュック・ボルタンスキーとエヴ・チアペロ(Luc Boltanski et Eve Chiapello )が彼らの著書『資本主義の新しい精神』( Le Nouvel Esprit du capitalisme ガリマール, 1999)で強調するように、1970年代から新しい形態の資本主義が少しずつ姿を現していた:それは、仕事場での賃金労働者の自立性と主導性のうえに確立されたネット・ワーク組織化という形をとった。
この過程で、資本主義は極左による反資本主義的自治管理のレトリックを逸脱させ、以下のスローガンをとなえた:社会主義は、階層化され行政管理化された保守主義と同じように拒絶される。真の革命とはデジタル資本主義である。。。
1960年代の性解放から生き延びたのは、私たちの単一な思想にみごとに同化されたところの寛容な快楽主義( hédonisme )である:今日、性的快楽は許されているばかりではなく、ほぼ義務化されている-快楽にいたらない人間は罪悪感さえ抱く。
このラジカルな形での快楽の探求は、ある明確な政治局面に出現した:“68年精神”がその政治的可能性を失った時点である。
その危機的瞬間(1970年代中盤)にたった一つ残されていたオプションは、極端な性快楽の追求・内的経験(東洋神秘主義)・左翼政治テロリズム(ドイツではRote Armee Fraktion、イタリアではLe Brigate Rosseなど)という、みっつの主要な形で現れた、現実(le réel)への荒々しくダイレクトな追い立てだった。
この撤退の余波は今でも感じることが出来る。
2005年秋に起き、広域での暴力の爆発で数千の車が炎上したフランス郊外の暴動時に衝撃的だったのは、暴徒たちの肯定的ユートピア展望の完璧な不在である。
われわれはポスト・イデオロギーの時代に生きているという使い古されたクリシェが意味を持つとしたら、まさにそのとおりなのだ。
これは、われわれの現在状況を雄弁に物語っている:強制的民主主義というコンセンサスに対して唯一可能なもうひとつの道は(自己-)破壊的爆発であるという、なんという世界にわれわれは生きているのだろうか?
抗議学生たちに対してラカンが発した挑発的発言を想起してみよう:「革命家として、あなた方は新しいマスター(訳注 maître;マエストロつまり指導者・師・先生など多義)を望むヒステリックだ。あなた方は新マスターを得ることだろう。」
確かに、われわれは新しいマスターを得た-“寛大な”ポスト・モダンのマスターという様相のもとに、その支配力は見えにくい分、より強化された。
この移行には多くの肯定的変化が伴ったにしろ、根本的問いを発するべきだろう:あの自由への陶酔は、古い支配を新しいかたちの支配で置き換えるための方法でしかなかったのではないか?
われわれの現状況を68年の視線で検討するとして、われわれはあの時代の真の遺産を忘れるべきではない:68年5月の真髄とは、リベラル-資本主義の拒否であり、システム全体へ向けられたNoのひと言だった。
フクヤマが展開した歴史の終焉という概念をばかにするのは簡単だが、現在においてはおおかたの人々がフクヤマ主義者なのである:リベラル-民主資本主義は、やっと見つかった現実化しうる最良の社会形態として受け入れられており、われわれが出来ることは、この社会をより公正で寛容なものにすることだ、エトセトラ。
したがって、もう一度、現在の真なるたった一つの問いとは:このシステムの全面的的承諾をわれわれは確認するのか、あるいは現行のグローバル資本主義は永遠の自己再生産を妨げるだけの大きな矛盾をその内部に生み出すのか、ということになる。それら矛盾は少なくとも四点存在する:エコロジー破局の脅威;いわゆる“知的所有物”への私的所有権概念適用の不可能性;(特にバイオ-テクノロジーにおける)新しいテクノ-サイエンス開発への社会-倫理性介入;最後に重要性においては他におとらない、別なかたちでの人種差別である新しい壁と貧民街。
911は、幸福なクリントン時代の終わりを告げ、またイスラエルと西岸地区の境界線やEUの周縁、メキシコと米合衆国の境界線でのようにあらゆるところで新しい壁が築かれる新時代をシンボル化した。
これら矛盾の最初の三点は、マイケル・ハートとトニ・ネグリが“コミューン(訳注;コミュニティあるいは共同体)”と名づけるフィールドに関わる。コミューンとは、われわれ社会的人間が共有するところの実体であり、この社会的実体の私有化とは、必要とあれば暴力を持って抵抗すべき暴力なのだ。
それらは、汚染と開発によって脅かされている外的自然コミューン; 内的自然コミューン; そして、“認識(cognitif)”資本からすぐさますぐさま社会化された形態の文化コミューン、つまりその第一線にわれわれのコミュニケーションと教育の主要手段である言語と公共交通・電力・郵便等の共有インフラを内包するコミューンに区分することができる。
ビル・ゲイツの独占地位確保を許したら、われわれの主要コミュニケーション網のアプリケーション構造を、たったひとりの個人が文字通り手中に入れるというばかげた状況に陥る。 われわれは少しずつだが、人類自体を自己消滅にまで導きうる潜在的破壊者たちの存在を認識しつつある。もしもわれわれが、資本主義ロジックによるコミュニティの独占を許したならば、彼らは暴走にいたるだろう。
市場メカニズムをニュートラル化しさらに誘導しうる組織の設立と、世界レベルでの政治コミットメントの必要性は、コミュニズム・パースベクティヴの再採用に行き着かないだろうか? したがって、“コミューン”への準拠は、コミュニズムという概念の復活として正当化される:この準拠は、コミューンの段階的私有化を、自己の実体から除外される人々のプロレタリアート化として認識することをわれわれに可能とさせる。
そして、内側に生きる者と除外された者の間の矛盾のみが、コミュニズムという言葉を正当化する。 あらゆる種類の貧民街での、半合法状況に生き自己-組織化の最小形式のあからさまな欠落状態にあって、国家のコントロールからまったく逸脱した人口の急激な増加に、われわれは世界中で立ち会っている。
この人口は、マイノリティ化した労働者、解雇された公務員、元農民たちからなっているが、元農民は無意味な過剰人口層を構成してはいない:彼らの多くは、適切な社会保障や健康保険などの保障制度を持たない闇の使用人、あるいは個人労働者として働いており、さまざまな局面からグローバリ経済の一部に内包されている。
これは不幸な偶然事ではなく、グローバル化した資本主義が持つ秘められたロジックの不可避な結果なのだ。リオ・デ・ジャネイロのファヴェラス(favelas;ブラジルの掘っ立て小屋)あるいは上海の貧民街に住む人間は、パリのバンリュウやシカゴのゲットーにすむ人間となんら変わりがない。21世紀の課題とは、貧民街の『脱構造化した大衆』を-組織化し秩序を与えることで-政治化することだ。
われわれが除外された人々を無視するなら、他の矛盾のすべてがそのまともな秩序破壊性を失うだろう。エコロジーは単なる持続可能な開発の問題に限定され、知的所有権は単に複雑な法律問題となり、生物遺伝子技術は単なる倫理問題となってしまうだろう。
要するに、内側で生きる者と除外された者の間にある矛盾を無視したなら、人道支援活動家が貧困と病気を相手に戦っている画像からビル・ゲイツが利益を得て、自分が所有するメディア帝国のおかげで何億人もの人々を動員できるルパート・マードックが環境問題のチャンピオンとなるだろう。
脅威とは、われわれが本質的実体のすべてを奪われ、さらにシンボルとしてのわれわれの本質を失い、われわれの遺伝子ベースへの操作を受け入れ、耐え難い環境内でかろうじて生きることをを強いられ、デカルト的な抽象的で中身のない主体にわれわれが限定されてしまうことだ。 われわれの存在全体に関わるこの三点の脅威は、ある意味で、われわれ全員を潜在的プロレタリアとなしてしまう。残された、対するただひとつの可能性とは、前もって行動することなのだ。
真のユートピアとは現行グローバリ・システムの無限な自己再生産を信じることにあり;リアリストであり続けるたった一つの方法とは、このシステムの基準においては不可能としか映らないものを、予見することなのだ。
ジル・ベルトンによる英語からの仏語訳
Slavoj Zizek /哲学者
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注:本文とイラストに直接の関係はありません。
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6月10日追記:このジジェクの文章が気になって何回か読み直し、訳文訂正していたんですが、秋葉原での若い青年の無差別自己=他者破壊行為の報道に接して、さらに考え込んでいるところです。
ジジェクが書くように、個人内自由はもちろん、他者とのつながり(つまり社会自体)まで“構造”の侵食を受け、個人は単なる記号に還元されてしまう。 記号と記号が街で出会っても、そこで生まれるのは単なるヒューマン・リソース間の経済的利害上下関係でしかなかったりする。
かつて、マルクスは“ひとまず”社会性を経済観念、つまり利潤の動きで“代替”して、生まれたばかりの産業革命後の近代資本主義社会を“旧観念”から遠ざかった方法で描いたのだと、個人的には思っています。だが、システムが“進化”する間に、やがて利潤構造、あるいは金銭が、現実の社会=関係性全体を支配するようになった。
ここで、オーウェルのBig brother を想起してもいいし、キューブリックの2001年を想起してもいいだろう。
エレファントを撮ったガス・ヴァン・サントが、米国で銃が規制されていたとしても、ブルドーザーを使って学校を攻撃する高校生は出てくるだろうといっていた。
今待望されるのは、マルクスに比較しうる(そして多分フーコー個人思想史を演繹した上での)、現行の構造分析をなしうる才能であり、同時にオーウェルやキューブリックに比較しうる預言者なのだと考えていました(もちろん、政治分野での“才能”が、最も必要とされているのですが、これは、、、かなり微妙です)。
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