サダム・フセイン絞死刑をめぐってこちらの報道を読んで納得したんですが、合衆国とヨーロッパを分ける海溝にあるのは“おっぱい”ばかりではない。死刑を認めるか否か、というのもあるんだよね。
アタクシは日本にいた頃も死刑廃止論者であったのですが、理由は「神がいない以上、個人を死罪と裁ける個人がいるわけない」と言うものだったし、同時に一人の法専門家と話していたら、彼は「人を裁くとき、いつだって間違う可能性がある。裁判官として間違って人を殺してしまう可能性が常にあるわけだ。だから専門家としての自分は死刑に反対である」と言っていた。ですっかり納得。
別の観点、高利性、つまりコスト・パフォーマンスに則って言えば、ひとりの罪人を自然死に至るまでケアするのと、イッキに抹殺するのでは、どちらが安上がりであるのかは、小学生にでもわかるはずの算術である。逆に、その罪人にとってイッキに消滅するのと、一生牢獄で過ごすのと、どちらが望ましいのかは結局本人にも一貫した確信はないだろう。
一方、死刑制度があれば重度犯罪が減少するかという疑問に関すれば、合衆国テキサス州の実情を見れば、そうとも言えないと思う。
やはり、ヨーロッパの根っこはヒューマニスムだよね。
でもって、ヒューマンとは、人間とは、極めて不可解な動物である。これが今のところアタクシの得たたったひとつの確信であります。