あした。フュチャーのことである。フランス語ではフュテュールとでもなるか。
No future というグラフィティがそこここで書かれたのは、いつの頃だったのだろう。
ユーロ・スターのロンドン・パリ間の所要時間が短縮されて、パリのそこここに張り出されているユーロ・スターのロンドンキャンペーンのうちの一枚が、レンガ造りの壁に若いヤツが“future”と、でかく(ペンキだったか、スプレイだったかは忘れたが)描いてるポスターで、意味なく笑ってしまった。
昔は、未来があったはずなのに、突然、なんらか、まあそのときの時代・歴史環境によったのだが、ってたとえば冷戦時の核戦争の恐怖とか、オイルショックや湾岸戦争後、バブルがはじけたあとのの景気後退に結果する就職難とか、とにかく突然若い連中が明日を信じられなくなったとき、No future とロックやパンクやレゲエで歌ったんだ。同時に、壁にはグラフィティがあった。
今はどうなってるんだ。
今、世界を俳諧しているのは、リアリズムと(詭弁的に)呼ばれている怪物である。21世紀の怪物は、思想でもなく、キカイでもなく、数字である。つまり経済リアリズムだ。リアルとは元来、現実であり、見たり聞いたり考えたりできる対象だったはずだ。ところが今のリアリズムは単なる抽象である数字なんだ。夢見ることさえできない。ブリング・ブリングな、ポルシェ・カレラやローレックス・デイタムがかすかに記号化してみせたって、そんなものが世界人口すべての“願望”を表象化できるわけはない。
何が起こったのか。
これは、いつもの、卵とニワトリの問題になるんだけど。たとえばトトロに出てくるような社会があった。自然環境ががあり、家族があり、退屈で偏狭で、いさかいの耐えない社会、というものがあった。
やがて、“文化”生活がやってきて、電気洗濯機や電気掃除機やそして決定的にテレビがやってきた。核家族が生まれ、時が経ち、核家族さえ、家族内崩壊、あるいはリアルな家族崩壊が一般化するようになった。
つまり、家族構成員のそれぞれがTVなりPCなりあるいはゲームなりの画面に見入っている。あるいは母子あるいは父子家庭、そして再構成再婚家族、週末だけの家族、一人だけの“家族”、、、もちろん同性者たちからなる家族、、そして家族の形態はますます多様化し続ける。
そして、所帯数が増加すれば増加するほど、“家族”の形態が流動化すればするほど、どうなると思う?単にモノが売れるんだよ。
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かつて、道は自由な場所だった。異形のもの、他国者、キチガイ、犯罪者、芸人たちが、“普通の”人々に混じって行き来する場所だった。あそこには、いつも、ヘンな人がいて、怖かったし、同時に魅了される空間だった。
今、私たちはより大きな自由を得た、はずなのだ。科学技術が、単純作業から私たちを解放したはずなのだ。世界中を旅行することができる。TVやdvd やcdやネットのおかげで、好きなときに、好きな音楽や映像を見ることができる。ヘンな人間に邪魔されずに、長い人生を生きることができる。
パリのコンプレックス・シアターでは窓口がなくなって自動販売機に現金やカードで支払えるようになった。スーパーでも、無人レジがだんだん増えている。日本でも、安い一般ホテルでの会計がオートマッツなんでびっくりした。
世間は消滅し、監視カメラがいたるところに設置され、カードやメトロのパスや、ヴェリブ(パリの公共貸し自転車)や、携帯電話のチップや、誰がいつどこで何をしたのか、すべてが監視されうる“安全”な都市に、わたしは生きている。
クレジット・カードや、健康保険カードや携帯電話を失ったとき、わたしはいなくなる。わたしは、誰にも見えない存在となる。
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アフリカやキューバや、一部のアジアにまだ残っているのは、もちろん、不便で不衛生で不自由な社会だろう。雨が降れば、どこもかしこもぬかるむ。
だが、ここでは、もう泥などどこにもない。ショッピング・センターと自動販売機と目がくらむほどの商品があふれかえっている。
だが、人と人とのつながりが消滅した社会を、それでも社会と呼べるのだろうか。
金銭とは、カネとは、人間間の関係を表す記号だったはずだ。リアリズムが単に経済的有効性を示すとき、人間は消えてなくなる。それは単に、消費する単位になる。社会が消滅する。
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以上は、昨日の夜、アルテでキューブリックの“2001年、スペース・オデッセイ”を久しぶりに観、大掛かりなストに突入したパリ・メディアのはしゃぎぶりを横目に、感じたことであります。関係ないんですけれど、フランスはバナナ・レパブリックでござんす。大統領がサxだし。