オピニオンぺージでオーブリが、大統領となって100日目を迎えたサルコジ政治を折り目正しく批判しています。こういった“正統”派政治論を読むのは久しぶりなわけで、目が洗われる思いがした。サルコジのやってるのはパリマッチ政治です。ギャラとかヴォワスィでも大して違いはないですが。ちなみにFオランドのガールフレンドとのヴァカンス写真が掲載されてるのはCloserです。
(同月27日記)掲載されてから日がたってしまったこの記事がどうも気になって胃のあたりがモジモジする。というわけで、しばらくやってない翻訳なんですが始めてみました。もちろん政治プロであるオーブリ女史の文章の味を(酸いも甘いも)、猫屋が再現できるはずはありませんが、訳さないよりは訳したほうがイイということでご勘弁ください。
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サルコジ、あるいは見せかけだけの解放
ル・モンド 2007年8月24日
率直にいおう。ニコラ・サルコジ大統領の就任後の流れに威勢は欠けていない。内閣閣僚任命、ヨーロッパ再建のための努力、対立政党から財務委員会議長を選出、ギー・モケ(Guy Môquet、訳注;ナチスによって銃殺された17歳の高校生共産党員レジスタンス)に対するオマージュ。。。それに加えて、すべての問題に関わる大統領は、フランス国民に身近なものとして映る。ある人々は、解放的で現代的な、そして現時点での大きな課題を解決しうる大統領を夢見さえした。残念ながら、就任以来100日を経過した時点での、実現された政治内容の現実は、まったく別のものだ。ニコラ・サルコジは、金融危機もフランス経済の急激な停滞も予見しなかった。彼は、リビアでのブルガリア看護婦解放に対して、疑わしい、さらには危険な代償:民生用原子力・武器提供を明らかに同意している。「アフリカ人は充分に歴史に関与していない-l'homme africain (de n'être) pas assez entré dans l'Histoire」 と、時代を間違えたかのような批判をし、アフリカの友人たちを傷つけた。その、協同作業のたえまない独り占めは、ヨーロッパ・パートナーたちをひどく苛立たせる。憲法委員会は、過去にさかのぼってのクレジット金利分減税適応を差し押さえた。大統領は憲法を知らないのであろうか - これは事実ではありえないだろう - あるいは、選挙投票前にフランス国民をだましたのだろうか。ハイパー・アクティヴィティは、盛んな身振りに、政治の個人化に、そして間違いの積み重ねへと変わっていく。サッカーファンであるサルコジ氏は、優秀なプレイヤーとはボールを独占するのではなく、インテリジェンスをもってゲームを分配するのだと知っているはずである。
あの熱狂的興奮と、より多くの人々に向けられた言葉とスローガンの向こうに、ニコラ・サルコジのはじめの裁断、そして制定された法を通して、彼とその政治の実態がたしかに垣間見られる。「そのディスクールのオープンさには、逆説的に、すべての問題に関する保守派ポジション強化が伴っている。印象的なのは、あれだけ予告された断絶(la rupture )ではなくて、逆に、20年来すべての右派政権によって行われてきた政治の、驚くべき継続と強調であることだ」とUMP の有力メンバーであるClaude Goasguen は強調している。そして、それら政治は無能であり、不正義であるのだ。
保安問題に関するニコラ・サルコジの態度はつねに同じだ。アナウンスと強烈な言葉、そして何も解決しない法強化のせり上げである。過去5年間において、ニコラ・サルコジは保安問題に関わる法案を非公開で可決させているが、それは重犯罪も、対人暴力(2002年以来では43パーセント増加、この一年では2.5パーセント増加)をも減少させてはいない。法を積み重ねても、もし手段が伴わないのであれば何にもならない、これが結果である。リール市での例を挙げれば、(保安)職務がまともに行われるためには、400名の警官が不足している。エヴラール事件(訳注;刑務所を出たばかりのペドフィリアが幼児を強姦した)後、再犯に関する新法がアナウンスされたが、この前に制定された(再犯者に関する)法が実施されてから10日しか経っていなかった。問題なのは、服役後の病院禁固を決断する判事に医師を変身させることではなく-- これはパスカル・クレモン(Pascal Clément)が憲法違反であると強調しているところだが -- 、受刑中のまっとうな医学的治療、および出所後のポスト受刑ケア強化の組織立てにあるだろう。このためには、より多い刑執行に関わる判事、より多い仲介となるべき医師、より多い社会復帰援助者や保護観察員が必要とされ、つまり一言でいえば、法に必要なのはより多くの人員と予算なのである。ニコラ・サルコジがエニス(幼児被害者)の父親に(エリゼ宮に招いて)会見したことには私はショックを受けなかった。私たちは、われわれ市民の傍らにいるべきだし、特にその市民が苦悩するのであればなおさらである。しかしエリゼ宮の正面石段での感情に推されて、よい決定ができるものではない。必要なのは、正義・法(justice)の、そして有益な社会であって、感情に裏打ちされたリベンチ社会ではない。
ニコラ・サルコジが公約したふたつの主力政策は、その標的を外れる可能性が大きい。不動産取得に関して、社会政策住居建設と汚染された(健康を害する)家屋解消を除外しない条件で、わたしたちもこの目的に賛同する。減税額の少なさ(例;12万ユーロを20年ローン5%の金利で借りた場合、月々826ユーロの支払いに対して24ユーロの控除)は現在の世帯経済の困難さに比べると何の役にも立たない。高名な「もっと働いてもっと稼ぐ」については、何を言うべきだろうか?幻滅は大きいだろう。なぜなら、超過勤務をするためには、雇用者がそれを必要とし、あなたにそれを依頼するという条件があるのだから、そして雇用者はその超過勤務をいつでも好きなときにキャンセルできるのだから。さらには、新規雇用を超過勤務よりコスト高にすることで、 ニコラ・サルコジは、失業との戦いに大きなハンディキャップを与えたのだ。
さらに、すべての国民のための大統領として自己規定するこの大統領は、不正義政治の創作者である。なぜ不正義であるかといえば、その減税策の恩恵を受ける対象が、特に企業と最も裕福な階層の国民であるからだ。税の盾(訳注;税金総額上限規定)、ISF(高額資産所有者への税)の引き下げ、相続税の引き下げと、60億ユーロが一握りの納税者のために充てられる。一方にこの60億ユーロがあり、、他方に、マルタン・イルシュ(Martin Hirsch、訳注;エマウスの責任者だったが、弱者の権利確保のため現政権に参加したテクノクラート)に任された、生活保護などの最低保障を受ける人々が仕事を始めようとする場合にあてられた2500万ユーロがある。そして、計130億ユーロに及ぶ減税の勘定書きはいつか支払わねばならない。9月からの医療費被保険者負担額増額(les franchises médicales)、ジュペが1995年に行ったような秋のTVA(消費者税)の値上げだ。ここでも、影響を受けるのはもっとも慎ましい人々だ。
不正義、なぜならすべての人々の権利を持つこと自体がここでは問題視されているからだ。労働権と、失業との戦いの放棄と、すでに有効性がないと明らかにされた新契約法(CNE)を、単一労働法の名の下に、一般化しようとする大統領の固執。教育を受ける権利と、教育省からの11,000人人員削減。医療を受ける権利と、医療費被保険者負担額増額および公立病院の予算削減。庶民移住地区への援助政策と、そういった地区ですばらしい働きをしているアソシエーションすべてへの補助金削減。
スタイルとしてのオープンさと、コミュニケーションとシンボル。権力の過度な個人化によってデモクラシーが、議会とそして国民との関係の透明度を失い、弱体化した時の事実としての閉鎖。共和国の価値体系が、恣意的あるいは不正義である決定によって代わられるときの閉鎖。我々の大統領が持つ巧妙さと確信にもかかわらず、このような政治は幻滅にしか行き着かない。この、言葉ばかりではなく、実行政策においても強固でコンプレックスから開放された保守に対して、わたしたちの義務とは、強健で、その価値基盤にしっかり根を下ろし、さらに衝撃的提案を出しうる左派を明確化することだ。
旧世紀のヒューマニズムと労働運動から生まれ、共和国の真のアイデンティティである - 自由・平等・博愛 - という価値にわたしたちが正義と連帯とライシテを加えた、この基礎は強固だ。これらの価値は、自らとその未来を疑い、他者を恐れる社会においては、かつてにもまして貴重であると、私は信じる。
私は、左派の再生にむけた条件である、これら価値の真なるルネッサンスを呼びかける。過去を引き裂くことなく、わたしたちの歴史に、新しい章を書き加えなければならない。もちろん今日における答えは違ったものだ。それは、グローバリゼーション・ニューテクノロジー・人口問題、そしてエコロジーといったまったく新しいコンテキスト内で将来を準備しつつ、国民の緊急な要望(給与・雇用・住居)に答えなければならない。
保守が個人主義を助長し、恐れと分断をかきたてる時、わたしたちは人々のそれぞれに、基本的権利と富の正しい分配へのアクセスを保証し、同時にそれぞれの人々に、ルールと他者の尊重(レスペクト)と責任、さらに博愛を求める。保守が、隣人を犠牲にしての個人的成功と、弱肉強食論理をたたえる時、わたしたちは個人の開花は共同体のプログレスとともにやってくるのだということを、人々に説き明かせねばならない。
フランスは、もっとも正しいとき、もっとも強い。正義なしの秩序はありえない。正義は、世界の中心(le coeur)であるように、左派プロジェクトの中心であるのだ。
マルティンヌ・オーブリ、リール市長
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訳者後記(ニール・ヤングの On the beach を聞きながら):読んだときはそんなに大事とは思わなかったんだけど、訳しだしてみたら大変、といういつもの猫屋自己トラップでありました。ブッシュの世界と、その(サルコ/秀吉も含む)コーラテラル・ダメージについては書きたいことはたくさんあるわけですが、それは別エントリーで。
猫屋さま、翻訳ありがとうございます。
不正義政治、と断定できる勇気がすごいですね。申鼓に投票した人々、ENA出てなくてもいいじゃないかとか、ともかく新しいことをやってくれそう、という単なる漠然とした期待で投票されたようですが、今になってどう思われているんでしょうね。こんなはずじゃなかったと?
投稿情報: ラム | 2007-08-31 12:29
猫屋殿
私も オリジナルを一読しましたが、
今回の記事は 仏のあり方の根幹に根ざす内容であるため
仏の概念の日本語への置き換えが大変であったろうと、拝察いたします。
費やした努力に対し敬意を表します。
今回の記事では、フランスのメディアポリティーク化に対する警鐘も
一つの主題でありましょう。
それは、まさしくもって
大統領選の後にルモンド編集長の解任に当たってエントリーに記されていた
「政治とメディアはそもそも親和性が高い」
という言葉の具体化に対する危惧ではないか と思います。
ただ、そういった問題点もある中で、
他の問題に切り込もうとする姿勢は、評価しても良いのではないかと
私は思います。
(他の記事で見られますが。
)
メディアを用い世を操る事が、為政者側に与えられた力なのであれば、
そのメディアをどのように用い、情報を収集し行動を選択する、が国民に与えられた権利でありましょう。
とりわけインターネットにより、その権利に力が付与されました。
後は行動を起こすか否か、という判断だけでありましょう。
そういう背景において、ラム氏の質問の前提条件は、あまりに受動的では ないかと思うのですが。
投稿情報: Aesop | 2007-09-02 04:51
ラム氏、
Aesop 氏、
時代はめぐり、世代と世代の真ん中にアタクシなんぞはおるわけで、おまけにふたつの母国にまたがっていたりして、政治や経済なんぞについては単なる傍観者にしかすぎないけれども、なにはともあれ、それこそじいちゃん・ばあちゃんから引き継いだ記憶と、(書物やいろいろな地で目にし、聞き、匂いをかいできたそれらの忘れられない人やものや生活やらも含めた)生きてきたそれなりの経験があって、ここに生きてるわけで。やはり守っていかねばならぬ思想なり、があると思うんですよねえ。これ、レスになってないか。。。なお関係ありませんが再度フーコー・コレクション、ぱらぱらと読み出しました(6;生政治・統治も池袋ジュンクで購入済みなり)。
投稿情報: 猫屋 | 2007-09-03 21:27