短い記事ですが、今回の選挙でのサルコジ現象をバイルーとロワイヤルの位置も含めて論評しています。
L'ennemi public numéro un / パブリック・エナミー No 1数日前から張り出されている各公式選挙ポスター(訳注;選挙期間中、市役所や選挙所前に並べてある)の中でも、汚されたり、罵詈雑言が書き込まれたり、あるいはグラフィティも一番目立つ。罵倒比較最上級:以前はジャン-マリ・ルペンにつき物だったアドルフ・ヒトラーの前髪と口ひげに浴しているのは彼ひとりである。 アンケート調査でも、つねにフランス人選挙意向ランクの先頭に位置している。5月6日の調査での「どの候補が選ばれると思うか」という質問に対しても、半数以上がこの名を上げている。しかし、この社会の大きな部分は彼を公共の敵ナンバー1と見ているようだ。
このステイタスは異例のものだ。過去には極右党首だけが抵抗すべき共和国を脅かすもの、絶対的危険としての様相を見せた。支援者数に比例する嫌悪指数を引き起こす男。決して極右に近づくことのなかったニコラ・サルコジが、どのようにして多くのフランス人の目に(極右)グループの場を占める人物となったのか。
ひとつの説明は彼の成功そのものにある。2007年大統領選はかなり前から-もしくは常にと言うべきかもしれないが-現保守第一党党首(サルコジ)の独壇場だった。この独占状態はアンケート調査があらわし、メディアが伝える二重現象の原因のひとつ、あるいは主要な理由である。彼の当選を願う人々と、どんなことをしても、なんとしてもその当選を避けたい、あるいは避けたいと表明する人々がいる。
フランスはふたつの対立するマジョリティに分割された。一方には、市民数の約60パーセントを形成する現政権支援者および極右支援者からなる保守派がおり、他方には40パーセント弱の左派と極左をあわせた人々がいる。もう一方にはレースの先頭に立つ候補に敵対するマジョリティがいると見える。
しかし、このふたつの現実が結びついているとしたら? それはUMP党党首が引き起こす嫌悪の第二の説明となるだろう。フランスが認めたくない、マジョリティとしての保守があらわれているのだ。フランス人は自分を左派であると考えつつ、保守として生きたいのだ。ジャン-マリ・ルペンは、人が保守であること告白しがたいものとした。ニコラ・サルコジの間違いとは選挙を勝ち抜くため “社会的マジョリティ” と “政治的マジョリティ” を近づけたことにある。この優れたやり方はフランソワ・ミッテランが1981年勝利のために見出したものである。左派の勝利。
セゴレンヌ・ロワイヤルとフランソワ・バイルーは、保守がこの(訳注;心情左翼と現実保守の)接続の成就を妨げるふたつの可能な道を示している。社会党候補は保守層での、教育・保安といった分野に保守的政治を望む人々を引きつけ政権を獲得しようと試みている。逆に、UDF党首は一定の範囲内で左派人口の関心事を考慮する保守を提案している。
このふたつのプロジェクトは可能なのだろうか? 信頼できるものなのか? アンケート調査結果の変動は選挙人の疑いをあらわしている。“ロワイアリスト” のジンテーゼは活気がある、あるいは幻想的と映る。ある人々はセゴレンヌ・ロワイヤルの考えが彼女の人格より説得力があると判断する。他の人々にとっては逆である。そのプログラムに比べて、彼女の毅然とした態度とエネルギーと意思がより多い支援を引き起こす。フランソワ・バイルーには、右への投票も左への投票も否定する以外提案がないのに比べ、彼女の人格とプロジェクトは、いずれにせよ変化をもたらすものだ。
哲学者アランは (Alain 1868-1951) 、保守と左派の対立を否定する人間は保守として認識しうる、と言っている。
Patrick Jarreau / パトリック・ジャロー
訳者後記:なんだか、卵が先かニワトリが先か風サヨ・ウヨ定義部分はいまいち感心しないですが、ドッチに転んでもボク知識人だもん、の極めてル・モンド的記事であります。
さて、こちらはいっぺんに夏になってしまいました。今日は一日外で動き回ってあまり時間がなく(いつもより余計に)手抜き訳=猫訳であります。しかし、来週日曜は第一回選挙、ああ。
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