中学生だったときに、数学やら化学やらの授業がめんどくさくて毎日学校の図書館に通って、とにかくナンデモ読み散らしていた頃がある、1日三冊。なんでも読んだ。時は、あの1968年のあたりか。。。当方14歳のころ。
図書館で借りて読んだ本に、サルトル・カミュ論争というのがあった。TVに写る学生運動とかを見ながら育った。近所の(そこに行くつもりだった)高校でもブロックアウトとかハンストとかやっていた。べ平連の雑誌を横尾忠則の表紙がかっこよかったんで無理して一回だけ買ってみたり。当時マンガで読んでいたのはコム・ガロ・少年マガジンや時々少女フレンドとか:宮谷一彦、赤瀬川源平、忘れられない青春残酷物語の永島慎二。自分も、イラスト描いて新聞社に贈り、掲載されて500円もらったりした(たぶんサンケイ、もしくは東京だったか、、)。
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きのう、こちらの国営放送FR2で、サルトルが主題のTV映画第一部が放映されていた。なんとなく見ていたんだが、過去に見ていたドキュメンタリ映画や写真とか、聴いたことのある声とも上手く重なるサルトルのディスクールが、妙な具合に上出来で面白かった。女タラシ(でもあくまで鋭利な)サルトルと鉄血マネージャーのカストール、というキャスティング。
残念ながら期待したカミュは出てこない。サルトルとボーヴォワールは、サルトルの書斎にかかってきた電話でカミュの死を知らされる、、という扱いだった。
ヌーベロプスの御大、80歳をすでに越えたジョン・ダニエル(出生はアルジェリアである)がカミュに関する本を出してもいる。最近カミュをめぐる出版書は多いのだ。
記憶で書いてるから定かではないが、問題とは、いったい“目的は手段を肯定するか?”だったと思う。究極にある(はずの)革命達成のためには、イノセントな人間を暗殺しうるのか。党(あるいは国家)と個人の、どちらがより重たいのか。展開すれば、ファシズムとスターリニズムと、結局のところどちらも同罪であるのか。。。スターリンとヒットラーのそれぞれの犯した罪は比べうるのか、否か。植民地主義とは、資本主義過程上の必然だったのか。同時代に遅れてきた列強にはファシズムと言う道以外に可能性はなかったのか。そして、ニーチェもショーペンハウエルも(ヒュヒテも、ヤースパースも、キルケゴールも、ついでにといってはなんだが、ワグナーも、そして当然フロイトも、、、)結局のところ、時代に閉じ込められていたのではないか。。。
そして、何よりも。一人の人間が、いや何万や何十万や何百万や、もっとたくさんの人間が、(生きているにしろ、死んでしまったにしろ)単なる数字に還元されてしまう時。自分の名を失い、国を失い、家を失い親の名を失い、時には子を失い、それでも風や雨や空腹や苦痛や、時には拷問や強姦や略奪や、嘘や汚名や、、ありとあらゆる苦痛を飲み込まざるを得ない時。どんな思想が可能だと言うのだろうか。
もういちど、カミュを読んでみようと思ったりしている。母国語では、“不条理”と訳されていたはずだ。そして埴谷雄高には“不合理ゆえにわれ信ず”という作品があった、な。
(そして、われらが時代には、モーツアルトは生まれるべくもなく。)
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経済戦争、という国境を越えた実体のない争いがあって、ヘーゲルの“思想”も“国家”もなんも蹴散らせて、ただただコーラテラル・ダメージを人々や政治や社会を含む文化全体にも、自然にも強要している、としか思えない。不幸を倍増しているとしか思えない。
株価が、オイル価格が、ストックオプションだのドルの価格下降や円の上昇や、個人情報の管理や、消費の上昇や、購買力や、やたらそこここに設置されたヴィデオ・カメラや、平均寿命の延長だろか、(払ったためしのない)年金や、未来だか将来だかしらないけれどつまり、これからやってくる“時間”だとか、なんだかんだで、一体、誰が“幸せ”になるのだろうか。
あらゆる場所に壁を(米国とメキシコ間国境、そしてもちろんイスラエルと非イスラエル間)、あるいはナショナリズムという見えない、古くて同時に新しい壁を作って、問題があれば法“専門家”にまかせる(そこには数字しか見えてこないのだ)。
元来の、人間と人間の、具体的なつながりは壁を越えてしまうしまうはずではなかったのか:音楽・におい・食・触感・ことば・色・空気・声・涙・血、そしてともに生きた時間・記憶etc.はどこにあるのか。
数字には還元できない、一瞬の、動作やまなざしの、ことばやにおいや、風や光や風景や絵画や音楽や、さらには酒や食べ物や、それらもろもろの“美”としかいいようのない“価値”を、一体わたしたちは今でも共有することができるのだろうか。
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ところで、
カミュは“アントロ、ラ・メール、エ、ラ・ジュスティス. ジュ・ショワジ、ラ・メール.”と書いたと誰かが言っていた。で、このラ・メールって海のこと、それとも母親のことだったか?
“異邦人”は、仏原文で読みきった最初の本で、実家においてきたフォリオ版はいつの間にかなくなってしまったのです。
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日本で報道はされたのだろうか、どうか。以下は、今年一杯で国連事務総長10年の任期を終えるコフィ・アナンの11日のディスクール記事。ルモンドから
Bonjour, Neshiki!
Je me permets de vous confirmer que c' est bien sa mère que Camus préfèrait à la justice. La citation exacte étant, autant qu'il m'en souvienne:"Entre ma mère (...) je choisis ma mère". Je n'en connais malheureusement pas la référence.
D'autre part, j'ai voulu m'informer sur 埴谷雄高 que vous évoquez dans votre texte, et ai trouvé ceci:晩年は吉本隆明と、コム・デ・ギャルソン論争で激しく対決した。
(article de Wikipedia). Sauriez-vous par hasard quelque chose sur cette controverse?
Cordialement.
投稿情報: hikikirinokogiri | 2006-12-13 11:20
Bonjuour à toi, hikikirinokogiri !
Merici pour la reponse. En faite, similitude (ou + précisément homonymie) de "mer"et "mère"m'intrigue..et tous les deux sont évidemment en feminin, n'est ce pas.)
Concernant l'anecdote entre Haniya et Yoshimoto, malheureusement j suis pas au courant; j'ai quitté le pays bien avant. Mais je pense à y chercher car c'est très ...mangathique ou manzai; j'adore ça.
Cordialement et à bientôt.
投稿情報: 猫屋 | 2006-12-13 14:20