以下はル・モンドで読んだフランス禅レポート。クリップしときます。
《禅であること、精神性と流行の間で》、とかいったタイトルで、
"Un psychologue va vous aider à porter les valises, le zen vous aide à les poser, se félicite Noëlle. On s'aperçoit de la vanité de ses problèmes. Au lieu de se crisper dessus, on les lâche." と、禅をプラクティスする59歳のノエルという女性が答えている。「精神医は人が重い荷物を抱えるのを助けようとするけれど、禅はその重みを放り出す(置く)ことを助ける。問題の無意味さに気づく。問題に苛立つかわりに、人はそれを手放す。」とノエルは賞賛する。
記事の最後でアヴィニョンで禅道場の責任者Jean Rossi/ジョン・ロッシ氏は、毎年100件問うの問い合わせをうけるが、実際に同道場へ来る人々の人数は20人ほどで実際に残る人は2人ほどだ、と語っている。
これは他の国々でも同様だろうが、ZENアティテュードはコマーシャリズムに乗って一種のブームになっているけれど、実際に禅の修行に入る人の数は限られているわけだ。
でも、チベット仏教等のフランスでの広がりとは別に、禅ばかりではなく、もちろん某新興宗教や類型も合わせて、多くの日本宗教団体がフランスで活動しているし、まあ宗教と文化が未分化された形での茶道や武道、はたまた能や歌舞伎・暗黒系舞踏までが多く知られ、実践する人々が少なからずいることは事実だし、最近の邦人写真写真家や建築家、映画やマンガブームやJポップの影響なども考えると、“日本”(という国ではないにしろ、むしろ現象とでも言うべきか)が今の社会でひとつの“意味”あるいは“テリトリー”を持っていることは否めない、わけであります。
たまには、連続出演、です。
某サイト http://blog.goo.ne.jp/binbin1956/
によれば、フランスでは「セーラームーン」がブレイクしているとか。むむ、私は見たことも、読んだこともありません。だから、そのよさも、悪さもわからない。何が受け入れられる要因なのでしょうかね。
投稿情報: renqing | 2006-09-03 17:41
「セーラームーン」ですか。見たことぐらいはありますが、今頃になってルーズソックスなフランス小娘がミニのセーラー服でなにしようって魂胆なんでしょうか。。。援助交際でしせうか。たぶんオタクな仏少年たちを援助するのか、、、いや妄想が過ぎますか。
いや、マジで言えばBeckとかGTOとか、アニメになってないマンガもかなり翻訳されて、フナック(大型本屋チェーン)でもBD(現地マンガ)とほぼおなじ売り場面積を占めている。もちろんH系のマンガも含みますが、このマンガ現象はどう捉えるべきなのかまったく分からない。マンガから入って日本語を習う少年少女が日本語教室にあふれていますよ。。少なくとも(消費)文化のブローバリゼーションの一環だとはいえるだろう。
コナンやワンピース、ハンター・ハンター、剣心だったか、とにかくドラゴンボールで育った彼らは、たたみもちゃぶ台もクレヨンシンちゃんのえぐいギャグもそのまま飲み込んでいて、それらのマンガは彼らの幼児・少年時の生活に入り込んでいる。これはフランスばかりではなく、ドイツやイタリア、米国でも似た様な具合ではないでしょうか。
猫屋が少年時、“アメリカ”なるものを中心としてあった“サブカル=二次文化”の役割を今は、マンガ文化が果たしているといった観があります。今では、ハリウッド映画もマンガの影響を大きく受けていますしね。
投稿情報: 猫屋 | 2006-09-04 00:36
なーるほどぉ。「国家の品格」派はこれをどう評価するかみものですね。彼らはサブ・カルに「品格」を認めない。にも関わらず、「日本の」マンガが西欧に受け入れられていることに、彼らの自尊心はくすぐられる。後者の嬉しさが勝って、首尾一貫しないテキトーな解説をするんでしょうな。サブ・カルにも「日本の心」が宿っているとか。あー、やだやだ。彼らの大好きな明治でサブ・カルは逼塞してしまいましたが、その前の、徳川期後半の庶民文芸は、サブ・カルの黄金期だったのにね。八犬伝なども、戦闘美少女ものの一種ですし。
投稿情報: renqing | 2006-09-04 05:03
いやなかなかこれは大きなことだと思うんですが、ここのおまけにコメント欄だから好きなこと書いちゃいますが、“国家の品格”がこれまた極めて不明瞭な論理から出来ているのはrenqing 氏もご存知のとおり。あれだって、泡のごとくに消え去る運命のある意味では“サブカル”でしょう。
ただ、“日本”が問題になる時、面倒なのは“日本”という国が極めて想定しやすい形で提出されてて、これはトリッキーに流通しちゃう。実際にはそんなに簡単じゃあないんだが、日本の空気、とか呼んで見たりしてるけど、“言語化しえないもんが日本だ”てなまやかしがあって、広告代理店はこれをうまく使っている。同時に“日本の歴史”をちゃんと書いてる学者さんもいるんだろうが、たとえば丸山真男なんて大したもんなんだけど、彼が話題になる時はこれまた奇妙なアングルから読まれていたりするし、同時に司馬遼太郎なんてゆー小説かきが書いた日本歴史観がNHKでドラマ化されてかなり“日本の歴史”自体が変わってしまっちゃったりする(これの欧州ヴァージョンが塩野なんとかさんで、これも困ったもんですが)。
と書いたらきりないんだけど、一番問題なのは“日本”なるものを単なる国境と国籍の問題で片付けようとする安易さでしょう。実際のアイデンティティはそんなに1=1ではない。そこをごまかしてるね、意図的に。
投稿情報: 猫屋 | 2006-09-04 09:56