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2006-09-01

コメント

renqing

たまには、連続出演、です。

某サイト http://blog.goo.ne.jp/binbin1956/
によれば、フランスでは「セーラームーン」がブレイクしているとか。むむ、私は見たことも、読んだこともありません。だから、そのよさも、悪さもわからない。何が受け入れられる要因なのでしょうかね。

猫屋

「セーラームーン」ですか。見たことぐらいはありますが、今頃になってルーズソックスなフランス小娘がミニのセーラー服でなにしようって魂胆なんでしょうか。。。援助交際でしせうか。たぶんオタクな仏少年たちを援助するのか、、、いや妄想が過ぎますか。

いや、マジで言えばBeckとかGTOとか、アニメになってないマンガもかなり翻訳されて、フナック(大型本屋チェーン)でもBD(現地マンガ)とほぼおなじ売り場面積を占めている。もちろんH系のマンガも含みますが、このマンガ現象はどう捉えるべきなのかまったく分からない。マンガから入って日本語を習う少年少女が日本語教室にあふれていますよ。。少なくとも(消費)文化のブローバリゼーションの一環だとはいえるだろう。

コナンやワンピース、ハンター・ハンター、剣心だったか、とにかくドラゴンボールで育った彼らは、たたみもちゃぶ台もクレヨンシンちゃんのえぐいギャグもそのまま飲み込んでいて、それらのマンガは彼らの幼児・少年時の生活に入り込んでいる。これはフランスばかりではなく、ドイツやイタリア、米国でも似た様な具合ではないでしょうか。

猫屋が少年時、“アメリカ”なるものを中心としてあった“サブカル=二次文化”の役割を今は、マンガ文化が果たしているといった観があります。今では、ハリウッド映画もマンガの影響を大きく受けていますしね。

renqing

なーるほどぉ。「国家の品格」派はこれをどう評価するかみものですね。彼らはサブ・カルに「品格」を認めない。にも関わらず、「日本の」マンガが西欧に受け入れられていることに、彼らの自尊心はくすぐられる。後者の嬉しさが勝って、首尾一貫しないテキトーな解説をするんでしょうな。サブ・カルにも「日本の心」が宿っているとか。あー、やだやだ。彼らの大好きな明治でサブ・カルは逼塞してしまいましたが、その前の、徳川期後半の庶民文芸は、サブ・カルの黄金期だったのにね。八犬伝なども、戦闘美少女ものの一種ですし。

猫屋

いやなかなかこれは大きなことだと思うんですが、ここのおまけにコメント欄だから好きなこと書いちゃいますが、“国家の品格”がこれまた極めて不明瞭な論理から出来ているのはrenqing 氏もご存知のとおり。あれだって、泡のごとくに消え去る運命のある意味では“サブカル”でしょう。

ただ、“日本”が問題になる時、面倒なのは“日本”という国が極めて想定しやすい形で提出されてて、これはトリッキーに流通しちゃう。実際にはそんなに簡単じゃあないんだが、日本の空気、とか呼んで見たりしてるけど、“言語化しえないもんが日本だ”てなまやかしがあって、広告代理店はこれをうまく使っている。同時に“日本の歴史”をちゃんと書いてる学者さんもいるんだろうが、たとえば丸山真男なんて大したもんなんだけど、彼が話題になる時はこれまた奇妙なアングルから読まれていたりするし、同時に司馬遼太郎なんてゆー小説かきが書いた日本歴史観がNHKでドラマ化されてかなり“日本の歴史”自体が変わってしまっちゃったりする(これの欧州ヴァージョンが塩野なんとかさんで、これも困ったもんですが)。

と書いたらきりないんだけど、一番問題なのは“日本”なるものを単なる国境と国籍の問題で片付けようとする安易さでしょう。実際のアイデンティティはそんなに1=1ではない。そこをごまかしてるね、意図的に。

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