ハリケーン“カトリーナ”についてはル・モンド紙がかなり辛口の記事を書いている。《Après l'évacuation de La Nouvelle-Orléans, toute l'Amérique s'interroge/ニューオーリンズ退避のあとで、全米が自問 》(メディさん、fenestrae師匠、はやくヴァカンスから復帰してくださーい)
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イラクでのテロがらみパニックで1000人を越す死者のニュースがあった。休暇時に重なる航空機事故の悲報。かつてのチェルノビルでの死者が実は4000を越えていただったと言う報道。
関連はないが、イスラエル軍によるガザ入植者退去に4000名の世界中のジャーナリストが押しかけていたそうだ。これはイスラエル政府広報が繰り広げたメディア戦と見ると理解できる。ここでは死者および重傷者ゼロ。
天災と人災の境目が消滅している。もちろん人間の経済活動が自然システムを変えてしまった、という事実(としか考えられないのですよ)は横に置いておくとしても、危機管理あるいは航空機等の安全管理を怠った結果の死というのは人為のカテゴリーに入れられてしかるべきだろう。
かつては、天災をもたらすのは自然であり、自然に対して人間は限りない畏怖を抱いた。自然の“caprice/気まぐれ”に抗う人間が気象学だの河岸・海岸での防波堤だの、都市計画だのを作り出したのではなかったか。
事態はまったく逆の様相を示している。自由な、言い換えれば計画性のない経済活動とそれに伴う競争の結果、安全性を確かめぬままに開発はすすむ。飽和した生産・消費活動が新たなフロンティアを開発し続けることをいったん止める機能は現システム内に存在しない。“強者”が“弱者”を食いつぶすというきわめて19世紀的セオリーはますます健在である。
危機管理とは事後メディア管理にすぎないんじゃないか。危機予測機能はあったとしても、生産性重視システム内では短いスパンでの利益には先行しない。緊急な“開発”が重要なのだ。世界経済は緊急事項なのだ。落ち込んだ消費を活性化するのだ。
安心立命を願う個々人間の諸活動が“経済”というおばけに集約される。おばけのヘッドには頭がない。ヘッドに分かるのは数字だけである。ヘッドに届くのは死者の数ぐらいだろう。
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フランス表面積の半分に相当する米国南部の土地が浸水した。2004年にはすでに、強度4のハリケーンによる防波堤決壊予想のリポートが作られていたとは仏TVの報道。ルモンド紙によれば、ニューオーリンズ大学が出していた自動車を持たない住人の数は12万5千人。
TV等で見る限り、米国南部で繰り広げられた風景はアフリカの状況を思わせた。異なっているのは、カメラの存在と住人達の大きさ。権利としての銃砲所有。(翌日追記:国境なき医師団や赤十字も不在らしい←現地に入る許可が取れないようだ。)
多くの人々は自宅と周囲の界隈を出たという経験がないんじゃないか。TVとファースト・フードの日常。教会は動かなかったのか?災害保険にも入っていないと思われる彼らが政府の退去勧告に従わなかったのはそれが不可能だったからだ。車も持たないし、頼る先の住所もない彼らは、スーパー・ドームという名の難民キャンプ(三万人収容)でメディアがやってくるのを待った。(後記:スパードームから無事帰還した仏観光客(ホワイト系)は、白系難民は独自のルートを使って脱出できた、と仏TVカメラに向かって言っていた。)
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フランス国内では相次ぐアパート火災で多くの犠牲者を出したアフリカ系住民達への支援と社会集合住宅設置への運動が繰り広げられている。猫屋も土曜の昼下がり、デモの流れに合流してセーヌ沿いを歩いた。(使い捨てカメラでの映像は後日アップ予定)
物がありすぎる不便と、時間と空間がまだある幸せ。とか思う。