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2005-05-08

コメント

きまるり

仕事と家庭のように本来両立させるべき課題と、社会主義vs資本主義のように両立する必要のない課題を同列に論ずるのは間違い。
1960年代に既に旧ソ連では平均寿命が短くなりつつあった。社会主義が資本主義より優れているのであれば平均寿命が短くなるなどと近代社会にあるまじき事象が起こるはずがない。当時の議論に結論が出なかったのは、日本国内の社会主義支持者にとって、社会主義が宗教であったが故に議論が噛み合わなかったのだ。
概念を対立させて考えるのは問題点を明らかにするのに手っ取り早い手法で、これを避けるのは、議論ばかりで、「結論を出さない。問題を先送りにする」という姿勢に繋がりやすいのではないか?
確かに議論好きのフランス人好みでは有るが。

nekoyanagi

きまるりさん、こんにちは。
私の書き方がまずかったかな。今回のブログは課題の内容の是非ではなく修辞としての対立概念のたて方自体のことです。“議論好きのフランス”でもそうですが、こういった単純なキャッチ・ワードで主体的“思考”をこばむ傾向は、どこにでも転がっている現在形の困った現象です。
なお、今フランスで話題になっているのは、市場原理主義と社会民主主義の問題であり、社会主義vs資本主義ではないので、これは記憶にお留め置きください。

また、米大統領のラロビアでのスピーチを例としてあげたのは、すべてを自由主義vsコミュニズムに還元する、マッカシー以来何にも変わってない米現政権の世界観のずっこけ具合を指摘したつもり。欧州戦線終了記念に共産主義との戦いスピーチだったわけで、ま、これいちおう解説でした。

nekoyanagi

自分のための追記。
もう一度繰り返しますが、私がここで書き記したのは“対立”という提示の仕方自体であって、差異の否定ではない。“他者”は自己の否定である。けれどそれは他者自体の消滅を示しはしない。
関係性と主体・客体は別。母親を第一の他者として、自分から引き離すことで人は形成されるわけだけれど、母親と子供のの関係は優位劣勢では計れない。一人の人間は、ひとつの属性には還元できない。フロイトは、フロイト自身の病理を理解に入れないとヤバイ。レヴィ・ストロースの解読も、ストロースの読み事自体の解析/サヴォワール解析ができてないとヨーロピアン・トラップにはまる。コスト・パフォーマンスに書き換えられない不確定ヴァリューを想定すること。それは固定しない。踊り続けること。姿を変え続けること。パワーである続けること。

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