たまたまTVをつけてみたら、アルテのヨーロッパ・フォーラムと言う番組で、フランスの社会学者アラン・トゥレンヌ/Alain Touraine が 『ヨーロッパのどこでもいいが、誰かに仕事と個人生活のどちらが大切か、と質問しても仕事が一番大切だとか、私生活が一番大切だとか答える人間はいない。どちらも同じように大切だ。どちらが、と聞く質問自体が間違っている。』 とインタヴュアーに答えていた。もちろん、これはリベラリズム(フランスではこれはウルトラリベラリズム/市場原理主義のこと)と社会民主主義の対立をめぐる、つまりEU憲法批判に対する批判の発言である。
そういやそうだ。まったくそうだ。質問の仕方が間違っているのだ、大体が。
フランス対日本でもいい。フランス対アメリカ合衆国、でもいいし、日本対中国でもいい。資本主義あるいは自由主義対共産主義でもいい。自由主義対テロリズムでも同じだ。もちろん、保守対リベラルというちょっと前にはやった論法でもいい。
全部これらの対立シェーマ/図式は同じ構造をしている。そしてその構造自体に嘘は仕掛けられている。
なんでこういったレトリックに今の人間は簡単にはまってしまうのか?
教育のせいだし、回答をすぐ出さないとおいていかれてしまう社会のあり方のせいだろう。自分には他の答えは見つからない。
もちろん二元論が、あるいはテーゼ・アンチテーゼ→アウフヘーベンが有効な事例だってちゃんとあるだろう。しかしそれは個個の対象物の限定・規定がはっきりしている、そして判断をおこなう主体が判断能力を有しているという前提があって成立するだろう。それも、以上の推敲が間違った場合にはその間違いを指摘・訂正する可能性を含まねばならないだろう。これは蛇足だが。
元に戻って、現在の日々日常に巣食っている間違った対立シェーマの例をあげてみる。
第2次大戦欧州戦線終結60周年に欧州巡業しているブッシュ米大統領がラトビアを訪れ以下のような内容の演説をしている。(以下は記事からの抜粋意訳)
西側諸国にとって第二次大戦終了は平和の訪れだった。しかしバルカン諸国にとっては、共産主義の占領を意味した。アメリカ人は、共産主義者によるバルカンの占領と圧制を決して忘れないだろう。我々はあなた方の辛い歴史を理解する。
バルカンは恐怖政治から、また圧制政治から脱出し自由社会となろうとする国々にとってのモデルである。(注、バルカン三国は現在、EU そして OTAN のメンバーである)クーリエ・インターナショナルより/参考:ルモンド関連記事
旧ソビエト圏の歴史を私は知らない。けれどベルリンを解放したのがソビエト軍だということは知っている。ヨーロッパ解放は対ナチスであったことも知っている。それに、何度も映画にもなり、毎年話題になるノルマンディー上陸だけが欧州における第二次世界大戦ではないことも事実だ。米英軍によるドレスデン爆撃/旧東ドイツも、ドイツ軍によるレニングラード包囲戦/現ペテルスブルグも(注:関連過去ブログ)、第二次大戦の一部であり、ヨーロッパの過去である。廃墟と化したベルリンがふたつに分割された、これもヨーロッパの歴史の一部であり、やっと戦後が終わった感のある今、この歴史が見直されようとしているのだ。
この時点で、対プーチンというコンテキストは理解できても、終戦60年式典に《共産主義との戦い》を持ち出す大統領の(あるいはこのスピーチを用意しただろうライス国務長官の)歴史オンチぶり、もしくは欧州の歴史解釈力過小評価は、指摘される価値があるだろう。そして、欧米とひとことでくくる無理が米大統領には読めていない。
仕事と家庭のように本来両立させるべき課題と、社会主義vs資本主義のように両立する必要のない課題を同列に論ずるのは間違い。
1960年代に既に旧ソ連では平均寿命が短くなりつつあった。社会主義が資本主義より優れているのであれば平均寿命が短くなるなどと近代社会にあるまじき事象が起こるはずがない。当時の議論に結論が出なかったのは、日本国内の社会主義支持者にとって、社会主義が宗教であったが故に議論が噛み合わなかったのだ。
概念を対立させて考えるのは問題点を明らかにするのに手っ取り早い手法で、これを避けるのは、議論ばかりで、「結論を出さない。問題を先送りにする」という姿勢に繋がりやすいのではないか?
確かに議論好きのフランス人好みでは有るが。
投稿情報: きまるり | 2005-05-08 03:56
きまるりさん、こんにちは。
私の書き方がまずかったかな。今回のブログは課題の内容の是非ではなく修辞としての対立概念のたて方自体のことです。“議論好きのフランス”でもそうですが、こういった単純なキャッチ・ワードで主体的“思考”をこばむ傾向は、どこにでも転がっている現在形の困った現象です。
なお、今フランスで話題になっているのは、市場原理主義と社会民主主義の問題であり、社会主義vs資本主義ではないので、これは記憶にお留め置きください。
また、米大統領のラロビアでのスピーチを例としてあげたのは、すべてを自由主義vsコミュニズムに還元する、マッカシー以来何にも変わってない米現政権の世界観のずっこけ具合を指摘したつもり。欧州戦線終了記念に共産主義との戦いスピーチだったわけで、ま、これいちおう解説でした。
投稿情報: nekoyanagi | 2005-05-08 13:14
自分のための追記。
もう一度繰り返しますが、私がここで書き記したのは“対立”という提示の仕方自体であって、差異の否定ではない。“他者”は自己の否定である。けれどそれは他者自体の消滅を示しはしない。
関係性と主体・客体は別。母親を第一の他者として、自分から引き離すことで人は形成されるわけだけれど、母親と子供のの関係は優位劣勢では計れない。一人の人間は、ひとつの属性には還元できない。フロイトは、フロイト自身の病理を理解に入れないとヤバイ。レヴィ・ストロースの解読も、ストロースの読み事自体の解析/サヴォワール解析ができてないとヨーロピアン・トラップにはまる。コスト・パフォーマンスに書き換えられない不確定ヴァリューを想定すること。それは固定しない。踊り続けること。姿を変え続けること。パワーである続けること。
投稿情報: nekoyanagi | 2005-05-20 16:51