ジュネーヴ大学のアジア・オリエンタル学部長であるピエール-フランソワ・スイリ教授(日本の新しい歴史、ペラン社 2010年)に、フィリップ・ポンス氏がインタヴューしています。訳してみます(いつもの猫意訳/免責スマソ)。
「福島の人々は、自らを被害者ではなく犠牲(サクリファイス)であるかのように感じている。」
"Les gens de Fukushima ne se sentent pas comme des victimes mais comme des sacrifiés"
ル・モンド 2012年3月10日Pierre-François Souyri, directeur du département Asie-orientale à l'université de Genève et auteur de Nouvelle Histoire du Japon, Perrin, 2010.
日本には自然災害が多いですが、3月11日の大惨事は歴史のなかにどんな位置を占めることになるのでしょうか。また、世界中を感嘆させた、不幸に向き合う人々の“威厳”ある態度はどう説明できるのでしょうか?
歴史を通して、日本人は生のはかなさに対する特殊な感性を育ててきました。その感性に仏教の教える世の無常(l'impermanence)が接木されました。それが、自然災害に対する人々の態度、特に自然の猛威に直面して運命を受け入れる許容度、に影響を与えなかったとは言えないでしょう。
人のリアクションを語るにあたって、文化重視的な説明は、おうおうに簡単すぎるやりかたです。津波が襲った小さな漁港では、住民たちは昔から共同体内の強いつながりを編み出してきました。この連帯が住民たちの反応をよりよく説明すると思われます。。。そもそも、似通った状況下で、いつも日本人がこのように反応したわけではありません。
例としては、1923年の東京地方の大地震(死者10万人以上)時があります séisme dans la région de Tokyo le 1er septembre 1923 (édition abonnés) 韓国・中国移民が略奪行為に及んだとの噂が広まりました。これが外国人5000人の死者を数えるポグロム/虐殺に至りました。このケースでは、ナショナリズムと排他主義は残虐なリアクションの原因となりました。前世紀、1855年には江戸(東京の当時の名)が大きな地震に襲われています。
大きなポワソン・シャ/猫魚(ナマズ)が背をうねらせて地震を起こしたという噂が流れました。巨大な魚は破壊する化け物のように描写されていますが、同時にそれは統治者の間違いを正し、世に新しい飛躍を与えるものと捉えられています。地震のメタファー、ナマズの民間伝説はおそらく、徳川政権が外国勢力によって開国を迫られていた時期の江戸の小市民たちの、数々の不満と将来への希望の表現だったと考えられます。
大きな地震は、しばしば政治・社会の緊迫度をあらわにすると受け止められています。2011年の日本は、20年来の経済後退に直面しており、それは格差の再帰と生活の不安定さをもたらしました。一方では、中国を筆頭に隣国は拡大の真っ盛りであるのに、東京の政治家たちははっきりとした方向を示せないのだとわかりました。
福島の原発事故において人為的責任は問われるでしょうか?
福島はシステムの欠陥を明るみに出し、核危機管理体制にも連続した機能不備があることがわかりました;人為エラーの積み重なり、麻痺状態、予期不能、決定の不透明性、情報の不正確さ、想定外の地震と津波の激しさを当初読み違ったことの拒否、責任の回避、政府のコントロール複数機関の全面的破綻。。。これらすべてが、一種の“エリートたちの裏切り”のフォルムにひどく似通っており、住民のすべてが彼らエリートの尊大さと無能に捧げられた。このように、福島の人々は自分たちを被害者ではなく、犠牲(イケニエ/サクリファイス)のように感じているのです。
この考えは、現代日本を犠牲のシステムと考える歴史家Tetsuya Takahashi(訳注; 高橋 哲哉)が最近のエッセイで言及しています。かつて、何百万という兵士が軍事国家日本の栄光のために倒れ、そして、意図しないまま英雄とみなされ、その魂は靖国のサンクチュアリで崇拝されています。彼らは、帝国イデオロギー防護のための“サクリファイス”となったのです。
その後、日米戦略同盟の利益優先の名において、国は軍事基地を設置するため沖縄領土の一部を“犠牲”にする決定をしました。
すでに19世紀末に、関東北部の農民が足尾銅山開発によって引き起こされた河岸の汚染に反対し闘わざるを得なかったのも、その一例です。
農民たちは、死をもたらす産業を相手に闘うのは生きるためだと言っていました。通常値の10倍、あるいは100倍の放射能に汚染された地域に住み続けることを認可する国家は、別の利益優先のために、住民の一部をまたしても故意に“犠牲”にしているのではないでしょうか?けれど、Tetsuya Takahashiに対して、日本以外のところでは、そうはならないと誰が言いえますか?
Philippe Pons によるインタヴュー
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