ル・モンドで、朝日歌壇のホームレス歌人の話をフィリップ・ポンス氏が記事にしてたんで訳してみます。なお、仏語に訳された歌は仏語のまま、ウェブ版アサヒで見つけた原文を附加しました。
Les Japonais émus par la plume anonyme d'un poète sans abri
名も知れぬホームレス詩人の作に感動する日本人たち
ル・モンド2009年3月12日 東京特派員
次第に彼らは目につくようになった。けれど通りがかる人々はすれ違っても彼らを見ようとはしない。無関心、気詰まり。駅や公園のそこここに一瞬見え隠れする貧窮の影は、見る人々に思いがけなく自らの困難さを想起させる。物乞いをしない彼らは、消費社会の残り物で生き延びている。この(訳者注;消費)社会は彼らを無視し、彼ら、つまり日本の大都会のホームレスたちはその社会から離脱した。隣り合う二つの世界は、互いに見ぬ振りを装っている。
この、繁栄より『難破した』世界からひとつの声が立ち上がっただけに、困惑はさらに強まってくる。2008年末から日刊紙朝日新聞は匿名作家の短い詩を掲載している。そしておそらく、この新聞の読者たちは彼の言葉を通し、最終電車に乗り遅れぬよう急ぐ人々の足元で段ボールに包まって眠る『底辺の人々』を、初めて発見する。
他の新聞と同じように朝日にも詩歌欄があり、そこでは読者から送られ審査委員たちによって選ばれた短く峻厳でメランコリックな古典WAKAの詩を掲載している。詩歌コンクールは千年以上前から続く日本の伝統だ。そしてすべての日刊紙はそれを受け継いでいる。朝日に送られる激励の手紙の数から言って、街路に生きる失墜した詩人は多くの読者を感動させた。
グレコの歌
"Habitué à vivre sans clés, je passe la nouvelle année. De quoi d'autres dois-je encore me dessaisir ?"
〈鍵持たぬ生活に慣れ年を越す 今さら何を脱ぎ棄(す)てたのか〉、
"Cette rue s'appelle la rue des enfants infidèles. Moi je n'ai ni parents ni enfant."
〈親不孝通りと言へど親もなく 親にもなれずただ立ち尽くす〉
"L'homme ne vit pas seulement de pain, mais moi je passe ma journée avec le pain distribué..."
〈パンのみで生きるにあらず配給の パンのみみにて一日生きる〉
星空の下で、ジャック・プレヴェールの詩とジョゼフ・コスマの作曲からなるジュリエット・グレコのシャンソンは彼を眠りにつかせる:
"M'endormant sous un ciel étoilé, j'ai entendu la chanson de Gréco. Ce n'était qu'une illusion..."
〈美しき星座の下眠りゆく グレコの唄(うた)を聴くは幻〉
匿名の詩人は自作に Koichi Koda (訳者注;公田耕一)というペンネームでサインをしている。けれど詩歌掲載に伴う、通常記入が必要とされる住所欄には『なし』という簡単な記載しかなかった。作者はおそらく、横浜の寿町界隈に住んでいると想定される。ここは日雇い労働者向けのみじめな宿からなる野営地、街から追い出されたホームレスがたどり着く落とし穴のひとつである。
気の配られた文と(1950年代の)ジュリエット・グレコの歌への言及から、その人は教養があり、70歳以上ではないかと考えられる。朝日新聞の詩掲載から、匿名詩人はもうひとつの詩を送った:
"Lisant l'article à mon propos comme s'il s'agissait de quelqu'un d'autre, les larmes me sont montées aux yeux."(訳注;残念ながらネットに原文見つからず。意は、自分についての記事を読んで、まるで他人のことのように、思わず涙した、というもの。)翌日追記:みみみ氏が教えてくださった原歌
ホームレス歌人の記事を他人事(ひとごと)の やうに読めども涙零しぬ
朝日新聞は詩歌掲載に宛てられたわずかな謝礼を渡すため、名乗り出るよう呼びかけた。答えは「ご親切には感謝いたしますが、今のところコンタクトを取る勇気がございません」というものだった。
Philippe Pons
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こちらは関連朝日新聞記事です:秀歌連発のホームレス歌人へ 「連絡とれませんか」
翌日追記朝日新聞記事:ホームレス歌人さん返信「連絡とる勇気、ありません」
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またしても本文に全然関係ない話なんですが、こないだ読んだオプスの人間頭脳の記事に、エモーションが理性的判断能力に大いにかかわっている、って書いてあった。ふーむ、と思ったですよ。
もちろんどんな感情でもいいわけじゃあない。だが、理性と感情、あるいは感情と論理をきっちり別物として分けて考える説には閉口する。
エティックとか精神のエステティックとかが忘れられたり、コンパッション、つまり他者との共感が持てない人間が出てきたりするのは、“正しい(つまりスピンされてない)”エモーションを持つのが難しい時代だからじゃないかと、この頃疑っております。
関連オプス記事:A quoi servent les émotions ? Voyage au centre du cerveau
猫屋さん
朝日新聞の呼びかけに、公田耕一さんが応えた歌の原文は、
ホームレス歌人の記事を他人事(ひとごと)の
やうに読めども涙零しぬ
です。
3月9日付、歌壇欄に掲載とのこと。
歌壇欄はもう整理してしまいないのですが、
社会面に記事が立ててあり、公田さんから
投稿があったことなど記されています。
これはとってあった。
精神のエステティック、共感がまだあったよと思わせてくれました。
でも、昨日のasahi.comには、「炊き出しに路上生活者が長い列 苦情で中止…」
という記事がありまして、、
炊き出しに集まる人が増え、子どもが声をかけられたり、ゴミが捨てられたりで、近隣の人が困っているようです。
その人(たち)と全く関わりがない状態と、その人(たち)を知っている状態では、感じることは異なるでしょう?
誰も彼もに、気にしろ、関われとは言えないけれど、、、
ますます直接関わることは少なくなって、お役所と法を通しての
伝言ゲームだから。
でもなんだか想像力や、コミュニケーション力は消え行くのみに思える。
一方で、人と関わらないでも可能な一回的な創造力や(思いつきと言う)
うまーくやり取りするプレゼン力が尊ばれるから、物事はそれなりにマワッテ行くのです。
さみしーですね。
投稿情報: みみみ | 2009-03-14 08:53
みみみ氏、
原歌本文に書き込んでおきました。ネットで新しく見つけた記事も貼っておきましたが、久しぶりに見るアサヒ・ウェブの有様とか(国を代表する日刊紙に無料検索がない!!!)、ネット上でのこの歌人をめぐるフィーバー振りにも困惑してしまいます。どっかヘン。
“公田耕一”氏がこのヘンな流れに呑み込まれないよう祈るばかりです。
荒らしや、短期的各種ブームも同じだけど、なんでああなっちゃうんだろう。Decency と想像力でしょ、足りないの。まあ日本は消費先進国だからなあ、無理もないのかも。。。
こっちでも違法移民と住民の関係を主題にした映画“Welcome”が話題になっています。まさに普通の生活者と難破サイドの少年のかかわりを描いた映画なんですが、まだ見てない。見てからブログに書きます。
アートというのは人間と人間の間の見えない壁(見える壁も含め)を乗り越えるために必要な想像力を養う、と思いたいところです。ってか、それがなきゃこれから生き延びられないだろうが、と思う。
投稿情報: 猫屋 | 2009-03-14 15:13