ここから、早い列車に乗れば3時間ぐらいで行ける所の大学病院で、人が一人、生と死の間にあると、その人のパートナーのブログで知ってからこのかた、歩いていたり風呂に入ったり台所で雑用をしてたりすると、突然頭の中で昔聴いてたバッハのマタイ受難曲のコラール/コーラス・パートと弦楽部が響いて、思わず涙してしまう。
*
それで今夜はオリジナルCDを棚の奥から引っ張り出して、聴きながらこれを書いている。
この「マタイ受難曲」は、かなり昔の1966年もので、カール・リヒター指揮、ミュンヘン・バッハ・オーケストラ。あのフィッシャー・ディスカウがバリトンを歌っている。この録音は昔LP で買って、そのレコードは実家に置きっぱなしにして今は行方不明だ。
フランスに来てから、もっと後の録音のCDも買ってみたが、リヒターの厳密さ静謐さとは色合いが違って居心地悪く、結局誰かにあげてしまった。それから時間が経って、もう一度同じリヒター版CDを購入した。
*
私はカトリック教徒でも、バッハのようにプロテスタント教徒でもないし、小学校の頃近所のプロテスタント教会に半年ぐらい通ってみたぐらいで、棚には飾ってある仏版新約聖書だって自慢じゃないがちゃんと読んだことはない。クラシック音楽を習ったこともない。ドイツ語も理解しない。
だが、このバッハを聴いて理解した事柄は大きかった。
その頃は、母親が、末っ子の妹がまだ小学校だったんだが癌に倒れて、長い闘病生活を送っていた。私は、毎日仕事の前と後に病院により、帰宅後には疲れきった父親と弟と妹の世話をし、真夜中過ぎに自分の部屋でこの「マタイ受難曲」を聴いていたのだった。
「マタイ」の一番重たいメロディー・テーマは、「歩み」である。まあ最初から最後まで重たいのが受難であると言えばそうなんだが。。。
ゴルゴダの丘を登る重い歩みに平行して、コラールが歌い上げるんだが、この何日か勝手に頭の中で聴こえていたのは、このコラールと後ろで鳴る弦楽パートである。
フィッシャー・ディスカウが「マイン・ファーター」とか歌うところあたりは、ひとまず横に置いておく。悲痛なテーマなのに、コラールと弦楽部は昇って行くんだよ。あれって、ギリシャ悲劇の群集みたいなものなのかなあ:人々の声。
解放(délivrance)とか、超越(transcendance)とかなんだろうが、不勉強なものだから受難がなぜパッションで、同時に情熱なんだか今だに分からない。
だが、私にも分かるのは、何かが立ち上がっていくと言うことだ。
*
人は、生と死の間で闘っている。生まれたばかりの子供のことを思いながら闘っている。生きろ。
人の死に接する機会が増えて(単に僕が歳を取ったからにすぎないけど)友達の訃報に接する度に僕に聞こえるのは、僕にとっては、モーツアルトのレクイエムかなバッハのマタイ受難曲ではなく、どこかに死を受け入れ難いレクイエムが僕にはいつもきこえる
投稿情報: しんちゃん | 2009-02-08 07:01
えっとお、
バッハとモーツアルトはまったくちゃいます。その上、受難曲とレクイエムもまったくちゃいます。100ページぐらいその違いについて書けそうですが、、、まあ、無理か。
投稿情報: 猫屋 | 2009-02-10 02:07