cu39氏にご指摘いただいたように、ル・モンドに掲載された写真は、実は関東大震災時画像だったようです。関連するル・モンド記事、とり急ぎ訳出いたしました。
きわめて疑わしいヒロシマの写真
ル・モンド 2008年5月13日 ニューヨーク派遣員ル・モンド5月10日(日付)紙が、 記事"Hiroshima : ce que le monde n'avait jamais vu" に伴って掲載した、1945年8月6日米国爆撃機による世界初のA爆弾投下直後の廃墟で撮影と発表された写真は、本物でない可能性が高い。それらの写真は、1923年に東京とその周辺の関東平野を襲い10万人以上の死者を出した大地震のおりに取られたと見られる。
ル・モンド紙はなぜこれら写真を信じたのか? 写真は、5月5日にカリフォルニアのスタンフォード大学のホーヴァー・インスティチュートが公表した、キャップ・コレクションと呼ばれる10枚の写真の一部である。フーヴァーによれば、日本占領軍に所属していた元兵士ロバート・キャップが、1998年に提供している。彼は、ヒロシマ近郊の地下室でフイルム(一本、あるいは多数)を発見したという。そのうちの3枚の写真が3月に出版された歴史家ショーン・マロイの著作アトミック・トラジェディに掲載された。
ル・モンド紙はその時点で、マーセッド大学の研究者であるマロイ氏とフーヴァー・インスティチュートにコンタクトを取り、写真発見の状況とその公開について一連の質問をしたが、その時は出典の未確認資料をフーヴァーがその名のもとに公開しうるとは考えられなかった。マロイ氏は著書の出版以前に私たちの質問に答えている。そして、フーヴァーのアーカイヴ担当者Janel Quiranteは私たちの質問には「答えることができない」とし、以下のように書き送っている:「提供者に関する情報は公開できない。」 彼女は写真購買価格を示した:一枚が23.70ドルである。
《調査続行》
5月12日月曜の朝、マロイ氏はそのインターネット・サイトから画像を撤回した。それに続いてフーヴァー・インスティチュートも同様の手段をとった。研究者は、この日曜に写真が取られた場所に関する疑いを記した2通のメールを日本から受け取った。ル・モンド紙はそのうちの一通を入手している。これらのメールによると、関東大地震の翌日に撮られた写真が、コレクション内に2枚認められる。
1923年大地震の写真は日本でよく知られている。それらの写真とキャップ・コレクションとの類似性は、研究者に「フーヴァー・インスティチュートが示した信憑性推定は、不正確だ」と「確信を持たせた。」
1945-Hiroshima:ソース・イメージ(1945-Hiroshima : les images sources,Hermann) を6月に出版するパリのイナルコ(東洋語学校)日本文明と言語部門責任者ミカエル・リュケン(Michael Lucken)も同様に反応した。「ル・モンドでこれらの写真を見た時、ヒロシマ・イコノグラフィーに欠けていたひとつのチェーンにやっとたどり着いたと考えた。本物かと思われた」 とリュケンは語る。原爆投下に続く3日間に死体の山の写真が撮影されていたと、複数の証人が言っている。しかし写真は見つかっていない。1945年8月17日以降、破壊する目的で日本軍検閲はすべての画像を収集した。爆撃後の数日間に広島で撮られた約200枚の写真が現存する。しかし、死者を写したものは6枚を越えず、集団となった屍骸の山を写したものは消滅している。
インターネットで公表された10枚の写真を検討したリュケン氏は、少なくとも4枚の写真は1923年の災害時のものだと結論する。 氏は3点の論拠をあげる:「救援者のかぶっているカンカン帽は1920年代に特有だった - 1940年代にはヘルメットかひさつき帽をかぶっていたはずだ。工場の煙突が背景に見えるが、これは広島にはなかった。そして、核爆発が何本かの樹木を黒焦げにし、そばの何本かが手付かずだというのは信じがたい。」 リュケン氏は、他の写真のすべてが広島で撮られたものではないという「いくつかの手がかりはあっても、決定的証拠はない」としつつ、同時に「キャップ・コレクションの信用性に疑いをもった。」
フーヴァー・インスティチュート責任者たちによる長い会議の後、5月12日月曜に報道官Michelle Horaney はル・モンドに「火曜日まではいかなる情報も発表しないよう」声明している。私たちに対して、会議の結果写真の信憑性を認めるか認めないかの回答を拒否している。キャップ兵士の“話”は信用できるのだろうか? マロイ氏は、フーヴァーに残されていた対話録音と、「息子との長い会話」は、きわめて説得性あるものだと判断していた。
現在、彼は疑いを抱いている:「キャップは自分で言っていたとおりの人物だったのか?」 マロイ氏は、どうしてそれらの画像を有効と認めたのかを語る:「フーヴァー・アーカイヴは高い評価を受けていて、仕事のために私は何回も使っている。このコレクションが疑わしいと勘ぐる理由などまったくなかった。」 しかし今は、もっと詳しい確認調査をせず、権威あるヒロシマ記念館にコンタクトを取らなかったことを「後悔している。」 そして、写真の掲載された著作を送ったが、記念館はこれまで反応を示していない、と彼は付け加える。
なぜフーヴァー・インスティチュートは、写真がヒロシマのすぐ後に撮られたものだと認定したのだろうか? ヒロシマ記念館あるいは他の専門機関にコンタクトをとったのだろうか? 撮影日を限定するためのフイルム分析を行ったのだろうか? 行程の最後に加わったル・モンドが、日本における資格ある人物に意見を聞かなかったのは間違いだったとしても、フーヴァーが資料の確認を怠ったとは想像しえなかった。さらにマロワ氏の肯定が確信を強めた。
記事の筆者は、インターネッット上の数々のフォーラムで発せられた、写真に関する歴史オフィシャル・ヴァージョンに関する 疑いについて述べたが、誰も写真の真偽性については疑いを持たなかった。 フーヴァーの回答がどんなものなのかは、まだ分かっていない。
シルヴァン・シペル(東京のフィリップ・ポンスと)
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