東京からの手紙
《ニュー・プアー》たちはプロレタリア文学に熱中する
ル・モンド 2008年7月11日
De « nouveaux pauvres » se passionnent pour la littérature prolétarienne(ル・モンドネット会員のみリンク有効)タケジ・コバヤシ(1903-1933)のLe Bateau-usine de crabes は1930年代プロレタリア文学の傑作である。定期的に5000部ずつ再発行されているこの小説は、今年になって五万部が再版され、書店でも平台に置かれて文庫再版部門販売ランクでもしばしば上位三位になっている。単なる古典の再発見なのだろうか?おそらくそうなのだろう。けれど、意外なのはその読者層だ:若年不定期勤労者、よく《ニュー・プアー/ nouveaux pauvres》 とも呼ばれる若い人々である。
20歳から30歳の間の彼らは、パートタイム労働市場に投げ込まれた。抜け出すチャンスはまれな、生気のない未来という罠にはまったと彼らは感じている。日本での養成(formation)の大方は、企業内で獲得される。仕事から仕事へと移り変わることは、その養成を得る最適の方法とはいえない。そうして《ルーザー/perdants》 はルーザーであり続ける運命にある。200万人の青年たちがこの状況にある:彼らの状況は社会問題となった。多くが深刻な混乱に陥る;あるものたちは《飛行中に空中分解》する。
7月8日、25歳になる不安定職業者の破壊的怒りが、東京のコンピューターとヴィデオ・ゲームの街であるアキハバラで、7人の散歩者を殺害し、日本全体を驚愕に落としいれた:病理学的次元を越えて、この無差別殺人は悲劇的なかたちで、階級からの脱落者の社会的孤立に光を当てることになった、と犯罪学者のジンスケ・カゲヤマは強調する。
小説執筆後4年もたたない時点で、逮捕され警察による拷問で死ぬことになる共産党運動家タケジ・コバヤシが1929年に書いたこの短い小説に、彼らはなにを見出すのだろうか? 80年という距離のむこうに、これら途方にくれた青年たちは、オホーツク海で蟹を釣りカンズメにする工場船に乗り込んだ男たち、ときには少年たちの運命に、どうやら自己を見出している。ある日船員たちは、自分たちがこうむっている抑圧と暴力に対して反乱をおこす。出版後すぐ禁止されたこの本は、1948年になってやっと再発行されている。わたしたちの知る限りでは、英語訳がひとつあるのみだ(The Factory Ship, University of Tokyo Presse, 1973)。
《この本には、ヒーローも中心的人物もいない》、と出版社にあてた原稿にそえられた手紙に、タケジ・コバヤシは書いている。原稿は登場人物のひとりの以下の一言で始められている:《Allons, partons pour l'enfer !/猫訳;さあ、地獄に向かって旅立とうじゃないか! 》
戦後には同世代では最も重要な書き手を見なされていた筆者は、各登場人物を、それら出生地にまつわるニックネームで名指している。身体的特徴を描いてはいない。それぞれを識別する手段はない。
萌芽状態の労組
蟹工船の男たちのように、不安定職の青年たちは、それぞれの個人性は奪われ、他者と交換可能であり、《使い捨て》 だと感じている。いくらかの青年は、労組の萌芽を形作り、対抗しようと試みる。けれど、大多数は孤立する。
保守系月刊誌ブンゲイ・シュンジュウ(7月号)の記事内で、批評者にして詩人であり、1970年代ポスト・異議申し立ての主導的思想家であったリュウメイ・ヨシモトは、不安定職につく青年たちの間での蟹工船の人気を、『日本が1945年敗戦以来の新しい貧困に突入した』 兆候だと書いている:『日本人はもう飢えてはいないが物質的かつ精神的貧困と直面している。そして、ある青年たちは、同じように罠にはまった蟹工船の男たちに、自分の姿を見ている。』
タケジ・コバヤシが勉学した、オタル(ホッカイドウ)商科大学が開催する、作家の死後75年を記念するエッセイ・コンクールの本年度優勝者は、不安定労働市場にもまれた25歳の若い女性で、こう書いている:『蟹工船の男たちは奴隷のように働いていたが、闘争を共有した。今日、わたしたちはひとりずつ見えない手によって“転落させられ/descendus”、わたしたちは隣人を闘争の同士としてではなく、ライバルとして見ている。』
プロレタリア文学という豊穣な流れにあるこの偉大なテキストは、Les Semeurs という専門雑誌を生み、またJean-Jacques Tschudin(戦前のアヴァンギャルド大衆文化に関するすばらしい三部作を書いている作家;Philippe Piquier, 2007) は本書を主題とした研究を発表している(コレージュ・ド・フランス/Collège de France, 1979)。蟹工船のおかげで、今日の不安定職につく青年たちは、彼らの運命は歴史に刻まれていることを発見した。
フィリップ・ポンス
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猫屋後記:今はシンガポールで遊んでいる仕事中の、ドイツのKmiura 氏ブログでこのル・モンド記事の存在を知りました。残念ながら時間が足りなくて、やっつけの荒訳です(みなさんおよびポンス氏、ゴメンナサイ)。
日本人であるワタクシよりも長い時間を日本で過ごし、日本の歴史や日本文学に対する知識もワタクシの何十倍も持っているポンス氏には、いまさらながらですがリスペクト。
ご無沙汰です。相変らず、奮闘されてますね。「外国人」の凄さでしょうか、「蟹工船」のくだりは、泣けてきます。
「産業革命」以後の「労働運動」は、もうとっくに学習済みかと思っていたのですが、またまたゼロから、「労働運動」を構築せねばならぬのでしょうか?「歴史は繰り返す」が、こんな形で実現しようとは、「お釈迦様でもご存知あるめえ」で、やたら複雑です。
投稿情報: mysunshine | 2008-07-22 08:06
どもども。
簡単化してみると、“産業革命”ののち冷戦の終了と“IT革命”があって、ネオ資本主義体制に入った。よりグローバルな資本集中が多国籍企業によって行われ、金融システム自体が架空金融(クレジットシステムの複雑化・貨幣のヴァーチャル化・リスクの拡散がかえってリスクを大きくしたり、とか)化してバブル化して、はじけた。同時に世界経済を牽引していた米国ドルの下落があり、原油高騰があり、スペキュレーションがあり、食糧危機があり、エコロジー問題があるわけです。
そして新しいプロレタリア(フリーター・闇被雇用者)、新しいルンペン・プロレタリア(失業者・不正滞在者・ホームレス・難民)という階層が発生したわけですね。資本主義経済システム自体には、たとえば経済格差を短縮するとか、教育の機会をより多くの人間に与えるとかのレギュラターの役割はない。加えれば、“国家”の機能というのが、大きく変った。“政治”の意味が新しく問われていいのだと思います。
世界ガバナンス機構が必要なのかも。
先々週だったか、クーリエ・インターナショナルが海外プレスのマルクス関連記事特集をしていました。というわけで、今、いちばん注目すべきはマルクスだろうし、同時にフーコーの“権力”なんだろう。ネオ階級闘争ってことになるのかなあ。マルチテュードがどうそれに対応するのかなあ;ここいらはよく分からんのですが。
ただひとつアタクシにわかるのは、持たざるものたちが生き延びるには、相互援助がないとやっていけないだろう、ということです。いいかえれば、ネオ資本主義は超個人主義を前提にしてモノを売るわけなんだけど、カネがない貧乏人はそのシステムから逸脱はしないものの、システムのウラテをかかざるを得ない。そういった動きが組織性を持ちうるのかどうかは、これも分からんのですが。
付け加えれば、人類の歴史では、気候の変化や人口変化に伴って、ヒトはびっくりするような距離を移動した(これは動物も同様)。だが、現在ではその“移動権”みたいなものが、ごくごく一部の人間にしか許されていないわけで、これはちょっと変だなあ、とか最近思ってます。
投稿情報: 猫屋 | 2008-08-01 14:28