一行分だけ紹介、
"'Dans ce monde obsédé par le confort matériel, la France a besoin de catholiques convaincus qui ne craignent pas d'affirmer ce qu'ils sont et ce en quoi ils croient".
「物質的心地よさにとりつかれたフランスは、真の自己と自ら信じるものを明言するにいとわない、確信に満ちたカトリックを必要としている。」
アンリ・ゲノの筆によるものでしょう。
しかし、ローレックス・デイトナのブリング・ブリング、豪華ヨットとニューハンプシャーのマイクロソフト別荘でのヴァカンス、プラダ大好き奥さん・元トップ・モデルとのディズニーランドでのデート、コンプレックスのない自分だけ給与倍額、、、リストは長すぎるんで以下省略、、、よーゆーよ。
おまけに北京出張には自分の母親と息子を同行、中国共産党主席に息子を紹介するに「うちの息子にはキビシサ(autorité)というのが足りないんで、よろしくお願いします」と発言。こんどの彼女とのメディアつきデートには(彼女の子供も同行してたみたいだけども)彼女の母親が付き添い、ローマまで大統領専用ジェット(エア・フォース・ツー)で彼女の母親を連れて行った。(マザコン?)
まあ、この言説と現実の自分との間の乖離には、ふたつの説明が可能だろう(猫屋的には)。
自己の言っていることの内容を理解していないので、自己矛盾とはならない。あるいは、彼自身の中にすでに存在している乖離あるいは矛盾に自分で気がついていない。(あ、言ってるうちに自分の言説を信じるようになる、というパターンもあるが、これはちと難しいので横に置いとく)
始めの説が当たってるとすると、いつか世間はこの矛盾に気づくだろう。ふたつめの仮説が当たりだとすると、いつか彼は自爆するだろう。
参考:
Une journée de Nicolas Sarkozy au Vatican ヴァティカンでのニコラ・サルコジの一日(ラ・クロワ誌ウェブ)
ル・モンドの関連記事
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日曜に追記:やっと暇ができたんで、これまでちゃんと読んでなかったリンク先とか見てたんですが、サルコのいう“ポジティフなライシテ”ってなんだあ?と不思議になった。
そしたら、同じタイトルの記事が20minutes にあるのを発見。C'est quoi une «laïcité positive»? こちらはロイターの関連記事:Nicolas Sarkozy fait l'éloge d'une "laïcité positive"
もちろん宗教オンチ・歴史オンチである猫屋には突っ込みようもないわけですが、“ポジティブな移民” と “ネガティブな移民” というのがナンセンスなように、“ポジティブなライシテ”と“ネガティブなライシテ”というのも、どうもアタクシには分からない。 “コンプレックスを捨てた保守/droite décomplexé あるいはDécomplexé(e)” とか “タブーのないナンタラカンタラ” と同じぐらいチンプンカンプンなわけであります。
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もひとつ後だしクリップ;ル・モンドでジェズイット(キターーーー!って、、イエスズ会のこと)の教学の先生がインタヴューに答えてます。タイトルは《信者であろうとなかろうと、すべての人々はクリスマスを祝う》 (知り合いのイスラエル人とか祝わないんですが、、まあ、クリスマスだし、いっか)
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クリスマスだし、ということでおまけ。ル・モンド週末版の記者が“ル・モンド紙の取材費としてはもっともオバカな50ユーロ”を払ってサンタクロースの衣装を借り、デフォンスのショッピングセンターでの子供と大人の反応をフィールド取材した記事です。(なお、デフォンスのユニクロ、先日猫屋が調査しましたが、狭いし商品は高いし500円のTシャツとかないし、5分で退散いたしました)
アンリ・タンクの文章を読むと、ローマも「ここまで言ってくれるとは」というものだったようですね。そう言えば日本でも7年ほど前に神道界にリップ・サービスしすぎて問題になった首相がいましたね。
ライシテ・宗教問題についてのサルコジの路線は、基本的に内相時代に言っていたことと同じなんだと思いますが、今回は大統領として初めて大きな発言をしたということで重要なのでしょうか。大統領選挙のときには、ライシテの問題はほとんど争点になりませんでしたからね。
大統領選において、ライシテ問題をクローズ・アップすることは、サルコジにとってというよりも、ロワイヤルにとって難しかったようです。社会党を支持しそうな人には、ライシテを守れ、という人と、開け、という人の両方がいて、票を割ってしまう危険があったのだとか。
投稿情報: Kiyonobumie | 2007-12-23 01:48
キリスト教徒であれユダヤ教もイスラム教も仏教も包みこむライシテという場が理想なんでしょうが、まあ仏教はともあれ、一神教では簡単にいかないし、無宗教であればいいのかという問題でもないですね。ライシテとは宗教と政治の出会う場あるいは空間だと思っています。難しいですよね。
まあ、セゴレンヌのカトリック性は育った環境なんだろうなあ、とアタクシは納得しちゃうし、バイルーのは土地のにおいがする。ただ、今回のサルコジの演説は、ライターアンリ・ゲノまんまな気がします。引用なんてもろそうだ。アーティフィシャルなんですね。(つまり言葉を行動が否定してしまう: 教皇との会見のすぐあと、数メートルのところで携帯を取り出してSMS読んでたそうです)
なんだか、米国でのアメリカ賛歌ディスクールとおんなじプロセスだと見える。トッドが言うところの「大物にマンセー」作戦。
それと付け加えれば、この頃のカトリック流行りは、ドミナントな金信仰に対する流れだと思っています。
投稿情報: 猫屋 | 2007-12-23 02:43