Alain BADIOU entretien avec Frédéric TaddéïCe soir ou jamais 25/10/07
France 3
Alain Badiou/ Frédéric Taddéï
à propos de la sortie de son livre :
De quoi Sarkozy est-il le nom ?
ス・ソワール・ウ・ジャメ(意;今夜しかない) 2007年10月25日 France 3
アラン・バディウ / フレデリック・タデイ 新刊:De quoi Sarkozy est-il le nom ? (サルコジの名はなにを示すのか、、、かなり適当な訳だなあ>訳者)に関して
FT あなたは現在においてもっとも批判されている思想家であって、もしかしたら最も恐れられている思想家がアラン・バディウなのかも知れません。テレビにも登場しないし、通常は一般人に影響を与えたることもないけれど、学生や知識人に対しての影響力を持っている。あなたは高等師範の哲学教授であり、ヨーロッパ中で、また北アメリカ・南アメリカで哲学セミナーを行っている。そして人はあなたをロベスピエールあるいはサン-ジュストに比較する。人はあなたを、最後の革命思想家だと批判するわけですが。。。
AB けれど、誰の首も切られてはいないですが。
FT 今までのところは、とあなたの敵対者たちは言っています。。
AB ある意味では、現在の思想家にとってその比較ははまったく名誉なことです。私が恐れられている、とあなたは言う。おそらくそれは結構なことなのでしょうが、自分ではそのようには考えていない。今は単に、自分の作品を展開し、自分の考えを展開し、自分が正しいと信じることを言う。。。それが私にとって哲学の機能なのです。
FT アラン・バディウ、あなたをロベスピエールやサン・ジュストに比べる意味はお分かりでしょう。これは、あなたには首を切らせる能力がある。結局、あなたの文章にはその力がある、そういうことでしょう。
AB 私の書き物を読んだ後に、人々は首を切りたくなる衝動に襲われるといった印象は持ってはいないんですけれども。(作品の)多くは、かなり複雑だし、哲学的で、コンセプチュアルで、どちらかといえばプラトンやデカルトあるいはヘーゲルの伝統系列に属する。まあいずれにしろ、真実とはつねに恐るべきなにかを含んでいる。恐ろしいのは、私ではなくこの真実なのかもしれません。
FT あなたは暴力の回帰を予告している。これは本当なのですか?つまり、あなたは暴力の回帰を望んでいるのでしょうか?
AB 暴力の回帰を私は予告はしていない。私は、暴力が現存する、と言っているだけです。これは同じではありません。よく言われているのとは反対に、私たちの社会は暴力社会なのです。共同寮に住む書類を持たない(非合法滞在)労働者たちと日々の付き合いがあるのですが、彼らは絶え間なくこうむる暴力を生きている。私たちの社会は決して平和なものではない。世界全体はさらに暴力的なものだ。極度に血なまぐさく暴力的な戦いがアフリカ大陸やイラク、アフガニスタン等で展開されている。それが存在しないかのようにはやっていかれない。政治にしろ哲学にしろ、この暴力の存在とその生成(son devenir)について考えねばならないのです。
FT アラン・バディウ、あなたはこの暴力をこうむる抑圧された者たちが、さらに大きな暴力で答えるだろう、と言っている。
AB いいですか、まったくその通りというわけではない。私は、一般的に言って抑圧された者が有するたった一つの武器とは、彼らの規律(leur discipline)なのだと信じています。彼らは何も持っていない。金もない、武器もない、彼らには権力がない。彼らが持ちうるたったひとつの力とは、彼らの組織力(leur organisation)と規律だけなのです。したがって、私が呼びかけるのは、暴力というよりは、組織力と団結と統一性なのです。
FT あなたはアンティ・セミティズム(反ユダヤ主義)とも疑われている。とりわけ、ユダヤという名についてのセミナーをオーガナイズしたと批判されていますが。
AB まず、事実から言って、それは単なる純粋な嘘でしかない:ユダヤという言葉についてのセミナーを企画してはいないし、第二には、これは深刻な話、反ユダヤ主義という告発は、私に言わせればまったく耐え難い誹謗にあたる。この言葉は、「ドグマ的」とか「懐疑的」といった言葉のように扱いうるものではない。。。これは真の侮辱であって、誰であれ私を反ユダヤ主義者だと呼ぶことは、私を侮辱するものだと判断すると、ここで強調しておきます。
FT アラン・バディウ、あなたは“ De quoi Sarkozy est-il le nom ? ” とタイトルづけられた本を出版した。これは疑問でもないし、ニコラ・サルコジに関するもう一冊の本でもない。したがって、この質問に答えてみることができるわけです。あなたにとって、サルコジという名が何を示しているのかというと、恐怖と戦争だ。とすれば、誰の恐怖なのでしょうか、誰に対する戦いなのでしょうか?
AB 考えるに、それは恐怖し、実際に、保護を求める社会の名なのです。この社会内に、暴力をもたらすものに対して同様に暴力を行使しうるところの、保護者としての支配者願望を感じます。私の考えでは、この恐怖は現在のフランスが、栄光の時代のあと多くの特権や豊かさを有しながらも、中国やインドといった新進大国、あるいは合衆国といったより強い国々によって支配された世界内で中型の力しか持たないことから由来するのだと思います。その結果フランスの将来は不確かなものになった。私たちは、この国がどこへ行こうとしているのか知り得ない。偉大な過去があるのは分かっている。だが、偉大な未来が来るとは確信できないでいる。これが恐怖という感情、閉鎖の感情、保護者への願望を生み出し、そしてサルコジがこの現象の名となるのです。サルコジへの投票は、保護への要求です。
FT では戦争は?
AB では戦争ですが、思うに現在2重の戦争があるのだと考える。外部で行われている戦争でのサルコジの存在はしだいに明確になっている。これはフランスが世界で行われている戦争に次第に加担していくことでもあって、アフガニスタンでのコミットメントや、合衆国の戦争、特にイラクでの戦争におけるアメリカへの服従がある。そして内部での戦争、つまり最も弱いものたちに対する強化された戦争がある。
FT といいますと?
AB つまり、書類(身分証明を)を持たないもの、金のないもの、きつく不毛な仕事をなしているもの、かつていた土地では生きていけないがためにここにやってきたもの、それらすべての人々をリストアップし、新しい規則を課し、抑圧的法の規制下におく。外国人滞在条件に関するCESEDA (移民)法は、極悪人処罰法(scélérate;19世紀末のアナーキスト処罰法)と価値つけるのに私が躊躇しない法であり、分離政策の法であり、迫害の法であって、廃止を求めるべき法令なのです。サルコジとはこれらすべての名なのです。結局のところ彼は、大統領候補者となる以前、長い間警察の参謀長官だった。
FT 内務大臣。。。
AB そのとおり。
FT 恐怖とは、あなたによれば、それはペタン主義である。またしてもペタン主義なわけですが。ペタン主義がある日消えてなくなることはあるのでしょうか?
AB ペタニスムとは、私の意見では、1815年の王政復興以来フランスの基礎をなすひとつの主題なのです。ペタニスムとは、国内のトラブルに対して隷属化を選ぶ人々、国内に起こっている問題におそれをなして、その恐れから逃れるために新しい、拘束を、隔離を、あるいは迫害を受け入れる人々のことです。これがペタン主義のより一般的定義なのです。ペタンのケースでは、それが特に強調されている。なぜなら人々は明白に、フロン・ポピュレール(人民戦線)を恐れるあまり、闘争の継続よりはドイツによる占領を願った。一般的に言ってペタニスムとはこういった恐怖の政治なのです。サルコジはそのソフトな見本なのだと考えます。
FT では、アラン・バディウ、あなたには《不変》セオリーがある。なかなか複雑なので、ディテールには触れず、あなたの著作の読者に任せたいと思いますが。少なくとも《出来事(複数)》というのがあって、あなたはそれらを待っている。他の出来事に比べより重要な出来事。フランスでの、あなたにとって最後の重要な出来事とは1968年5月であった。。。
AB 国内に限って言えば、そうだと考えます。
FT 次を待っているわけですね。どうやってその出来事を知ることができるのでしょうか。あなたの意見では、それはすでに準備されているのでしょうか?
AB ああそれにしても、それほどの大きな出来事がそんなに手早く起こるのかどうか、私には分からない。これからやってくる出来事を準備する前に、過去の出来事に忠実でなければなりません。つまり、たとえば68年5月に忠実でなければいけない、結果として、周知の《68年5月と決定的に決別するべきだ》というサルコジの根本的主題に反対しなければならないのです。
FT お話の途中ではありますが、68年5月には、どちらかというとブルジョワ的リベラル-無政府主義傾向があったわけで、あなたはそれらとは相容れないのではないでしょうか?あなたはどちらかというとマルクス-レーニンあるいは毛沢東に傾向していた。
AB はい。私は、知識人と学生、労働者、大衆の人々の統一、つながりを探し求める傾向にあった。現在でもなお、この統一こそが真の出来事の条件だと考えています。国内的見地でいえば、これが社会自体内における新しい進路なのです。通常では出会うはずのない人々の出会いだ。68年5月は、大きなスケールでの出会いだった。恋愛は出会いである。歴史的出来事も同様に出会いなのです。出会う習慣のない人々が出会う。
FT では現在、誰が出会うのですか?
AB 若い人々の一部、知識人、フランス人低所得社員・公務員、そして最初に迫害される、つまり外国からやってきた人々、そしてなんら仕事のない人々だと考えます。
FT あなたにとって、つまり次の革命におけるサン・キュロット(過激共和派)は彼ら、移民、特に非合法滞在移民、書類のない人々、難民なのですか?
AB 次の革命にサン・キュロットが登場するのかどうかは分かりません。同様な繰り返しはありえないにしても、何も持たない者がもっとも何者にでもなりうる。インターナショナルはそれを歌っています。私たちは何者でもない、ではすべてになろう、と。誰でもない者がすべてになる、それが出来事であると私は考えます。何者でもない者、存在しない者、何にも属さない者が、突然そこにいて、彼らが本質的ポジションを占めるのです。
FT インターナショナルを引用し、あなたの本はその予言で終わっているわけで、あなたにとっての未来はコミュニズムである。では、あなたのコミュニズムとはレーニンの、毛沢東のものと同一なのですか?
AB いや、それはある意味一般的で不変なコミュニズムです。私が深い意味でコミュニズムと呼ぶものは、マルクスが初期に与えた意味に同じく、利益のルールから解放された社会であるわけです。その内部で人が探求し、なし、望むものが、端から端まで個人あるいはグループの利益によって規定されない、そういった社会です。それがコミュニズムです。コミュニズムとは、すべての人が多機能を有する社会でもある。つまり、そこでは知識人や金持ちなどと、底辺の人々との間に組織化された仕事の分割がない社会です。それは、みながすべてのことを少しずつなす社会だ。コミュニズムとはその名なのです。この視点で言えば、それは昔から存在していたのかもしれません。ローマ人に対する奴隷の反逆、スパルタカスの反逆にはすでにコミュニズムの要素がすでにあったと考えています。そこにはすでに、すべての人々を想定した、すべての人々が同等な図式内にある要求があって、それはひとつの思想(une idée)なのです。これはプログラムではないにしても、この思想を抜きにしては政治活動になんら意味はないと考えます。なぜ意味がないかといえば、どうやって一方と他方の利益をネゴシエートするかという問題になってくるからです。
FD 普通選挙を信用していますか?
AB 普通選挙も、私の考えでは、他の事柄と同じです。形態という視点から判断してはいけない。その内容を判断すべきだ。たとえば、いずれにしろ1940年にまったくもって正当な議会がペタン元帥を任命していますし、ワイマール・ドイツでヒットラーを任命したのも正当な議会だったことを思い出していただきたい。普通選挙がきわめて興味深い結果を導くこともあるし、惨憺たる結果にいたることもある。したがって、私は個々の証拠に基づいて判断いたします。
FT コミュニズム、これも同様にひとつの思想(idée)でしょう。
AB もちろん。
FT 死者たちと、囚人たちと、強制収用所レベルでの証拠に基づいて判断されたわけです。。。
AB しかし、コミュニズム-レーニズムとは特殊な形態であったのです。私がお話したもののレジュメではまったくなかった。それは国家のひとつの形態を提示した。単一党が国家を支配すると提示しました。それが1917年の蜂起を勝利させる唯一の手段だったわけですが、私たちは1917年に生きているわけではありません。私たちには、即時の蜂起勝利に関する問題はないのであって、私たちはこの種のコミュニズムからは自由であり、そして私が属コミュニズム(le communisme générique)と名づけるのは、行動を調整するところのコミュニズムなのです。
FT けれど、このコミュニズムは新しい人間を招集するわけです。コミュニズムは新しい人間を思考し、少なくともこのようにクメール・ルージュによる虐殺が説明されているわけです。このあなたが夢見るコミュニズムとは、新しい人間を必要とするのでしょうか?
AB そうとはまったく考えません。あるがままの人間とともに行うべきだと考えます。あるがままの人間の能力でもって。人間の可能性についてふたつの対立する見方があります。実際、近代化された資本主義における確信とは、基本的に人間は自分の利益を追求する能力があるというものです。そしてコミュニズムは、実のところ、人間には別の能力もあるという思想なのです。人間は無欲でもありえるし、自己の権力保存以外を目的とした社会的オーガニゼーションもなしうるわけです。伝説化した新しい人間ではなく、それらを可能とする人間と共になすべきだと私は考えます。