サダム・フセイン絞死刑をめぐってこちらの報道を読んで納得したんですが、合衆国とヨーロッパを分ける海溝にあるのは“おっぱい”ばかりではない。死刑を認めるか否か、というのもあるんだよね。
アタクシは日本にいた頃も死刑廃止論者であったのですが、理由は「神がいない以上、個人を死罪と裁ける個人がいるわけない」と言うものだったし、同時に一人の法専門家と話していたら、彼は「人を裁くとき、いつだって間違う可能性がある。裁判官として間違って人を殺してしまう可能性が常にあるわけだ。だから専門家としての自分は死刑に反対である」と言っていた。ですっかり納得。
別の観点、高利性、つまりコスト・パフォーマンスに則って言えば、ひとりの罪人を自然死に至るまでケアするのと、イッキに抹殺するのでは、どちらが安上がりであるのかは、小学生にでもわかるはずの算術である。逆に、その罪人にとってイッキに消滅するのと、一生牢獄で過ごすのと、どちらが望ましいのかは結局本人にも一貫した確信はないだろう。
一方、死刑制度があれば重度犯罪が減少するかという疑問に関すれば、合衆国テキサス州の実情を見れば、そうとも言えないと思う。
やはり、ヨーロッパの根っこはヒューマニスムだよね。
でもって、ヒューマンとは、人間とは、極めて不可解な動物である。これが今のところアタクシの得たたったひとつの確信であります。
「死刑」ってのは、つまるところ復讐でしょう。最小限の苦痛しかともなわない消去が復讐として適当とは思いませんが、公権力に委ねるのであればこの程度、という妥協だと思っています。
たぶん欧州は「復讐を繰り返しても死者が増えるだけ」と考えているのでしょうなあ。
私個人としては、仮に家族が理不尽に殺されるようなことがあれば、別に死刑は望みません。人生をすべて棒に振ってでも、犯人に復讐します。可能な限り残酷な手段で、可能な限りの苦痛を与えようとするでしょう。
投稿情報: Hi-Low-Mix | 2007-01-06 06:48
人が人を殺すことがいけないことなら、国家が人を殺すこともいけないに決まっています。殺人がダメで、死刑ならよい、ということを合理的には説明できません。
この点、猫屋さんの第一理由と同じです。
また、帝銀事件の病死した平沢貞通のように、明らかな冤罪も後を絶たない。
死刑制度を残すべきだというなら、法務大臣が死刑のボタンを押すことにしたらいいのです。おそらくj誰も推せないでしょう。
その一方で、殺人被害者の遺族が、殺人者と同じように社会的に抹殺されてしまう、という日本の現実もあります。私がTBしたように、殺害された遺族が、死刑に反対しているような場合でもそうです。およそ、現代日本には、基本的人権が、個人を守るべき、いざというときに消えてなくなることがあるのです。おそるべき野蛮国です。
投稿情報: renqing | 2007-01-08 18:24
Hi-Low-mix 氏、
renquing 氏、
いずれも難しい問題ですよね。
たとえば仏国でも死刑廃止の時にはかなり多くの国民は反対していたけれど、バディンター法務大臣(だったはず)が精力的に廃止にもっていった。欧州全体が死刑廃止に向かうというのは、これはいい方向だと思っています。
基本にあるのは、国家基本概念だと考えます。たとえば米国では自由に関する概念が(宗教もからみ)、欧州とはことなっている。また大量に死刑執行を行っている中国でも《個人》に対する概念が違う。《自由》に対する概念も違う。
リュミエールに代表される《人間》という考えは、欧州的なものではなく、(またもちろん人権というのが完璧に保護される環境というのは実際には想定できないからこそ)それが普遍的でありえるんだと思います。
同時にこれは《法》概念をどう捉えるか?ということにもなる。リヴェンチが許されるのなら法はいらないはずだからです。まとまりませんが、これでいちおうレスポンスといたします。
投稿情報: 猫屋 | 2007-01-09 23:40