いい加減日々の重みとたまった書類管理に耐えかねて、丸1日遊んでしまいました。映画→ウィンドウショッピング→美術館とよく歩いた。風があって、陽がさしたり曇ったりのパリは、上着を脱いだタンクトップ姿のお嬢さんとダウンジャケットやオーバーを着こんだ人々がすれ違うあの感じです。
遅い昼食後たどりついた公園横のリュクセンブール美術館は平日だと言うのに意外に人が多くてまずびっくり。たしかにメトロ駅にも大きな広告が貼ってあったし、ことによったらTVニュースとかフィガロ週末版かなんかで報道したんだろうな。あんまり美術館にこなさそうなお年寄りも多い。あるいはまだ始まって6日目だからか。
9月13日に始まったこの展覧会、来年1月21日までなんで(入場料10ユーロ)、もっと後に行くべきだった気もします。
さて、展覧会のタイトルは Titien, le pouvoir en face “ティツィアーノ、権力を前に”となるか。全部で約60肖像(いくつかの甲冑含む)が展示されており、そのうち御大の作品は40弱か。作品の数は多すぎず、案外ちゃんと見た。
ベニスやフィレンツェですでに見ている作品もかなりあったけど、こうやって同作者の肖像画だけが並んでると、作者の傾向とか精神的・歴史的バックグラウンドが浮き上がってくる。
聖書や神話を元に書かれた作品は大きいし、物語性のほうについつい気を奪われる。(キリスト教・仏教寺院でもそうだけれど)ベニスのパレ(宮殿)では、建物全体の雰囲気とそこに昔からかけられている絵画群の調和とかの重さがあって、こういう比較的見方はなかなか出来ない。
絵描きとしての才が抜きん出ているのはもちろんだけれど、タイトルにもあるように、当時イタリアの共和国主たち、ローマ教皇、スペイン・フランスの王達そして宮中の知識人・女性達の“権力”、すなわち力・知識・魅力を極めて独特なやり方でキャンバス上に描き上げている。
そこにあるのは、なんだろう、一人の人間の瞬間をフリーズさせるやり方と、言葉を使わずにその人物の中身を見せてしまう作法とでもいうか。当時の肖像は、たとえば今の新聞やTVみたいに使われたんだろうし、もちろん彼は宮廷お抱え作家であるわけで、カール皇帝(シャルル・カン)などの大人物の影響力を高めるために、美化や理想化があって当然なんだけれど、それにしても、である。
鎌倉彫刻の僧侶の傑作像に遠くはない。絵画なのに厚みがある。フランドルの絵のようには衣服や細部にこだわっていない。あそこまで冷徹でもない。個々の人間の個性を、生きたまま抜き出して、純粋化させてフリーズしてる。いやこれでもまだ足りない。もしかしたら、ドゥールーズの言う devenir みたいなことを瞬間化してるのかもしれない。物語の瞬間化、物語が生成する瞬間を捉えること。あるいは現代性。
そして、名のない絵描きや音楽家、友人を描いた肖像の“真実”。絵画と言う“真実”。
ああ、わからない。
これは見てよかったなあ、と思った作品のひとつが、エルミタージュから来ていた若い女性像。タイトルは、羽つき帽子の若い娘。解説によるとティツィアーノの愛人だったモデルがモデルのようである。これはアタクシの勘違いかもしれないが、この女性の肖像だけが、こちらを(つまり画家を)しっかり見据えているんだよね。
あとひとつ考えたのは、ティッツィアーノ(1488-1576)がマキャヴェリ(1469-1527)を描いたらどうなってたんだろう、ということ。微妙な地域差と政権時間差があったのよね、残念ながら。
早くもいらっしゃったのですね! まだ6日目でしたかー。私はもっと早く始まっていたのかと思っていました。だいぶん前に友人も言ってましたし、私もいつかニュースで見ました。
リュクサンブール美術館はいつも混んでいるような印象があります。なぜかわからないですけど。。 去年のヴェロネーズ展も確かしーばらく経ってから行きましたが行列でした。 他の美術館と比べて高いのに意外です。 いつもいい作品が来るからでしょうか。
今回はエルミタージュからも来ているのですね。 あー、早く観たい。
投稿情報: りよんくま | 2006-10-22 10:30
ヴェロネーズ展は行かなかった。
リュクサンブール美術館はセナ(元老院)の管理なんでちょっとセレクトの仕方が国立美術館とは異なってるような気がします。保守的。(60歳以上割引ないのに)来てる人も年齢層が高い気がしました。たしかエルミタージュからは一点。個人所有のが何点かあった(Laura Dianti)し、スペイン(シャルル・カン)や米国から来てたのも何点かありました。でも10ユーロ(割引で8)は高いよね。
投稿情報: 猫屋 | 2006-10-22 13:15