まあ、古い話題ですが他に書くこともないので少しだけ。
タヒチだかハイチだかにお住みの、ホラー小説(というジャンルがあるんですね)作家の方が、自分は常習的に子猫を崖から落として殺しているという文章を新聞に掲載したと。
そしたらかなりな反響があった。反響というよりは弾劾が多かった。しかし、なんとなく分かるという反応もあった。そういうことだったと思います。
アタクシの猫屋というハンドルは必ずしも猫が好きだからではないのですが、犬も猫も案外好き、というか気が合う犬や猫は好きです。この定義は対人間でも同様。嫌いな人間よりは、気が合う猫のほうが好ましかったりします。同時に猫について、猫屋はブリジッド・バルドー的援護者とはなりえない。人間という種に対しても絶対的愛情は持ち合わせていないですね。(しかしこう書いてみると、アタクシはかなりいい加減な人間でありますな。)
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作家は、こう書くのはお名前を忘れてしまったからですが、なぜ子猫たちを崖に投げ捨てる行為を、作品つまりフィクションと言う形で書かなかったのか。これが私の疑問です。なぜ“私”という主語を用いて、あの話を投げ出したのかどうも分からない。人間全体の、あるいはこの作家自身の命に対するエゴイズムを新聞というおおやけの場にさらして、なにか効果が得られるのだろうか、これもよく分からない。自分の本の売り上げを伸ばすための話題つくり、そのためだとしたら理解できます。でも、他の動物、そして人間を殺しながら生存する人間の傲慢を描きたかったら、作品に書き込むのが作家の本筋ではないのか。
あとひとつの可能性は“びょーき”です。病気とは書きません。これはすべての人間は多少なりとも“びょーき”であるという、そのラインで、この作家の人はかなり“びょーき”なんじゃないかと感じた。(そしてたぶん、それは自分のあかんぼうについて、あるいは自分があかんぼうだったときに関してのなにか大きな傷を持ってるんじゃないかと思う。)
繰り返しになるけれど、それは作品の中で昇華させるべきものだろう。狂気は村上春樹が言うように、小説というジャンルが抱えこんでいるものであるし、これは猫の親玉的作家である村上春樹が、その作品群内での狂気とは対照的に、エッセイや紀行文ではやりすぎと思われるほどのモラリストである事実を比較してもいい。
“びょーき”と言う表現はかなり大雑把過だ。言い換えてみよう。
あの作家は何かの事情でかなり困っていて、たぶん作品の中に入れ込めきれないモノがあって、猫殺しの話を持ち出したのかもしれない。でもホラー小説家でいるっていうのはどんな気持ちがするのだろうか。猫でも殺さないとやっていけない商売なのかもしれない。
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海外に住むもうひとりの日本人作家、多和田葉子さんの本を二冊図書館で借りてきた。東京の書店で立ち読みした雑誌《世界》で、大江健三郎と日本語で小説を書く米人作家、リービ英男の対談があって、ドイツに住み、ドイツ語と日本語で小説を書く多和田葉子について語っていたのだった。ふたつの言語の狭間にあることを自覚した作家といったような紹介だったと思う。(二冊の本を読んで関心したら、何か書いて見ます。)
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今日は気温も上がって気持ちのよい1日だったけれど、東京とパリの気温差と、日本での慢性的寝不足・バランスがまったく取れてなかった食事・運動不足のおかげでしょう、まったくもって調子がはかばかしくない。それで夕食に“タチアナの赤いスープ”を作った。タチアナおばさんに作り方を習った、ビタミンが身体にしみてく食感スープです。野菜の味がみごとにあまい。以下はざっくりレシピなり。
“タチアナの赤いスープ”
赤ピーマン 大一個、二個でもいい。
人参 三本
トマト 一個か二個
クルジェット(ズッキーニ) 一本
ねぎ 一・二本
かぶ 小三個
各野菜を準備、クルジェットも皮をむき、すべてテキトウに切り圧力釜に入れてヒタヒタに水を張り、20分シュパ・シュパさせ(普通の鍋なら30-40分かかるかな)、蓋開けたらミキサーでガーっとミックスする。塩コショウそしてオリーヴ・オイルをスープ・スプーンに一杯ぐらい入れる。もう一回とろ火で5分ぐらい煮て、トロトロ具合がちょうどよければ、スープ皿に注ぎ、バターか生クリームをティー・スプーン一杯分ぐらい入れておいしいパンと一緒に食べるわけだ。
ポイント:赤ピーマンと人参以外は、たまねぎ・セロり・キャベツなど残り野菜を入れてもいいし、かぶはなくてもいい。でもジャガイモだけは入れないこと(とタチアナが言っていた)。なお、クルジェットを入れると味がまろやかになるんだが、古いものだとスープが苦くなる。(カレーにクルジェットを入れて溶けるまで煮るとウマイです。)酸っぱいのが好きな人はトマト多目、嫌いな人はトマトなしでもよし。緑ピーマンは入れないこと(緑スープになってしまうのでね)。
他にも、猫屋風クラムチャウダー、クレソンのポタージュ、アッシジ的香草スープなどを暇があって、同時に心を落ち着けたいときに作るわけです。
“タチアナの赤いスープ”
おいしそうですね。私は、不精で、不器用なので、ようやらんですが。
>たぶん作品の中に入れ込めきれないモノがあって
私もそんな気がします。それなら、了解可能です。
投稿情報: renqing | 2006-09-03 17:06
同時に、雑誌と似に掲載する“雑文”でしか収入を確保できない日本の現状もありますよね。本にするのはその後だ、見たいな。でもやっぱり変ですよ、猫殺しは。
投稿情報: 猫屋 | 2006-09-04 00:40
もうフランスなのですか。そういえばフランスに来て初めて買ったフランス語の小説が、多和田洋子のドイツ語からの仏訳でしたよ。ずいぶんと理知的な感じがしたのをおぼえております。
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ねこは天敵ですが、なんとも嫌な感じがしました。歯止めが効かなくなったオナニーというのが最初の感想で、そのために何匹もの子猫を殺すとなると、醜悪以外のなにものでもない。彼女にとって小説がもはや名声の獲得手段としては機能しなくなったのでしょう。やっかいなことです。
投稿情報: ねずみ王様 | 2006-09-08 10:34
ふむ。ねずみ・ねこ・いぬの世界でもそれなりの仁義はあるのだし、ニンゲンはそれほど超自然してるわけでもない。やっかいです。
あと、日本はしばらくの間“イリマセン”。疲れたでニャー。
投稿情報: 猫屋 | 2006-09-08 11:14