« CPE 関連クリップ、50万人を越す参加者 | メイン | アンチCPEムーヴメント -- クリップとメモ »

2006-03-18

コメント

fenestrae

翻訳おつかれさま。

で早速ですが、Il importe donc de dissiper une illusion pseudo-gauchiste ... のところ、
「したがって、おそらく何にもまして最も有害である偽-左翼的な幻想、すなわち、1980年代終わりのユーゴスラヴィアのナショナリスト派コミュニストたちは、ティトーの遺産を守るための民主社会主義プラットフォームの構築によってロボデン・ミロセヴィッチに共同して対抗するという唯一のチャンスがあったのにそれを逃してしまったという幻想を打ち消す重要性がある。」
のような感じでないと意味が通りにくいと思います。フランス語版しか確認してませんが。

(Ivica)Racan はもと綴りの Račan を尊重すればラチャン。源綴りの尊重でいえば、ミロセヴィッチだってミロシェヴィッチなのですが、まあこれは慣用上許容範囲でしょう。ただジジェクであってジゼクでないわけですが。

この記事面白かったです。1990年にミロシェヴィッチが共産党の名称を社会党に変え、東欧革命の波に乗る改革派と見えていたのに、なぜ、その後に急に好戦的なナショナリシストとして現れたのかという矛盾が、実は、矛盾でなくそこに一つのロジックがあったのだというのが分かりました。現代のナショナリズムを考える上でかなり示唆的。

fenestrae

いわずもがなの誤記訂正: ロボデン→スロボダン

猫屋

ほーい、直します。

fenestrae

ちょっと誤解を招きそうなので訂正です。
>その後に急に好戦的なナショナリシスト
これはすでに90年以前の彼のコソヴォの扱いを見れば、急にというわけではない。ただし戦争をしかけるほどのという意味では外からはあまり見えなかったと思う。
(余談ですが、セルビアで89年に憲法改正があって、コソヴォが自治権を失ったときちょうどセルビアにいてめでたそうな儀式をいろいろやっているのを目撃しました。そのあとクロアチアに移動してその話をしたら、人の反応はフンという感じで、そのとき皮相的ながら当時ユーゴスラビアの各共和国のライヴァル意識というのにはっきり気づかされたのを覚えています。)

宮本浩樹

モザイク国家を成立せしめていた二つの条件。
米ソ冷戦体制とチトー。この二つともが失われて、それが(ユーゴスラビアが)維持出来ると考えるほうが愚かだったのでしょう。

イラクもそうだし、アメリカも…そうなのかもしれませんね。

猫屋

宮本さん、どもこんにちは。
冷戦終了というのは世界史上でも他に類を見ない一大事だっと思うんで、この大枠をうまく捉えないとミロセヴィッチとナショナリズムの関連を別件まで演繹するのは難しいと思います。

ジジェクの文から直接感じたのは、大枠のタガが壊れたとき、ナショナリズムという名の下に実は“権力の不在”が居座ってしまうという指摘です。つまり『ナショナリズム』なるイズムが実際体現するのは、『なんとかVSなんとか』で括られた一方の総体であって、実際のイデーをあらわしてはいない。VSの向こうに(想定される)集団を排除することでしか自己集団維持が出来ないというメカニズムだと思います。

ジジェクがここで言うように、このミロセヴィッチ型メカニズムは他の場所でも機能してしまう可能性はあるんでして、その意味ではミロセヴィッチが国際刑事裁判の途中で死亡したことはなんとも残念であると思う今日この頃、なのですよ。

宮本浩樹

>ミロセヴィッチとナショナリズムの関連を別件まで演繹する
つもりはありませんでした。
>『ナショナリズム』なるイズム
のご本尊たる「国家」というものが、それを支える大きな枠組みと、その統合を象徴する(カリスマ)指導者という根拠を失えばいかに脆いものか…という詠嘆、と思って下さい。
もちろん人工国家イラクを支えていたのは冷戦体制そのものではなく、革命イランにたいする防波堤としてのアメリカの傭兵国家としてのそれであり……、アメリカを支えているのは日本なのかも知れず、その日本も日米軍事同盟と天皇制が「失われ」れば、果して存続可能なのだろうか?
などと、妄想モードの今日この頃です。

猫屋

>つもりはありませんでした。
いや、失礼つかまつりました。御意。自分に言い聞かせてみたというか、つまりここでのジジェクの言はあくまでミロセヴィッチ現象に関してであり、そこからの(ジジェク自身、あるいは他者による)演繹はまた別個の磁場上にうつるだろう、、といようなことでありますが。
>ご本尊たる「国家」というものが、、、
まさにそうなんだよね。
たとえばスイスにしろ、ベルギーにしろ、フランスもそうですが『民族自決』なる幻想とはまったく別のロジックで機能しているわけです、現在では。ただ日本の場合、一言語・島国で国境線つーのがなかったり、多国籍を受け入れてなかったりする『父権性国家』で、歴史の、なんと言うべきか、『自己一貫性』を信じちゃってるフリをしつつ歴史を変えていく流れがあると思うんです。日本でいろいろな議論があるのはよいことだけれども、ここでジジェクが看破するように、ロジックではなくて『ナショナリズム』というロジックの反語ですべてを絡めとろうとするテンプテーションには抗っていかなければいけないだろう。詩人的感性はあぶないんだよ、ということ。

実際には歴史学者なり、政治学者なりの、第二次世界大戦後の『国家・民族・国境』の定義をもっと今日的(冷戦後体制的)に考えていく仕事があっていいと思います。(あるのかもしれませんが)。。などとこちらも妄想の春の宵(クソ寒いですが)。

この記事へのコメントは終了しました。