今日は村上春樹に関する文章を偶然ふたつ読んだ。日本からはちょいと距離もあるここでもリアルタイムで、おまけに日本語で読めるというのは凄い。おまけに(ほぼ)タダである。ネットが一般化した当初、グーテンベルグ印刷機発明とインターネットが比較されていたが、これは正しいだろう。もちろん自動車・飛行機・テレビもリスト上に加えねばならない。
読んだ文章は内田教授の文学の世界性とはなにかと、chorolyn氏のブログ経由で見つけたベストセラー本ゲーム化会議の『アフターダーク』をゲーム化する!。
該当二冊のうち『東京奇譚集』はまだ読んでいない。ゲーム化想定の対象であるアフターダークはネブロで既に書いている。参照
一言で言えば、村上春樹の小説空間/ワンダーランドは最初からゲーム世界なのである。
村上本も参照せず、続きを書いてみよう。村上ワールドに棲む何人かの人々:ネズミ男・羊男・バーのマスター・やせて生意気だが利口な永遠少女・主人公の永遠少年、、、そして場所:ホテル・廊下・深い森の中・木小屋・井戸、、。それに動物が加わり、いつからか“悪”が加わった。
主人公の少年は、この世界のいくつかの場所を彷徨し、それらの場所に住み着いている人々と交渉、あるいはバトルする。そしてその場を後にし次のバトル磁場に向かう。場所は変化しうる。それは磁場自体の磁気の具合が変化するのだ。だがその場所の世界内での位置は不変である。そして世界で流れる時間は、極めて流動可変的だ。時間/空間をつなげていくのは必ずしも論理性ではないし、不可逆性でもない。読者はその時間の流れに呑まれる。ゲーム時間のように。
ゲーム性が一番強いと感じたのが『ねじ巻き鳥クロニクル』だった。そして、思い出してみても磁気性が一番強い部分はノモンハンに関するページだったと思う。
そして、内田教授の言うように、村上ワールドはノーマンズ・ランドである。多くのゲームが明確な国籍を持たない。
これは別の機会に書いてみたい事柄なのだが、三島由紀夫と村上春樹の類似点と相違点というのが以前から頭の中にひっかっかっている。それは物語性と身体性に関わる事項だろう。
三島の虚構性はどこまでも現実との接点を持ちえず、早すぎる死というゴールに行き着いた。それに比べ、村上の物語性には井戸という出口があるのだろう、と思う。また、この二人のストーリー・テラーがともに自分の肉体をぎりぎりまで鍛え上げていることには注意してもいいだろう。
なお、上に挙げたゲーム化会議の三島版で『ディズニーランドで自決してたらまたぜんぜんかわってたのに、意味が。』 という過激にして本質的な発言があり、ひどく納得。これは極めてするどい新型本読み術です。