休み明け以降、なにやら硬い内容のエントリが続いてしまいました。昨夜はブログ内検索ポックスを設置し、--文系、いや体育系なもんで理数はつらいというか--苦労してひと仕事終えた気になり早寝してしまった。今日こそ懸念だった《マンガの余白とブラフマン、失われた宇宙のかなたに》とかなんとか格好よく落語三題話的に書いてみたいと思ったんですが、日本時間ではもう翌日11日でも、ここでは3月10日である。結局冷戦が終わって16年目の今になって、目に見える形でのパワーバランス地すべりが世界各地で起こっていると考える私としてはいま一度、ゴドーを待ちながらグルグル思考を、進めてみたいと思います。たぶん、またしても中途半端で終わるだろうが、、 参照:2月14日エントリ《ドレスデン、東京そしてベケットなど》
東京大空襲から60年たち
2月14日のエントリで触れた3月10日東京大空襲の60周年なわけです。NHKが深夜にドキュメンタリー番組を流したらしい。(これは見たかった) 数少ない証言しか残さなかった両親や祖母の戦争を実際に生きた世代と、その孫に当たる大戦も冷戦も知らないよ、と言う次の世代の間に私自身が位置するわけですから、関係ないぜと『しらばっくれる』訳にも行かない、道理としても許されない。
重たい気持ちを抱き込みながら、検索してたどり着いたのは余丁町散人の隠居小屋 - Blog にある永井荷風の証言だ。前エントリでも参考としてあげたmatsuyama さんのサイトで見られる浅草の爆撃跡の写真と比べても、実際の東京中が住民と共に火に包まれていった《現実としての過去を》をどうやってすくいあげることができるのか、と惨憺たる気持ちになる。
レニングラードの200万人の死者たち
昨日の夜はTVアルテでドイツTVチームが製作したレニングラード包囲戦のドキュメンタリーを流していた。残念ながら雑用に追われ(というかチャンネル争いに敗北し)一部を見たに過ぎないんだが、880日続いた包囲によって長く厳しい冬と食糧不足に苦しんだ300万人と推定される同市の人口のうち少なくとも100万人、一説によれば200万にちかい人々が死んでいったと言う。 またしても言葉を失う。
番組では70歳から90歳だろう、彼女たちにとっての一張羅を着たんだろうと思えるおばあちゃんたちが、何故彼女たちは生き残れたのか、子供をもった母親たちがそれでも寒さと飢えと爆撃の毎日をどうやってた戦い続けえたのかを、たんたんと語っていた。当時の映像、共同墓地というより巨大な墓穴に次々と下ろされるシーツに包まれた屍骸。。。 ゲッペルスのもとで働いた栄養学者 Ziegelmeyer は当時のレニングラードの食糧事情と人口数を計算し『現在の食料貯蔵量では全市民が餓死するだろう』と報告したと言う。 また、これは別のところで聞いた話だが、ナチスドイツを追い詰めるソ連兵がドイツで見せた残虐さには、このレニングラードでのジェノサイドに対する報復の意味もあったと考えられている。
*
ドレスデン爆撃(旧東ドイツ)にしろ、レニングラード包囲戦(現ペテルスブルグ)にしろ、元共産圏で埋もれていたアーカイブが日の目を見るようになった。 ナチスドイツの行ったホロコーストが、“歴史上唯一の”ジェノサイドではない事実が、第二次世界大戦から時間が経てばたつだけ明白になってきていると思う。そして同時に、-これは別のエントリで書くつもりだが- グローバリゼーションと冷戦の終局の帰結として、情報のグロバリ化と暫定的に言ってみれば『世界世論』といったものが形成されつつある、と私は考える。
現在東欧・中東で起きている民主化のうねりもこの事実を踏まえないと正確には理解できないだろう。 東欧・中東、またアフリカ諸国のバックに控えていたソ連の解体があり、同時にインターネットも含めたメディア媒体のもたらした情報グローバリ化があり、それが、TSUNAMI 災害時に見せたと同様な世界規模での『世界世論』あるいは“国境なき個人意識”を可能にした。そしてその動きは、軍事による、あるいは国家レベルから降りてくる民主主義化とはことなった、“自由”を望む、つまり不自由/拘束を望まない個人レベルから起こっているのではないか。
もうひとつの忘れられた紛争 --チェチェン--
チェッチェン独立派指導者マスハドフが8日暗殺された。この件については media@francophie ブログでル・モンドのロシア各紙の報道をまとめた記事を日本語に翻訳しています(メディさん、ありがとう)。時間もないので、2・3の事項を書いてみる。
かつてのバルカン半島での紛争がそうだったように、チェチェンはヨーロッパ人が知りながらも、忘れようと努力する、そして努力しても忘れきれない陸続きのどこかで続いている紛争、である。ヨーロッパの、そしてロシアの何人かの執拗なジャーナリストが追い続けているが、彼らの記事が一流紙のページに掲載されることは極めて少ない。
スタンレイ・グリーン/Stanley Greene という米国カメラマンがそのうちのひとりだ。水俣を撮ったユージン・スミスのアシスタントだった、ニューヨークからやってきたパリの街が似合いそうなクールなブラック・カメラマンの彼はどうして、チェチェンの出口のない悲惨を撮り続けているのか。
2002年10月のモスクワ劇場占拠事件(死者129人)、2004年9月のべスラン学校占拠事件(死者350人)の際にも、本来であればモスクワ側との交渉相手になるべきだった穏健派(武装活動の終わりを宣言していた)のマスハドフだが、ロシア政府には《交渉》や《譲歩》という態度をとる意志はまったくない。そして欧州政府はプーチン・ロシアとの関係悪化を恐れて《内政干渉》を控えている。だが、チェチェンで起きているのは、パレスティナと同様に植民地戦争以外の何物でもない。
*
上に張った写真はスタンレイ・グリーンのもの。右は1997年に彼が撮ったマスハドフです。
ここで彼の写真が何枚か見られます。これらの写真を見ながら、私はある種の慨視感(デジャヴ)にとらわれる。60年前の東京・レニングラード・アウシュビッツ、そしてカンボジア・ルアンダ、、、リストはまだ終わっていない。
コメント